第126話:空からの…
夜が再び落ちてきた。
昨日、光の柱が黒雲を吹き飛ばした“あの夜”から一日――。
空はもう濁っていない。
黒雲も、あの嫌な影も消えていた。
だというのに――森はまた“息を吹き返した”。
ざわり、と。
夜の草原に音もなく波紋が走る。
「……きやがったな」
月明かりだけが草原を照らす。
森の奥から、無数の影が溢れ出した。
昨日より多い。
黒い波が押し寄せるように、地面を覆い尽くす。
「全員構え!! 矢を持てるだけ持ってこい!!」
「薬草矢はもう残り少ないぞ!!」
「いいから全部使え!! ここを抜かれたら終わりだ!!」
怒号が防壁に反響する。
黒い影は、昨日より速い。
迷いがない。
躊躇がない。
(……最後の攻勢ってとこかよ)
そこへ、ミラののんびりした声が割り込む。
「右からの群れ、いっくよ~~~?」
ドガァァァァンッ!!!
投石機が夜空を裂き、巨大な岩が森を砕く。
何十体もの化け物が吹っ飛ぶ。
だが――その穴を埋めるように、すぐ後続が湧いてくる。
「矢が尽きた!!」
「石ももう終わりだ!!」
「ミラ様ぁ! 腕が……腕が死にます!!」
「だいじょーぶ、心は元気だよ~~」
「「「心の問題じゃねぇ!!」」」
「全員構え!!! うち漏れが来るぞ!!」
怒号とともにキリサが駆け上がってくる。
蹄が石を叩くたび、火花のような音が夜に散る。
「右側の盾列、乱れている!! 下がるな、押し返せッ!!」
ケントールの重い声が響くだけで、
前線の兵たちが一斉に士気を取り戻していく。
一方バルグは防壁の下で兵の指揮を固めていた。
「怯むな! 相手は死なねぇが止まる!
止まるなら、叩け!!」
熊獣人らしい腹の底からの咆哮が、
弓兵たちの手を震わせながらも強引に安定させる。
だが。
どれだけ矢を撃っても、
どれだけ石を投げても――
黒い影は減らない。
(……このままじゃ、押し切られる)
弓兵隊も矢がつきはじめ……。
俺が剣を抜こうとしたその瞬間。
風が、変わった。
草原の草が逆立つ。
防壁上の旗が、風を逆から叩かれたみたいに揺れる。
キリサが眉をしかめる。
「……何だ、この風は」
バルグも空を見上げ、目を細めた。
「風向きが……」
そのとき――
月の前を、巨大な“影”が横切った。
帆の影。
木造船底の影。
……見間違えるはずがない形だった。
飛空船イルクアスター。
「っ……!?」
胸が跳ねる。
板を踏む音、潮と魔力の混じった匂い。
甲板を走る足音――記憶の底に沈んだそれらが一瞬だけ脳裏をかすめた。
(……思い出せ!)
だが霧の奥で指がすり抜けるように掴めない。
イルクアスターの側面に光が集まる。
キリサが驚きと警戒が混ざった声を上げた。
「空から……船だと?」
バルグの目が見開かれる。
「ナイル……お前の仲間か?」
「……たぶん、そうだ」
胸が痛いほど熱い。
その一拍後。
ドォォォォォォンッ!!!!!!
夜空を引き裂く閃光が、
黒い影の軍勢を丸ごと吹き飛ばした。
森の端がえぐれ、木々が裂け、
化け物の群れが炎に包まれる。
「な、なんだあれは……!」
「空を……飛ぶ船が……戦ってる!?」
兵たちが口を開く中、
キリサだけは息を呑み、その目を見開いたままだった。
「……あれが……お前の“支援”か……」
その声音には、
驚愕と、安堵と、ほんの少しの嫉妬が混じっていた。
バルグは鼻を鳴らす。
「……悪くねぇ。“味方”ならな」
二射目。
三射目。
空から雷のような轟音が響き続けた。
しばらくして、黒い影はみるみる後退していき、
草原の黒い波が霧散するように戻っていく。
「引いた……!」
「勝ったぞ!!」
オルデアの歓声が夜空に広がった。
イルクアスターは帆を揺らしながら高度を下げてくる。
しかし――
「……ん? なんか、船、揺れてねぇか?」
どこか弱々しい動き。
帆の紋がちらちらと明滅する。
「あれは……危険だ! こっちに来るぞ!?」
と、ウッドエルフの戦士が叫ぶ。
キリサも、舌打ちした。
「くっ……このまま落ちられたら防壁が……!」
バルグは逆に笑った。
「落ちるなら、せめて俺の上に来い! 受け止めてやる!!」
「バルグ、無茶言うな!!」
「はっはっは! 冗談だ!!」
そんな騒ぎの中――
イルクアスターは防壁すれすれを滑るように飛び、
甲板でリュカが叫ぶ。
「っぶなぁぁぁ!! 壁ちかっ!!」
「リュカ! どこ向かってるのよ!!」
「わかってるって! 押さえんの手伝えよシア!!」
そして最後の跳ね。
ドォンッ!!!!
イルクアスターはなんとか向きを変え、
防壁沿いの外に“ずるずる滑り込みながら”着地した。
リュカが身を乗り出し、
ぜぇぜぇ息を吐きながら叫ぶ。
「ふ、ふぅ~~~~っ……
ギリ……ギリッ……セーフ!!」
シアが即座に言う。
「セーフじゃないでしょ! 船がボロボロに……!!」
「仕方ないだろ? 飛ばしたの“まだ”2回目だぜ」
キリサは胸に手を当て、深く息を吐いた。
「……無茶苦茶な船だ……。
だが……助かった」
バルグは豪快に笑い、
俺の肩を叩いた。
「ナイル。お前の仲間……
気に入ったぞ!!」
俺はただ、胸を押さえた。
痛くて、熱くて、苦しい。
でも、その奥で――
何かがゆっくり、確かに動き始めていた。
イルクアスターの甲板の上。
破れた帆を背に、リュカとシアがこちらへ向かって大きく手を振っていた。
「おー!ナイルー!! 生きてたじゃんかぁ!!」
リュカの声は相変わらず元気だが、
どこか張り詰めてほどけたような、そんな響きだった。
シアも両手で大きく丸を作り、
笑顔でこちらに向かって叫ぶ。
「みんなご無事で……よかったです……!」
防壁の上の兵士たちも、
その姿を見て一気に肩の力を抜き、
安堵と歓声が街全体に広がっていく。
夜風が、さっきまでの血と煙の匂いを薄めていく。
――終わった。
たしかに、そう思えた。
……だが。
自然と、視線が森の奥へ引きずられた。
静まり返ったはずの黒い海。
その中心で――
ざわり、と。
“揺れた”。
まるで大地そのものが身じろぎしたような、
低く重い振動が足元の石を震わせた。
「……今のは何だ?」
キリサが眉をひそめ、森の方角へ目を凝らす。
バルグが鼻を鳴らす。
「……嫌な匂いがする。
あれは……さっきまでの奴らの気配じゃねぇ」
次の瞬間。
森の奥で何本もの木が、
“まとめて”へし折られた。
バキバキバキバキッ!!!!
巨木が裂け、倒れ、
森の影が大きく盛り上がる。
「……っ!? まさか……まだ続きが……?」
誰かの息の詰まった声。
イルクアスターの甲板の上で、
リュカとシアも手を止めて振り返る。
「ね、ねぇ……ちょっと……あれ……」
「……来る……何か……すごく……大きいものが……」
風が止まった。
草原が静まり返り、
夜の空気が冷たく重く沈む。
木々が押し倒され、
影がゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
――終わりじゃなかった。




