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祈りの果てに ― 無限の箱庭で笑う者 ―  作者: 酒の飲めない飲んだくれ
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第121話:過去から届く色


家の扉を開けると、

いつもの匂いがした。


木とスープと、少しだけ乾いた草の匂い。

“帰ってきた”って実感する匂いだ。


「ただいまー……」


靴を脱いで中に入ると、

リネアは台所の椅子に座っていた。


両手でカゴを抱えたまま、

ぽすんと力が抜けたみたいに。


「……ナイル……おかえり……」


「おう。買い出し、行ってたのか」


「……うん……一応、ちゃんと行ったよ……」


声が妙に疲れてる。


近づいてよく見ると、

目の縁が少し赤い。泣いたあと、ってやつだ。


(……また俺がなんかやらかしたか?)


今日は訓練場で散々槍振り回して、

銃も試して、それからキリサに別件の報告に行って――

ほとんど家にいなかった。


「体調悪いか? 顔色もあんまり……」


「だいじょうぶ……ちょっと……いっぱい、考えただけ……」


そう言いながら、リネアは小さく息を吐いた。

その指先が、そわそわと落ち着かず動いている。


「考えたって……何をだよ」


「……ナイルの、こと……」


はっきり言われて、胸が少しだけ熱くなる。

けど、その声には不安が混じっていた。


「なぁ、何かあったのか? リネア――」


「……あのね」


リネアは立ち上がり、

棚の上の小さな木箱に手を伸ばした。


蓋を開けると、

中で青い硝子の耳飾りが静かに揺れた。


(……潮の約束の耳飾り……)


俺が記憶もないまま大事に付けていた、あれ。

リネアが不安そうに見ていたから、

気を遣って外して箱にしまった。


その耳飾りを、

リネアはそっと手に取り――


近づいてきた。


「ナイル……しゃがんで……?」


「え? あ、ああ……」


言われるままに姿勢を低くすると、

リネアの指が俺の耳に触れた。


やさしく。

――でも震えていた。


カチリ、と小さな金具の音。


俺が外したはずの“潮の約束”が、

再び耳元で揺れた。


「………リネア?」


意味が分からない。


戻せって言った覚えはないし、

これは俺の知らない誰かとの“約束”の証なんだろ?


なのに……。


リネアは唇を結んで、

俺の胸元に手を置いた。


「……ナイル……これ、つけてて……」


「いや、でもお前……これ気になるんじゃ――」


「ううん……いまは……つけてて……」


リネアは首を振る。

泣きそうなのに、必死に笑おうとしてる。


その笑顔が逆に怖い。


「リネア……本当にどうしたって――」


「ナイル……」


リネアは俺の手を握り、

そのまま玄関の方へ引っ張った。


ぐいっ。


「ちょっ、な、なんだよ急に!?」


「……いって……」


「いくって……どこに!?」


説明がない。

でもリネアの手は止まらない。


玄関まで押し出され、

背中が扉にぶつかる。


リネアの指が扉の取っ手を握った。


「リネア、待て! 何が――」


リネアは俺の胸を軽く押し返しながら、

震える声で言った。


「……話してあげて……ナイル……」


「え、誰に――」


その名前を言うより早く。


扉が開いた。


外の光に押し出されるように、

俺の体が一歩外へ出る。


「うわっ――ちょ……!」


体勢を立て直しながら前を見る。


そして固まった。


「……コール……」

「……コール様……っ」


そこにいたのは――


リュカとシア。


涙の跡を残した顔で、

まっすぐ俺を見ていた。


二人の髪留めには、

潮の約束と同じような耳飾りが風に揺れている。


背後で、扉がそっと閉まる音がした。


「り、リネア!? おい、これ……お前……!」


混乱の中で振り返ると、

扉の向こうでリネアの影が震えていた。


“逃げないで”と言うように。


だけど俺にはまだ何もわからない。


ただ――

目の前の二人の“会いたかった人”が俺で、

耳には“過去の約束”が揺れていて、

背中にはリネアの押した力だけが残っていて。


胸がぐしゃぐしゃになる。


「……っ、コール……!」

「コール様ぁ……っ……!」


震える声が、夕暮れに滲んだ。


――動こうとしたわけじゃなかった。


足を踏み出すつもりもない。

腕を伸ばすつもりなんて、もっとない。


ただ胸が苦しくて、

呼吸の仕方を忘れただけで――


なのに。


俺の腕は、勝手に二人を抱きしめていた。


「……っ、コール……!」

「コール様ぁ……っ……!」


泣き崩れるように、二人が胸の中に沈んでくる。


シアの細い指が服を握り、

リュカの額が俺の肩に当たる。


温かい。

柔らかい。

抱きしめたことなんて……ないはずなのに。


なのに、胸の奥が――

ゆっくり、裂かれていくみたいに痛む。


(……なんなんだ……俺は……)


記憶はない。

二人の顔も、声も、匂いも、何一つわからない。


なのに。


腕の中で泣かれると、

どうしようもなく胸が締めつけられた。


「コール様……うぅっ……!」

「もう……いなくなるなよぉ……!」


「……っ……お、俺は……」


言葉が震えて出ない。


拒絶するはずだった。

“ナイルだ”と突っぱねるはずだった。


でも声が出ない。


喉が、焼けるみたいにつまって。


ふと、玄関に視線を向ける。


扉の向こう、

薄暗い家の中に――

リネアが立ち尽くしていた。


小さな肩が震えて、

それでも逃げずにこちらを見ている。


泣きそうな顔なのに、

その瞳は“行って”と、

“聞いてあげて”と、

“帰ってきて”と――


三つの願いを同時に抱えたみたいな、

そんな矛盾した色で揺れていた。


(……リネア……)


胸が、また痛くなる。


腕の中で泣く二人。

扉の向こうで震えるリネア。


そして――

耳飾りが耳元で揺れるたび、

心臓の奥の“空白”が音を立てる。


(なんだよ……俺……)


わからない。

何ひとつ、わからないのに。


涙がひとつ、勝手に零れた。


リュカとシアがはっと顔を上げる。


「……え……」

「コール様……泣いて……?」


「な……なんだよ……これっ……」


否定しようとして、できなかった。


自分でも理由がわからない涙が、

次から次へと目の端から落ちていく。


泣かれている二人の温かさが、

自分の中の“穴”に触れて、

そこを抉るように痛む。


ただの錯覚かもしれない。

ただの反射かもしれない。


それでも――

そんな気持ちだけが、胸の奥で静かに灯っていた。


ーーーー


理由のわからない涙が止まらないまま、

俺は二人を抱きしめていた。


「コール様ぁ……っ……!」

「ぐす……っ、ばかかよ……なに忘れてんだよ……!」


シアの震える呼吸が胸に当たって、

リュカの掠れた声が耳元で揺れる。


どちらの声も、

胸の奥の“どこか”を殴ってくる。


(なんで……俺が泣いてんだよ……)


その時。


「……ナイル……」


玄関の方から、小さく震える声。


振り返ると――

リネアが外に出ていた。


夕陽が背中から差して、

細い影が道に伸びる。


その手は、

胸元でぎゅっと握りしめられていた。


「な、リネア……?」


リネアは二人を見て、

俺の涙を見て――

そして小さく笑った。


泣きそうで、

でも誰よりも優しい笑顔だった。


「……ナイル……大丈夫だよ……

 いま……泣いてるのは……“悪いこと”じゃない……」


「リネア……?」


リネアは一歩、歩み寄る。


「……ねぇ……二人とも……」


まだ声は震えているのに、

ちゃんと二人へ向けて言葉を投げる。


「ナイルは……ナイルだよ……

 でも……コールのこと……

 思い出せなくて……ずっと苦しんでた……」


リュカが息を呑む。


「泣いてたの……

 “誰かを忘れてる気がするのに、思い出せない”って……」


そしてリネアは優しく続ける。


「……だからね……

 ちゃんと……話してあげてほしいの……

 “コール”のことを……」


リネアの声が、静かに震える。


「……思い出さなくても……教えてあげて……」


シアがぽろりと泣いた。


リュカは歯を食いしばって、

悔しそうに目元を腕で拭う。


俺は……ただその場に立ち尽くすしかなかった。


腕の中で泣きながらも、

二人はそっと俺から身を離した。


そして――


「……ナイルさん」

「……ナイル……」


初めて、

二人が“コール”ではなく“ナイル”と呼んだ。


耳元の“潮の約束”が、

風でちり、と揺れる音がした。


(……俺……は……)


名前を奪われたまま迷っていた場所に、

少しだけ――光が差した気がした。

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