第111話:保護と偽装
薬草の効き目は驚くほど早かった。
昨日まで身体を起こすことさえできなかったのに、今はなんとか上半身を起こして座れる。
「……ありがたいな、これ……」
棚の縁にもたれながら呟くと、
家の中を片づけていたキリサがちらりと振り返った。
「もう起き上がれたか。薬草とそなたの体質が合ったようだな。何よりだ」
キリサは腕を組んで満足げに頷く。
その馬脚は今日も静かで軽く、床板をほとんど揺らさない。
「無理はするなよ。まだ深い傷だ。動けばまた開く」
「ああ、わかってる。……もう少しだけ動けそうだが」
「そうやって調子に乗る者ほど、すぐ倒れるものだ」
凛とした琥珀色の瞳がこちらを射抜く。
隊長の風格なのに、どこか世話焼きにも見える。
棚から降りようとしたその時だった。
足元がふわっと揺れた──と思った瞬間、
「あっ——」
俺はバランスを崩し、
ちょうどキリサの背中、馬体の上に ドンッ と着地してしまった。
「……っ!!?」
キリサの全身が一瞬で固まる。
次の瞬間——
「な、ナイル!!! なにをしている貴様はっ!!!!」
キリサの顔が真っ赤になり、馬脚がガタガタ震える。
リネアが皿を落としそうになりながら叫ぶ。
「ナイル! ダメ! キリサの背に乗ったら……!」
「……え、乗ったら?」
「それ、ケンドール族では……異性への……“交尾の確認”………!」
「はああああああああ!!??」
理解が追いつく前に、キリサが怒号を放った。
「な、な、な、なにを考えているっ!!
い、異性の背に……っ! きききき貴様あぁあああ……っ!!」
馬体が一気に跳ね上がった。
「お、おおおい待てっ!! 俺、知らなくて……! うわっ!!」
キリサは完全にパニック状態で、
振り落とそうと暴れた。
「降りろ!!! いますぐ降りろナイル!!!
そなたとはまだ、その……っ! そんな段階ではない!!!」
「俺もそんなつもりねぇよ!!?」
必死でしがみつくが、
馬脚の蹴りが冗談みたいな威力で床を叩く。
「うおおおおおおっ!?
やめ、やめろ!! 死ぬ死ぬ死ぬ!!」
「死なぬ! だが許さん!!」
バッ、ドガッ、ガタンッ!!
キリサが大暴れし、
ついに俺は棚の横に 転がされて飛んだ。
「ぐえっ……!」
「キ、キリサ……ナイル死んじゃう……!」
「安心しろリネア。今のは手加減している……
本気なら家ごと崩れる!」
「それもどうかと思うんだが?……がふ……」
キリサは馬脚で地面を一度踏みしめ、深く息を吸った。
「……ナイル。
次に私の背に乗ったら、問答無用で“契約”だ。
いいな?」
「一生乗らねぇよ!!……いででで」
リネアは真っ赤になりながら、
震える手でナイルを支え起こした。
「……ナイル、ケンドール族は……
“背に乗る”のは本当に……特別な……意味……」
「覚えとく……絶対に……」
背中の傷より心臓のドキドキの方が強かった。
キリサは顔を真っ赤にしながら、そっぽを向く。
「……まったく……
異種族の無知は……罪だ……」
(俺だって知らねぇよ……!!)
そう心の中で絶叫しながら、
もう二度とケンドールの背には触れまいと固く誓った。
―――――
ようやく平常心に戻りつつ、俺の傷を改めてチェックした。
「……それにしても、驚いたな。
傷の治りが本当に早い。
森毒を受けていたのに発熱もいまはない。普通ではあり得ん」
「そう、なのか?」
「そうだ。
人間であれば、まだ寝たきりのはずだ」
キリサは眉を寄せる。
「ナイル。
そなた……ほんとうに普通の人間なのか?」
「…………わからん」
その一言を口にすると、
胸の奥がざわり、と揺れた。
痛みでも恐怖でもない。
ただ……何か“重たい影”が、自分の奥に沈んでいるような感覚。
名前と同じように——
自分の身体でさえ、どこか他人のものみたいだった。
キリサは深く追及するのをやめ、
静かに言った。
「……まあよい。気を取り直すぞ。ナイル、リネア。二人とも動けるのなら評議場へ向かう」
「評議場……?」
俺が聞き返すと、キリサは真剣な目を向けてきた。
「そなたらを保護対象とするかどうか、この国の者たちの前で確認する必要がある。
ここは多種族が住まう国だ。私一人で勝手に決めることはできん」
リネアが緊張して俺の袖を握った。
「私たち……どう、なるの……?」
「安心しろ。少なくとも今すぐ追い出されたりはせん。だが……森のウッドエルフと事を構えるわけにはいかない事情もある」
「……なるほどな」
痛む身体を支えながら棚から降りる。
リネアがすぐに隣へ寄り添ってくれた。
「歩けるか?」
「なんとか……」
キリサは軽く頷き、家の外へ導く。
外はまぶしいほどの朝の光が差し込んでいた。
木と石で作られた建物が並び、さまざまな種族が行き交う。
背の高い獣人、角のある者、小さな羽を動かし宙に浮く者、肌の色も姿も本当にまちまちだ。
ただ、どの者も俺たちをじろりと見る。
「キリサ隊長!」
「その二人が森から逃げてきた?」
「新人は歓迎だぜ!」
キリサは軽く挨拶をしながら歩き続ける。
たどり着いたのは、円形の大きな建物だった。
中央は開けた広場になっていて、その周囲を段になった座席が囲んでいる。
評議場に入ると、すでに多くの種族の代表が座っていた。
獣人、エルフ、ドワーフ、翼族、小柄な地底民――
本当にさまざまな姿が並んでいる。
視線が一斉に俺とリネアへ向けられた。
中央の席にいた獅子獣人が低く言う。
「キリサ、連れてきたか。……これが例の二人か」
キリサは一歩前に進む。
「はい。森から逃げ延び、我が隊が保護しました」
評議長らしき鹿族の女性が、穏やかな声で口を開いた。
「まず確認しよう。
本当の出自を――我々だけに教えてほしい」
その声音は優しく、脅しは一切ない。
“真実は聞いてよいが、外には出さない”――そんな気配だった。
キリサが俺の横で小さく囁く。
「ここで言うことは保護のため。嘘をつく必要はない」
リネアは俺の袖を掴み、震える声で言った。
「……森から……です。
ウッドエルフの掟に……わたし、もう戻れません……」
場が静まる。
俺も息を吸って告げた。
「俺は……記憶がねぇ。
ただ、森にいたのは確かだ。追われてて……逃げて……」
評議員たちは互いに目を交わし、やがて評議長が静かに頷いた。
「真実は分かった。
だが――ウッドエルフとの争いは避けたい」
続いてドワーフの議員が腕を組む。
「ウッドエルフは外敵に敏感だ。
“森から逃げた者を保護した”となれば、外交問題になる」
翼族の長も羽を揺らす。
「しかし見捨てるわけにもいかぬ。
この国は“来る者を拒まぬ”が原則だ」
その板挟みの中、獅子獣人が結論を口にした。
「――ならば外向けには、
“海を越えて流れ着いた者”とするのがよい」
鹿族の評議長が補足する。
「真実は我々だけが知ればいい。
二人の出自は保護が解かれるまで伏せる。
国としても、森と余計な軋轢を生まぬための判断だ」
キリサは静かに二人を見つめた。
「ナイル。リネア。
そなたらがこの国で生きることを望むなら……
この“保護としての偽装”を受け入れてほしい」
リネアは即座に頷いた。
「……ここに、いたい……!」
俺も呼吸を整えて答えた。
「……助けてもらった。
ここで生きられるなら、文句はねぇよ」
その瞬間――
評議長が席を立ち上がり、高らかに宣言した。
「よって本日より、
二人は“オルデア同盟国の保護民”とする。
国は二人の出自を秘匿し、海から来た者として扱う。
ここが、新たな住処となる」
評議長の宣言が響いた瞬間だった。
胸の奥に張りつめていた何かがぷつりと切れたように――
足の力が、一気に抜け落ちた。
「――あっ」
気づけば、その場にへたり込んでいた。
「ナイル!?」
「おい大丈夫か!?」
「毒の後遺症か!?」
「水を持ってこい!」
気づけば、さまざまな種族の評議員の声が俺のまわりを囲んでいた。
鹿族の評議長が心配そうに身を屈める。
「無理をさせてしまったか……?」
「だ、大丈夫だ……ほんと……」
尻をついたまま、俺は思わず苦笑した。
「わりぃ……なんか……
やっと気が抜けたせいか、腰が抜けただけだ……」
正直、ずっと恐怖で張り詰めていた。
殺されるかもしれない。追われるかもしれない。
国の判断ひとつで俺たちはどうにでもなる。
ようやく――
助けられたんだ、と身体が理解したのだろう。
キリサが慌てて俺の腕を支える。
「まったく……驚かせるな。
腰が抜けただけならまだ良いが」
それでも声はどこか優しい。
リネアは今にも泣きそうな顔で俺の隣にしゃがみ込む。
「ナイル……っ……よかった……っ……!」
俺は周囲を見上げながら、深く息を吸った。
さっきまで遠くに感じていた評議員たちの顔が、
今はほんの少しだけ柔らかく見える。
俺は座ったまま、頭を下げた。
「……ありがとう。
ほんとに、助かった。
見ず知らずの俺たちを……受け入れてくれて……」
獅子獣人が腕を組んだまま、どこか誇らしげに笑う。
「礼などいらん。
困っている者を助けるのはオルデアの流儀だ」
翼族の長が羽をぱたぱた揺らす。
「だが無茶はするなよ。
治ったとはいえ、完全ではあるまい」
ドワーフがぐいっと髭を撫でて言う。
「腰が抜けるほど緊張しとったんなら、
今日はもう休んでええ」
評議長も穏やかに頷いた。
「ようこそ、オルデアへ。
ここは、そなたたちの新たな居場所となる」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……生きていい場所が、できたんだな……)
キリサが俺の肩を軽く叩く。
「さあ立てるか、ナイル。
ここで寝泊まりするわけにはいかんぞ?」
「……ああ。今なら、たぶん」
ゆっくりと立ち上がりながら、俺は深く息を吸った。
“海を越えて流れ着いた者”という嘘は必要だとしても――
この国が本気で俺たちを守ろうとしているのは、
もう疑う余地はなかった。




