第110話:名をくれる者
——暗い。
瞼を開けたはずなのに、天井が近すぎる。
(……どこだここ……?)
鼻をかすめたのは、湿った木と藁の匂い。
周囲に広がるのは、押し入れみたいに狭い木の空間だった。
身体を起こそうとした瞬間——
「……っ……!」
背中に火を当てられたみたいな痛みが走り、その場で硬直した。
(そうだ……矢……刺さって……)
思い出しかけた途端、頭がガンと揺らぐ。
そこから先の記憶が、霧みたいに全部ぼやけていた。
「……ッ」
喉は砂みたいに乾いていて、声がまるで出ない。
わずかに身じろぎしたその音に気づいたのか——
木の引き戸の向こうで布の気配が動いた。
「……みず……っ」
か細い声。
扉が少し開き、白い影が滑り込んできた。
「起きた……!?」
白髪。黒い肌。
大きな瞳が、安心したように揺れる。
——リネア。
森で一緒に逃げた少女。
リネアは急いで小さな木皿を抱え、壺から水をくんできた。
「飲める……?」
首を動かすだけで背中に痛みが走る。
それでも俺は、かすかに頷いた。
リネアは俺の頭をそっと支え、皿を口元に傾けた。
「……ゆっくり……」
冷たい水が喉を通った瞬間、
身体が生き返るみたいに震えた。
「っは……助かった……」
声がようやく声らしく出る。
リネアは胸に手を当てて、小さく息を吐いた。
「よかった……ほんとに……よかった……
あのまま目を開けなかったら……どうしようって……」
白い髪が肩で揺れる。
俺は痛みに耐えながら、周囲を見回す。
狭い。
寝返りもろくに打てない檻みたいな部屋。
「……どこだ……ここ……」
リネアはゆっくり首を振った。
「わたしも……よくは分からないの……
でも……あなたを運んでくれた人たちが……
“ここなら安全”って……」
(……安全……?)
何がどう安全なのかは分からない。
ただ、今の俺は動ける状態じゃないのだけは確かだった。
「……お前……ずっとそばに……?」
「うん……」
リネアは、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「……名前……なんて呼べんばいい?」
胸の奥が、ざらりとした。
俺自身が——知らない。
喉が小さく震える。
「まだ……わからねぇんだ。思い出せねぇ」
リネアは驚かなかった。
ただ、小さく瞬きをして——
「……じゃあ、私がつける」
リネアは膝の上で指をぎゅっと握り、
小さく息を吸い込んだ。
「……だって……呼べないままじゃ……困るし……」
視線は落ちたまま、でもその頬はほんのり赤い。
俺は痛みで荒れた呼吸を整えながら、かすれ声で訊いた。
「……つけるって……何を……?」
「……“名前”」
顔を上げたリネアの瞳は、
どこか祈るみたいな、真剣な光を宿していた。
「あなたに……私が呼ぶ名前……
思い出すまでの、仮の……じゃなくて……
ちゃんと、“あなたのために”」
細い指が、藁の上に落ちている俺の手を探す。
冷たい。そのくせ震えている。
「……私のせいで、あなた失いかけてた……
怖かった……ほんとうに……」
白い髪が視界にかかる。
「だから……生きてるあなたを呼ぶ名前……
欲しい……」
胸の奥が、どくっと揺れた。
(……なんだよそれ……)
不思議な感覚だった。
わからない自分の名前を、
知らない誰かがつけようとしている——
なのに嫌じゃない。
リネアはそっと考えるように目を伏せ、
ぽつりと呟くように言った。
「……“ナイル”……どう……?」
その声は震えていたけれど、
迷いよりも“願い”の方が強かった。
「ナイル……?」
俺が繰り返すと、
リネアは小さく頷いた。
「古い言葉で……“流れを運ぶ人”っていう意味……」
白い髪が、ひどく綺麗に揺れた。
「……あなたが、わたしを……森から連れ出してくれたから……
本当に……“連れ出して”くれたから……」
胸が、締めつけられる感じがする。
リネアは続けた。
「……それに……あなたには……
どこか優しい風みたいな……そんな感じ……」
頬が赤く、視線は泳いでるのに、
声だけは真っ直ぐだった。
「だから……“ナイル”がいい……あなたに、そう呼びたい……」
喉が少しだけ熱くなる。
(……名前、か……)
俺が思い出せない“本当の名前”の代わりに、
この少女がくれた名前。
不思議と、胸の内の空白が満たされていく。
「……悪くねぇな」
かすれた声で言うと、
リネアは驚いたように息をのんだ。
「ほ、ほんとに……?」
「ああ。気に入った。
今日から俺は……ナイル、だ」
微笑むと、リネアの瞳が一瞬で潤む。
「……ナイル……! よかった……すごく……よかった……!」
その呼び方が、
ひどく自然で。
(……俺は、ナイル……)
そう胸の中で呟いた瞬間、
ようやく“生きている自分”を少しだけ信じられた気がした。
―――――
リネアが涙を拭い、ようやく落ち着きかけたその時だった。
コト、コトン、と乾いた音が地面に伝わってきた。
軽い――
けれど規則正しく速い歩幅。
(誰か来る……?)
リネアがビクッと肩を揺らす。
木の家の外側で、何かが柔らかく地面を蹴る音が一度止まり——
さらりと草を払う気配とともに、家の入口の布幕が押し上げられた。
「ただいま戻ったぞ。……おや、起きているのか?」
低めの、澄んだ女の声。
入ってきたのは――
金髪を高く結んだポニーテールの女性。
上半身はしなやかで筋肉質な人の体。
腰から下は、艶のある栗毛の馬の四肢。
たしか種族は——ケンドール族。
背は高いが、足音は驚くほど軽い。
馬の脚なのに、まるで風のように静かだった。
彼女は木棚の高さに視線を向ける。
そこは俺が寝かされている“押し入れの上段”だが、
ケンドールにとっては目の高さにちょうどいいらしい。
「ほう……気がついたか。思ったより早いな」
その琥珀色の瞳が、俺をまっすぐ見上げた。
リネアは慌てて頭を下げる。
「キリサ……! ……ナイルが……!」
「ナイル?」
ケンドールの女性——キリサが片眉を上げる。
「そなたの名か?」
俺は喉を鳴らし、かすれ声で答えた。
「……みてぇだな。リネアが、つけてくれた」
キリサは少しだけ微笑んだ。
横顔は鋭いのに、不思議とあたたかい。
「名をくれる者がいるのは幸運だ。
ここでは、それは“生き残れ”という祈りと同じ意味だ」
リネアが照れたように肩をすぼめる。
キリサは軽く息をつき、俺の傷の様子を見ながら言った。
「動くなよ、ナイル。背に刺さっていた矢はすでに抜いたが……
出血がひどかった。しばらく寝ている方がいい」
近寄ったキリサの馬脚がやわらかく床を踏む。
静かで、軽い。
「……助けてくれたのは、あんたか?」
俺がそう問うと、
キリサはほんの少しだけ顎を引き、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだ。迎えに行ったのは私だ。
森の縁で人間と白髪のエルフが逃げているという報せを受けてな。」
その言い方は淡々としているのに、妙に頼もしい。
「……じゃあ、あそこで……助けてくれたのは……」
「ああ、私だ。
ウッドエルフの追跡隊が迫っていた。間に合ってよかった。」
キリサは俺の寝ている棚に近づき、軽く背中の様子を見る。
「ナイル。
私はオルデア同盟国《ケンドール騎兵隊》の隊長——キリサ・ラングロードだ。」
(隊長……?
そりゃ強ぇわけだ……)
キリサは栗毛の脚をわずかに動かし、
その体躯の軽さとは裏腹に騎兵特有の力強い気配をまとっていた。
「そなたを運んできたのは私と部隊のものだ。
リネアも無事だったから、迷わずここへ連れてきた。」
リネアが小さくうなずきながら言う。
「……キリサが来てくれなかったら……私たち……」
「泣くな、リネア。
私はただ“決まり”を守っただけだ。」
キリサはリネアの頭にそっと手を置いた。
「オルデアは、“助けを求めた者を見捨てない”。
たとえそれが外から落ちてきた得体の知れぬ者でもな。」
その言葉は静かで、けれど揺るぎない。
俺は荒れた呼吸のまま、呟いた。
「……借りが……できたな……」
「礼はいい。治るまでは、ここで寝ていろ。
動いたらまた血が吹く。」
言われるまでもなく身体は鉛みたいに重い。
背中の痛みはまだ、生きてる証みたいに熱を持っていた。
「それに——」
キリサはふっと表情を崩し、口角を上げた。
「ナイル、名前をもらったばかりだろう?
なら、簡単に死ぬな。名をくれた者が悲しむ。」
リネアは耳まで真っ赤になり、
両手をぎゅっと胸の前で握りしめる。
「キ、キリサ……っ……!」
キリサは笑いながら立ち上がり、
棚から少し身を引いた。
「薬の準備をしてくる。
ナイル、もう少しだけ頑張れ。」
軽い足取りで外へ向かう。
栗毛の四肢が踏む音は、やっぱり風みたいに静かだった。




