第94話 水底のもの
少女の幻が海面を歩き、ぱしゃん、ぱしゃんと足音を立てる。その煌めく影のような、霧のような少女に魅入られて、名坂警部補が海へ向かう。
呼び止める五郎の声も届かず、手をかけて制止しようとする千里の手も振り払って、ぱしゃん、ぱしゃんと海に入っていく。ぼんやりと輝く少女の幻まで数歩というところで、間に割って入るように、もうひとつの幻が出現した。
それもまた十歳くらいの少女のようで、ぼんやりとした少女らしき影二つ、向かい合う姿は瓜二つ。後から現れた影が、きゅっと収束したかと思うと、はち切れんばかりに光を発した。
その光を受けた最初の影がぼろぼろと崩れ、後に残ったのは海面に突き出た腐った木の枝だ。茶柱のように浮かぶ枝の先、真っ直ぐに海の底まで照らし出す日の光は、気味の悪いものの姿を暴き立てていた。
ゆらぐ海面の下、それは不愉快そうに、もぞりと動いた。手足はない。目もなく、鼻もなければ耳もない。わずかに開いた切れ目から、ぶくぶくと泡を吹いているが、それが口であるかどうか。
水底の砂を捲き上げ、透き通った水とは対照的に、重く濁った泥土のような芋虫然とした身体をよじって、じりじりと這い進む。その歩みは遅いが、海中に立つ名坂警部補は何かどろりとした物に足を取られて自由に動けず、少しずつ後ずさりする。
浅瀬にかかったところで、手も足も、目も耳も鼻もない重苦しい塊が、ざばりと半身を現した。同時に鼻をつくのは腐った溝川のような匂いだ。巨大な身体に日が当たり、焼け爛れて腐っていく。海から出ることを禁じられているのではないかと感じさせる。
ごぼごぼと、言葉か、鳴き声か、はたまた身体を撫でる波の立てる音か、何とも知れぬ、言い知れぬ不快な音を立てて迫る。そこへ、
「ようやっと、わての出番や!」
「ふん、あなただけに任せてはおけません」
と名坂警部補の肩に飛び乗って、蜜柑が御札を手にし、佳乃は腰に佩いた刀を構えてみせた。
そんな様子が見えているのかいないのか、芋虫然とした巨体を持ち上げ、口らしき裂け目を開くと、それは粘つく糸状のものを吐き出した。名坂警部補を捉え、御札を構えたままの蜜柑をも捉える。あわや、海へ引きずり込まれるかと思うも、カチンと微かな音がして、すでに妖しの糸は断ち切られていた。佳乃が刀を鞘に収める。
「蜜柑! 何をしているの。早く御札を」
「わ、わかっとるわい! そやけど、なんや波の音を聞いとると調子が出ぇへんのや。あかん、なんか涙が出てくる」
「はぁ? なに言ってるのよ。さっさと……」
言いかけた佳乃の頭上から大波が落ちかかる。芋虫然とした化け物が勢いよく倒れ込み、大波を引き起こしたのだ。
「あかん、御札の文字が流れてしもた」
「わたくしも、式札が濡れて力が出ません」
つぶやく蜜柑と佳乃を救ったのは美琴と葛音の姉妹だ。加えて五郎に将吾、狭間巡査らが名坂警部補を砂浜へ引っ張り上げる。
オブジェのごとく身をもたげ、妖しのものが嫌な音を発すると、沖合いで、ぐぅと海面が盛り上がった。砂浜へ近付くに連れ、大きなうねりの波となり、人の背丈を越す高さとなって押し寄せてくる。それと認めた名坂警部補が、他の連中を砂浜の奥へ、陸の方へと突き飛ばすように押しやった。




