第95話 奉納
化け物が引き起こした大波が押し寄せ、名坂警部補を呑み込んでいく。崩れ落ちる波が海面に届く寸前、轟音とともに波が吹き飛んだ。
砂浜に投げ出された名坂警部補の目に映ったのは異様な光景だった。みるみる海が引いて行き、浅瀬のあたりは、すでに濡れた水底を露わにしていた。そこでは、手も足も、目も耳も鼻もない芋虫然とした巨体を捻れさせて、妖しのものが日の光に焼かれてもがいているのだ。
波を吹き飛ばし、海を押しやったのは、スーの兄ヤンである。影の薄い男というのも仕方なし、その身は朧気な生霊なのだという。いったい何をしたのかと目で問う名坂警部補に、物言わぬヤンに代わってスーが答えた。
「兄様の術で海を押し戻しました。言ったでしょう? いろいろ準備をしてきたと。自然の理に反しておりますから二度はできませんが。蜜柑様、とどめを」
「おう! 任しとけ」
砂浜に広げたレジャーシートの上に、んべっと、硯と筆、白紙の束を吐き出した。おもむろに墨をすりだした蜜柑だが、傍らから、
「のんびりせんと、はよ書きないて」
と、早苗が墨汁を流し込んだ。
「そんな市販の墨汁、やめてぇな。いちから擦らんと、ええ字は書けへんのに」
「んなこと言うてる場合と違うやろ。ええから、さっさとおし!」
「お、おおう。わかった、わかったから、デコピンせんといて」
まったくもう、と、ぶつぶつ言いながら御札を書き上げる。書かれた文字は、『奉納、干し海鼠』である。
「よっしゃ、できたで。気味の悪い、海鼠の化け物みたいな格好をしよってからに。天日に干して食うたろかい」
すいと飛んだ御札が張り付くや、化け物の体表に残っていた水分が蒸発し、からからに乾いていく。乾いた端から日の光に晒され、崩れ落ち、巨体が折れ曲がった。これでもう終わりかと思うも、化け物の最期を見届けんとしていたスーの表情がぴくりと動き、視線をあげて沖合いを見る。
……遠くで、海鳴りが響いていた。




