第96話 奏上
手も足もなく、目も鼻も耳もない芋虫然とした化け物は、日の光に身を灼かれ、崩れて消えて行きそうな按配だ。しかし、その様子を見守っていたスーが眉をひそめた。
「おかしい。なぜ、まだ生きている? 皆様、それには決して近付かぬよう」
視線をあげて沖合いを見ると、ずっと遠く、海面が大きく盛り上がっていることがわかった。彼方から、重い海鳴りが聞こえてくる。
「これは、波が来ます! 大きな、大きな波が。ここだけではない。砂浜すべてを覆い尽くすような。逃げる? いや、これはとても逃げられるものではない」
珍しく狼狽した様子のスーに、名坂警部補が声をかけた。
「この化物は私を狙っているのだろう? 何十年も前に喰らい損ねた私を。それなら……」
と木の枝を手に、化け物に向かって歩き出した。
「私が行けば良いのではないか? ひかりを死なせてから、ずっと死に場所を求めて生きて来たようなものだ。私など死んでも構わない。世話になったな」
と振り返った名坂警部補の横面を千里が殴りつけた。ぐらつくその胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「二度とそんなことを言うんじゃない! そんなものは勇気じゃない。ただの焼けくそだ!」
「そうですよ。死んだら守れない。でしょう?」
との狭間巡査の言葉に、名坂警部補が大きくうなずいてみせた。
「そうか、そうだったな。諦めては駄目か。スー、何か手はないか」
「あります。あの波で、逆に化け物を海へ送るのです。穢れを流し、浄化させる。これほどの波は予想していませんでしたが、幸い、ここにはこの地の神守りがおられます。月子様、神送りの儀を」
「あ、そういえば、一応、準備をしておいてほしいって言われてたんでしたっけ」
大波が迫り来る中、相変わらず、ふわふわとした調子の月子さんである。
「えーと、まずは名坂さんの枝を海鼠さんの前に立ててください。はい、そして」
ぴたりと両手を合わせ、祝詞を奏上する。その声は、やわらかく、あたたかく、ふうわりとした風のように響いた。砂に突き立てられた木の枝が、しゅくしゅくと乾いた音を立てて崩れ去る。
化け物の体表も、同じく乾いた音を立てて砕け、潮風に舞った。その内部はがらんとした空洞で、成虫が飛び立った後の蛹のようだ。
しかし、よく見ると、その中には大小様々な死体が詰まっていた。海の生き物だけでなく、陸の動物、また人もだ。子供の死体、首のない死体、斬られた死体、ぶくぶくに膨れた死体、腐った死体、原型を留めない死体まで。
その不快な光景と異臭に、一瞬、祝詞が止まった。と、もはや動くことはないと思えていた化け物がもぞりとする。白い糸を吐き出し、しゅるしゅると月子の口を覆った。あわせて、その場の者を巻き取り、海へと引きずりこんでいった。
大波も、目に見えるところまで迫り、周辺の砂浜で海水浴を楽しんでいた人々が、迫る大波に気付き、悲鳴をあげて逃げ出し始めていた。




