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第93話 目の端に幻を
立ち上がった名坂警部補の耳に、波の音に混じって歌が響いていた。頭の奥から、脳髄の奥から浸み出してくるように。
人が発するとは思えぬ旋律に溺れる。
海へ向かって、一歩、また一歩と足を進める。その行く手に黒猫のジジがちょこんと座り込み、苦しげな名坂警部補を見上げた。
にゃおん、
鳴くと同時に、脳髄に響いていた旋律が乱れる。外から別の歌が飛び込んできたのだ。力強く、それでいて透明感のある柔らかな声で歌うのは夏野千里だ。バンド仲間の理奈と将吾も歌を重ねる。外から響く歌に押しやられ、妖しの歌が波のように引き、静かに消えていく。名坂警部補の足が止まった。
指揮をとるように、スーが手を振って合図をし、千里が口を閉じる。中からも外からも歌が消え失せ、波の音だけが響き、名坂警部補が振り返ろうとしたところ、目の端に海面の煌めきが映った。
ぱしゃん、ぱしゃん、
音を立てて煌めきが波間に跳ねる。淡い光の塊が真夏の海の上を歩いて、それは十歳くらいの少女のよう。ワンピース姿の少女と感じるのに、目を凝らすとぼやけてしまう。一方、目の端に置くと、その顔立ちまでわかるような。
「ひかり、お前なのか」
名坂警部補の呼びかけに、幻のごときその光の塊が、海上に立って、にっこりと笑った。




