第92話 人外の歌
海にまつわる忌まわしい思い出を抱えた名坂警部補は、何十年ぶりかの海で、照りつける真夏の太陽の下、独り、凍えていた。
「寒いな。頭では寒いわけがないとわかっているのに、寒くて、寒くて、体が震えて仕方がない。耳の奥で、あの歌が聞こえているような気がする。海へ向かって歩いて行きたいような。そのまま沈んで消えてしまいたいような……」
名坂警部補の言葉に頷いて、スーが問う。
「これまで海に来ることはなかったのですか?」
「何度も思ったさ。実際、何度も海の近くまで来た。だが、海が見えると、波の音が聞こえると、体が震えて近づけなかったのだ。こうして、ここに立っていられることが不思議だよ」
「うふふ、皆様がそばにいますから。貴方の重荷を少しずつ担ってくれているのですよ。しかし、これから、さらに辛い思いをしていただくことになります。覚悟はよろしいですか?」
「もちろんだ。ひかりを救えるのなら、どうなっても構わない」
その言葉に微かに眉を顰めるも、すっと息を吐いて、スーが一同を見回した。
「皆様、同じく覚悟はよろしいでしょうか。私も兄も、できるだけの準備はしてまいりました。手練れの式神や禍つ神もおり、安心していただいて結構。ただし、何事にも万全ということはない。命あっての物種と申します。危ういと思えば、自分の身を優先で願います」
一同が頷くのを認めて、それではとポケットから取り出した銅像を砂上に置き整えた。
「人払いの貴人像です。関係のない方々には離れていただきましょう。中の様子は見えていても気にならない、そのように。
これより過去をなぞり、行いをなぞり、道筋をなぞります。ひかりさんが亡くなった時と同じ形を作るのです。名坂様のほか、千里様、五郎様、狭間様、美琴様でお願いしましょうか」
淡々と指示をするスーのいうまま五人で輪を作り、手頃な枝を見繕って当時を再現する。
「海には魔物が棲むと言います。数十年前、名坂様が呼びかけてしまったのは、そのうちの一つでしょう。離岸流や土用波の奥に潜み、陸の生者をねたみ、海の底へ引きずりこむのです。では、始めましょう」
と過去をなぞって狐狗狸さんに取り掛かった。形をなぞり、『順に手を離せ。最後の一人をもらう』と砂上に書きつけたところ、もぞりと木の枝が目覚めたような感覚があった。
さらに、美琴が、狭間巡査が、五郎が、順に手を離した。昔を思い出してか、名坂警部補は脂汗を流して歯を食いしばっている。千里と二人で木の枝を握りしめていたが、スーの合図で、奪い取るように、それを手にした。
木の枝を捧げもつ名坂警部補の耳に、どこの国の言葉とも、果たして人の発する言葉ともわからぬ歌が響き始めていた。




