第八十五話 最後の約束
記憶の部屋に、静かな沈黙が落ちた。
シロはアベルの前に立っている。
「話して。」
「ああ。」
アベルはゆっくり目を閉じた。
「千年前、お前が眠る直前。俺とお前は二人で話した。」
「何を?」
「お前は、自分の力を封じることを決めていた。」
シロは黙って聞いていた。
「王たちは、お前を恐れていた。黒衣の男は、お前の力を狙っていた。」
「だから私は眠った……」
「ああ。だが、それだけじゃない。」
アベルは拳を握った。
「お前は、自分が目覚めた時に、また誰かに利用されることを恐れていた。」
「……私が?」
「そうだ。」
アベルはシロを見つめる。
「だから、お前は俺に頼んだ。」
「何を?」
「もし千年後に目覚めた時――俺がお前の敵になっていたとしても、絶対にお前を殺さないでくれ、と。」
「……!」
柚が息を呑む。
「殺さないでって……どういうこと?」
アベルは答えた。
「お前は、自分の力が誰かに利用されるくらいなら、自分自身を消してしまうかもしれないと思っていた。」
「そんな……」
シロの顔から血の気が引いていく。
胸の奥が、強く痛んだ。
ぼんやりとした記憶が浮かぶ。
暗い場所。
目の前にいるアベル。
そして、自分の声。
『もし私が、もう私じゃなくなっていたら』
『その時は……私を止めて』
シロは頭を押さえた。
「……思い出した。」
「シロ?」
「少しだけ……」
視界の中に、千年前の自分が映る。
泣いていた。
それでも笑おうとしていた。
『アベル。約束して』
『何を?』
『私が間違った道を選んだら……必ず止めて』
アベルは苦しそうな顔をしていた。
『そんな約束、したくない』
『でも、お願い』
『……分かった』
そして――
『ただし、俺も約束する』
『?』
『お前がもう一度目を覚ました時、俺が生きていたら……必ずお前を迎えに行く』
記憶が途切れた。
シロは目を開ける。
「……そうだったんだ。」
アベルは何も言わない。
「だから、あなたは私の記憶を消したの?」
「ああ。」
「私が……自分を消そうとしないように?」
「それもある。」
アベルは静かに答えた。
「お前が千年前の恐怖に縛られず、新しい人生を選べるようにしたかった。」
シロは俯いた。
しばらくして、顔を上げる。
「ありがとう。」
「……え?」
「記憶を消したことを、まだ全部許せたわけじゃない。」
シロは正直に言った。
「でも……私を生かすためだったことは分かった。」
アベルは目を伏せた。
「それだけで十分だ。」
すると、突然――
部屋の奥から、低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……。
「何?」
柚が振り返る。
古代の魔法陣が、床に浮かび上がっていた。
シロの銀色の紋章も同時に輝く。
「……これは?」
ルークが魔法陣を見つめる。
「記憶の部屋が、まだ何かを隠している……?」
魔法陣の中央に、一本の道が現れた。
その先には――
黒い扉。
扉には、千年前にはなかった文字が刻まれている。
『魔王の力を奪った者』
暁が眉をひそめた。
「……誰のことだ?」
シロは、その文字を見つめた。
そして、なぜか胸の奥に嫌な感覚が走る。
「分からない。」
だが――
扉の向こうから、確かに何かの気配がした。
黒衣の男とは違う。
もっと古く。
もっと深い何か。
シロは拳を握った。
「……行こう。」
「シロ、危険かもしれない。」
柚が心配そうに言う。
「分かってる。」
シロは頷いた。
「でも、ここには私が千年前に残したものがある。」
そして扉へ向かう。
「全部、取り戻す。」
黒い扉が――
ゆっくりと開き始めた。




