茨の庭の迷子
あの日、これまで決して誰のものにもならなかった我が主が、あまりにも電撃的な求婚の書状をオルブライト伯爵家へ送られた時から、私は予感していた。これは帝国の歴史に深く刻まれる、至高の純愛の始まりなのだ、と──。
大公家筆頭秘書官であるハンスは、執務机に向かう主の姿を、胸の奥で涙を流さんばかりの感動とともに見つめていた。
主である大公、アルシード・フォン・ベルンシュタインは、帝国中の令嬢たちを虜にしてやまない、稀代の美貌と洗練された知性の持ち主である。流される浮名は数知れず、常に社交界の中心にいながらも、その実は誰一人として心の奥底へ踏み込ませることはなかった、孤高のプレイボーイ。
その閣下が、あの日、どこかで一目惚れをされたというオルブライト伯爵家の愛娘、メリッサ嬢に熱烈な求婚をされ、電撃的に婚約が成立してから、早くも三ヶ月の月日が流れていた。
(ああ、なんと素晴らしいことだろう。かつて浮名を流した美女たちの誰一人として辿り着けなかった閣下の懐に、ただ一人、あの可憐な薔薇だけが深く根を下ろしたのだ)
ハンスの脳内ロマンスは、この三ヶ月間で最高潮に達していた。
閣下は連日の過密な政務の合間を縫っては、毎週末、それどころか週に何度も、愛しいメリッサ様の元へと足繁く通われているのだ。帝国一の美女と謳われる高嶺の花に完全に骨抜きにされ、四六時中彼女のことで頭がいっぱいになられているに違いない。
「……はぁ」
その時、静かな執務室に、アルシードのどこか哀愁を帯びた溜息が響いた。
万年筆を握ったまま、その漆黒の瞳は書類ではなく、遥か遠い虚空を見つめている。端正な唇に浮かんでいるのは、もはやこの現世に魂が留まっていないかのような、どこか神聖さすら感じさせる儚げな微笑みだった。
(おお、まただ。またメリッサ様の面影を思い出して、恍惚としておられる……! 政務の最中だというのに、恋焦がれるあまりに意識が文字通り遠のいてしまわれるとは、まことに微笑ましい。だが、お命が心配だ)
ハンスはそっと足音を忍ばせ、極上の紅茶を湛えた磁器のカップを机へと置いた。
憂いを纏った深い声音で、主へと語りかける
「閣下。連日の過密な政務に加えて、毎週末のようにメリッサ様の元へお通いになられては、いかに強健な閣下とてお体が持ちません。あまり無理をなさらず、本日は邸でゆっくりと休まれてはいかがですか」
忠実な側近の言葉に、アルシードは一瞬、現実の世界へと意識を引き戻した。その端正な顔に浮かぶ完璧な貴族の微笑みは崩さないまま、心中で深く、あまりにも深く天を仰ぐ。
(無理をしている、だと? ハンス、お前の言う通りだ。私は、私の胃は、すでに限界を迎えている……!)
アルシードのリアルな内情は、ハンスの美しき誤解とは銀河の彼方ほどに乖離していた。
求婚の動機は、政争を回避するための完全な『ビジネス婚約』である。惚れるも溺れるもあるはずがなかった。それなのに、なぜ自分がこの三ヶ月間、頻繁に伯爵邸へ足を運ぶ羽目になっているかといえば、すべてはあの恐るべきオルブライト家の男たちのせいだった。
──公式警備。特別休暇。首都防衛査察。 あらゆる公務と職権を極めて優雅に乱用し、愛するメリッサの周囲を完全包囲する、オルブライト家の重度な愛娘至上主義集団。あの大将軍を筆頭とする男たちの、常軌を逸した無言の圧。
彼らはアルシードがメリッサに近づくことを嫌悪しつつも、もし大公としてのエスコートや婚約者としての義務を少しでも怠り、彼女を蔑ろにするような真似をすれば、即座に「我が家の宝を何だと思っている」と大公家の血統ごと歴史から抹殺しかねない殺気を放ってくるのだ。
そのあまりの理不尽さと精神的疲労が、彼をメリッサの元へと走らせているに過ぎない。
「……ハンス。お前の気遣いには感謝する。だが、こればかりは、私自身の義務……いや、宿命のようなものなのだ」
アルシードは、どこか運命を受け入れた殉教者のような声音で静かに告げた。
しかし、ハンスの耳にはそれが『運命の愛という名の宿命』にしか聞こえなかった。ハンスは深く胸を打たれ、瞳を潤ませる。
「宿命、でございますか……。ああ、それほどまでにメリッサ様は、閣下にとって特別な存在になられたのですね。誰の手にも届かなかった帝国一の美女を、毎度その手でエスコートし、片時も離したくないと思われるお気持ち、このハンス、痛いほどによく分かります」
「エスコート、か……」
その言葉に、アルシードの微笑みが、ピキリと微かに凍りついた。
プレイボーイとしてのプライドが、じわじわと、しかし確実不穏な熱を帯びていくのを感じる。 この三ヶ月、アルシードは己の持てるすべての洗練された口説き文句を惜しみなく投入してきた。恋愛感情はない。だが、この社交界で陥落しなかった女などいなかったという、男としての矜持の証明。それだけだった。 それなのに。
(……なぜだ。なぜ、何の手応えもない……!?)
目の前で、顔を赤らめて可憐に照れてみせる恋する乙女の姿。普通の男なら有頂天になるはずのその美しい反応を見せながら、アルシードの超一流の観察眼が捉える彼女の脈拍は、いつだって熟睡時より穏やかな鋼鉄の安定感を保っている。
噛み合わない手応え。思い出すだけで、アルシードの脳内はパニックを起こし、胃のあたりに鋭い痛みが走る。彼女が嘘をついているようには見えない。なのに、この致命的な違和感は何なのだ。
「……ハンス。女性の心というのは、実に深淵で、難解なものだな」
アルシードは、胃を粉々にされながらも、流麗な仕草で紅茶のカップを口元へと運んだ。
「お戯れを、閣下。あの誰もが憧れるメリッサ様が、閣下の前でだけ見せるという、恋に震える愛らしいお姿……。社交界でも、まことにお熱いお二人だと噂になっておりますよ。閣下の情熱が、それほどまでに彼女の心を完璧に溶かしてしまわれたのでしょう」
「ぶふっ──……、ゲホッ、失礼、……む、胸が、熱くなりすぎてしまったようだ」
大公らしからぬ音を立てて、アルシードは危うく極上の紅茶を吹き出しそうになった。 社交界の噂など、彼女のあの完璧なお淑やかさに、世界中が丸ごと騙されているに過ぎない。
(溶かしているのは彼女の心ではない。私の胃酸が、私の胃壁を溶かしているのだ……!)
アルシードは、震えそうになる右手を机に下ろし、そっと自身の上腹部を押さえた。そして、再び笑顔のまま、一瞬遠い目をして現実から逃避する。
「……ああ、そうだ。彼女は本当に、完璧で、底が知れない。これほど私の心を激しく揺さぶる女性には、後にも先にも、出会ったことがないよ」
「閣下……! そこまでメリッサ様を……!」
主の口から飛び出した、あまりにも情熱的な誓いの言葉に、ハンスはついに感動の涙をハンカチで拭った。
執務室に満ちる、側近の熱い感涙と、大公の絶望。 大いなるすれ違いを乗せたまま、大公家の三ヶ月目の日常は、今日も優雅に更けていくのだった。
──その先に待ち受ける、さらなる茨の試練を、主従の誰もが未だ知る由もなく。




