王冠を脅かす茨
アルシードが席を外して数十秒。限られた高位貴族や皇族のみが立ち入ることを許されたこの静謐なサロンの入り口へ、数人の私兵を従えた一団が、優雅な足取りで入ってきた。
先頭を歩むのは、皇帝陛下さえも頭を抱えさせる稀代の放蕩児──皇太子ジュリアンであった。ふと、ジュリアンはその切れ長の目をサロンの車回しへと向けた。そこに、見慣れた大公家の神聖なる家紋が刻まれた馬車が停まっていることに気づく。
(……大公が来ているのか。では、噂の婚約者も一緒だな)
独身主義を貫いていたあの大公が、突如として「帝国一の美女」を娶るという噂は、当然ながらジュリアンの耳にも届いていた。ジュリアンは薄く高慢な笑みを浮かべ、傲慢な対抗心をその瞳の奥に宿す。
(あの大公が女に骨抜きにされるなど、滑稽極まりない。どれ、どのような女なのか、この私が直々に拝んでやろうではないか)
そんな嫌味な思惑を抱きながら、ジュリアンは私兵を連れてテラス席の方へと歩みを進めた。
そして──パラソルの下、一人残された席で、静かに紅茶を嗜むメリッサの姿をその視線に捉えた。
白銀の髪に、吸い込まれそうな碧眼。どこからどう見ても可憐で儚げな、深窓の令嬢そのものの美貌。そのメリッサの圧倒的な美しさを初めて目にした瞬間、ジュリアンの脳裏に、凄まじい衝撃が走り抜けた。
(な、んだ……この美しさは……!)
胸を貫く、猛烈な一目惚れであった。あまりの衝撃に、当初抱いていた大公への対抗心など瞬時に吹き飛んでしまう。ブレーキの壊れた歪んだ独占欲が一気に沸き上がり、ジュリアンは衝動のままにメリッサのテーブルへと近づいた。
「そなたがオルブライト伯爵令嬢か……美しい……噂に違わぬ……いや、噂以上の美しさだ」
メリッサは美しい眉をかすかにひそめ、突如として現れた皇太子に対し、怯えたようにその華奢な身を固くした。そんなメリッサの初々しい反応すら「可憐だ」と満足げに笑い、ジュリアンはさらに高圧的な態度で迫る。
「大公ごときの婚約者に、その美貌はあまりに惜しい。……その不条理な約束など今すぐ白紙に戻し、私の元へ来るべきだ。帝国で最も高貴な私の隣こそが、そなたが永遠の栄華を享受すべき真の居場所なのだから」
ジュリアンは傲慢に、しかし有無を言わせぬ威圧感をもって、メリッサの白い手首へと静かに手を伸ばした。
──その瞬間。周囲の空気が、ガチッと完全に凍りついた。
周囲の警備に就いていた近衛騎士たちが、一斉に抜剣寸前の構えでジュリアンの前に立ちはだかり、サロンの空間を完全なる恐怖で支配する。
「……なんだと? 近衛騎士隊ともあろう者が、皇太子殿下の御前に立ち塞がり、我らに刃を向けるつもりか、シグルド隊長!」
ジュリアンの私兵の隊長格が色めき立つが、シグルドは高貴な令嬢たちがうっとりと熱い吐息を漏らすほど美しい横顔のまま、腰の帯剣をすらりと一寸だけ引き抜き、底冷えする氷のような声音で囁いた。
「刃を向ける? 滅相もない。我ら近衛は、大公閣下の『公式な警備』を拝命している身。……ゆえに、閣下の大切な婚約者様をお守りするのも、当然ながら我が隊の職務。そこに不躾な手を伸ばそうとする不審な動きがあれば、たとえそれがどなた様の私兵であろうと、──その場で『塵』一つ残さず排除いたしますまで」
「黙れ! 皇太子殿下を『不審な動き』などと不敬極まりない! 貴様ら、そこをどかなければ、たとえオルブライトの血筋であろうとも国家反逆罪として──」
シグルドの端麗極まる貌から、容赦のない漆黒の殺気が爆発する。さらに、後方の席では大将軍と将軍がチェスの駒を握り潰さんばかりの冷徹な眼光を放っており、帝国の歴史に終止符を打ちかねない暗黒のオーラがこの静謐なサロンを完全に包み込んでいた。
「シグルド様……なんて気高く、素敵でいらっしゃるの……!」
周囲の令嬢たちがその神聖な美しさに熱い歓声を上げる中、現場は今にも血の雨が降りかねぬ、一触即発の大揉め状態に陥っていたのである。
そこへ──新しい飲み物を手にしたアルシードが、完璧な貴族の足取りで優雅に戻ってきた。
(……一体、何が起きたというのだ。私が冷や汗を拭うために席を外したのは、ほんの数十秒の間に過ぎないというのに。なぜこの短時間で、シグルドたち近衛騎士隊と皇太子殿下の私兵が、一触即発の睨み合いにまで発展しているのだ……?)
アルシードは、その顔には完璧に優美な大公の微笑みを浮かべ、混沌の渦中にある一同の真ん中へと流れるように歩み進んだ。そして、内心の困惑を一切表に出すことなく、どこまでも上品な聲音で場を制するのであった。
「おや、これは殿下。──皆様、我が大公家の公式警備を相手に、一体何事をはじめられているのですか?」
ジュリアン皇太子は、アルシードが戻ってきたことで、さらに高慢な態度を取り直した。
「大公か。お前についている近衛が、皇族である俺に無礼を働いたのだ。今すぐこいつらを退かせろ!」
シグルドが表情一つ変えず、冷徹に大公へと報告する。
「閣下。この不審者らが、閣下の『大切な婚約者様』に不躾な手を伸ばそうといたしました。ゆえに、公式警備の職務として排除しようとしたまでです」
アルシードは、表面向きには完璧に優美な大公の微笑みを浮かべたままであった。──しかし、その端麗な容姿に宿る瞳の焦点だけが、数秒間、どこか現実離れした遠い世界へとスッと彷徨い出ていく。
(…………不審者、とは皇太子殿下のことか、シグルド。……言い分は理解できるが、せめて言葉を選んでほしいものだな。……本当に、誰かこれがたちの悪い冗談だと言ってくれないだろうか……)
しかし、皇太子がメリッサに直接に手を伸ばそうとされたという事実を冷徹に受け止めた瞬間、スッとその瞳に大公としての鋭き覇気が戻る。
アルシードは流れるような所作でシグルドの傍らへと歩み寄り、帯剣の柄を握り締めている彼の強靭な手の上へ、宥めるように自身の掌をそっと重ねた。これ以上の刃傷沙汰は文字通りこの国の終わりを意味することを察した大公の、エレガントでありながらも命懸けの制止であった。
向けられた漆黒の殺気にすら怯まぬ大公の不意の挙動、そして己の手を包み込んだその掌の感触に、冷徹を極めていたシグルドの切れ長の瞳が、微かに意外そうな驚きに揺れる。シグルドの動きが僅かに止まったのを見届け、アルシードは表面向きには完璧な大公の微笑みを維持したまま、静かに声を紡いだ。
「──なるほど。事情は察いたしました。殿下、畏れながら……。我が大公家が正式に迎えた婚約者に対し、このように公の場で不躾な情熱を向けられるのは、たとえ殿下の御戯れであろうとも、婚約者たる私のプライドが少々傷つきますな。オルブライトの至宝は、すでに私のもの。──これ以上、無闇にその御手を伸ばそうとされるのは、お控えいただきたく存じます」
ジュリアン皇太子は、大公の放つ、格の違う気品と圧倒的な威圧感に本能的な恐怖を覚え、思わず一歩後退りした。しかし、辛うじてプライドを振り絞り、静かに傲慢な視線を返すのであった。
「大公、何をそこまで大袈裟に目くじらを立てる。私はただ、あまねく帝国の臣民に幸福をもたらす皇族として、彼女に『真に相応しい居場所』を提案したまでだ。未来の皇帝たる私の慈悲深い進言に、お前が口を挟む権利はないはずだが?」
(──なるほど。私がいない数十秒の間に、この男は公衆の面前で我が婚約者を口説き落とすような無礼を働いていたわけか。本当に、皇帝陛下も頭を抱えるわけだ……)
アルシードはさらに笑顔の圧を強め、理路整然と退路を断ちにかかる。
「皇帝陛下も、殿下がこのような街頭で、我が大公家とオルブライト将軍家という『帝国の両翼』に、無用な不興を買うような真似は望まれないでしょう。……これ以上の悪戯は、皇室の品格を損ねかねません」
「フン……」
ジュリアンは鼻で上品に笑い、周囲を優雅に見回した。
「『帝国の両翼』、か。脅しのつもりだろうが、あの一族がこんなところにいるわけがない。今ここにいない者の名前を出して何になる。大公ともあろう者が、少々臆病が過ぎるのではないか?」
ジュリアンは勝ち誇ったように笑っている。だが、その姿はアルシードの目には滑稽以外の何物でもなかった。皇太子ともあろう者が、自分のすぐ目の前で冷酷な殺気を放っている美しい近衛騎士隊長が、メリッサの兄シグルドであることすら気づいていない。そればかりか、真後ろの席でチェスを指しながら今にも国家を転覆させそうな覇気を放っている老紳士たちが、現役の大将軍と将軍であることにも全く思い至っていないのだ。国の最高戦力たる主要人物たちの「顔」も「役職」もまともに把握していない次期皇帝のあまりの無知と愚かさに、アルシードは呆れを通り越して戦慄すら覚えるのであった。
アルシードの額を、一筋の冷や汗が伝った。
(頼むから気づいてくれ殿下……! お前がこれ以上一歩でも踏み込んだら、皇帝陛下が明日から新しい後継者を探さねばならなくなるのだ……! 俺はメリッサ嬢を守ると同時に、お前の命とこの国の平和を守っているんだぞ……!!)
「フン、まぁいい。今日のところはここまでにしておこう」
ジュリアンは、アルシードの冷や汗を「己の威厳に気圧された」のだと都合よく勘違いし、満足げに顎を引いた。
「……だがメリッサ嬢。そなたは必ず、私のものにする。大公、せいぜいその時まで、彼女を預かっておくがいい」
ジュリアンはどこまでも優雅に、しかし歪んだ執着の目を光らせて、取り巻きを連れてその場を去っていった。
──皇太子の一団がようやくサロンの敷地を出た、まさにその瞬間。先ほどまでサロン全体を極限まで押し潰していた、あの息もできぬほどの濃密な圧が、まるで嘘のようにフッと霧散した。
「……ふう」
近衛騎士隊長シグルドは、端麗な眉をわずかにひそめて、やれやれと言わんばかりに小さく息を吐き出した。そして、腰の帯剣をカチリと澄んだ音を立てて鞘に収める。
周囲の令嬢たちが「シグルド様……素敵……!」とうっとりとした声を漏らす中、彼は、あまりにも劇的な状況の変化についていけず、ドッと押し寄せた精神的疲労によって胃をキリキリと痛めているアルシードの姿を、横目でチラと盗み見た。
(あの馬鹿皇子め、白昼堂々なんとも不躾な真似をしてくれたものだ。……だが、あそこで一歩も引かずに殿下を圧倒するとは、さすがに大公を名乗るだけのことはあるようだな)
心の中でほんのわずかに大公の器量を認めながらも、シグルドは何事もなかったかのように、再び一幅の絵画のごとき直立不動の姿勢に戻る。だが、その肩からは、最愛の妹の危機を脱した安堵の力が抜けていたのであった。
真後ろの席では、大将軍と将軍が、先ほどまで爛々と輝かせていた眼光をすっかり穏やかなものへと変え、
「やれやれ、あのたわけ者がこれ以上踏み込んでおったら、明日からの軍務の予定がすべて狂うところであったな」
「本当に。ですが父上、次の手はどうされます?」
などと、呆れたように息を漏らしながら、まるで引退した好々爺のごとき顔でチェスを再開していた。
隣の席の次男ヴィンセントにいたっては、すっかりいつもの涼しげで物静かな笑顔に戻り、「やれやれ、無駄な書類を作らされずに済みましたね」とでも言いたげに、優雅に手元の書類をめくっている。
サロンの空気は一気に緩み、いつものお洒落で華やかな喧騒が戻ってくる。そんな中、一人だけ本気で国家の滅亡を危惧して冷や汗を流していたアルシードが、ドッと押し寄せた凄まじい精神的疲労のせいで、そっと深く胃を押さえたまま立ち尽くしていると。
「──閣下? どうかなさいましたの?」
パラソルの下、何事もなかったかのように優雅に紅茶の磁器を持ち上げたメリッサが、美しい微笑みをアルシードに向けた。
「お茶が冷めてしまいますわ。どうぞ、お座りになって」
そのあまりにも平然とした、いつもと変わらぬ美しい鈴の音のごとき声音に、アルシードは心の中で白目を剥きそうになる。
(……メリッサ嬢、君は今、目の前で国家が三回くらい滅びかけたのが見えていなかったのか!? なぜそれほどまでにいつも通りなのだ、オルブライト家は……!!)
最愛の婚約者────否、ビジネスパートナーの恐ろしいほどのマイペースっぷりと、家族全員の異常なまでの日常への切り替えの早さに、アルシードは心の中で盛大に天を仰ぎ、今度こそ深く深く、粉々になった自身の胃を押さえるのであった。




