薔薇の旋律、崩壊の輪舞曲
三ヶ月。それは百戦錬磨であるアルシードにとって、かつてないほどの屈辱と困惑が積み重なった、あまりにも長い時間だった。
この期間、彼は婚約者としての義務を果たすため、頻繁にメリッサをエスコートしてきた。デートの場所は、常に社交界の王道だ。格式高いお茶会、美術鑑賞、あるいは本日のような、宮廷お抱えの楽団による最高峰の演奏会。深窓の令嬢を歓ばせるための、非の打ち所がない選択であるはずだった。
「素晴らしい旋律だ。だが、私の隣に咲く可憐な一輪の薔薇に比べれば、いささか色褪せて聞こえるね」
アルシードは隣の特等席に座るメリッサへ向けて、極上の笑みを浮かべ、これまでに数多の令嬢を落涙させてきた至高の口説き文句を囁いた。今日こそは彼女を揺さぶってみせるという、男の矜持をかけた一撃だった。
それに対するメリッサの反応は、どこまでも可憐で、上品なものだった。白銀の髪にブルーの瞳をきらめかせ、ふわりと微笑む。
「まぁ、閣下は冗談がお上手ですこと。薔薇がお歌を歌われましたら、楽団の皆様も驚かれてしまいますわ」
(──スルーされた。またしても、天上のごとく美しく、微塵の隙もなく完璧に……!)
アルシードは心中で苦々しく息を吐いた。彼女の態度には悪気など1ミリもない。汚れなき無垢な微笑みを浮かべたまま、言葉の裏にある情熱のすべてを、ただのユーモアとして優雅に受け流したのだ。
(いや、まだだ。これならばどうだ……!)
引くわけにはいかないアルシードは、さらに踏み込んだ。彼は洗練された仕草で、メリッサの白く細い手首にそっと己の指先を重ねた。 憂いを帯びた漆黒の瞳で、至近の距離から彼女の視線を絡め取る。
「メリッサ嬢。私は冗談を言っているのではない。君のその清らかな瞳に見つめられるたび、私の心音は、この指揮者のタクトよりも激しく刻まれてしまうのだよ」
その瞬間、メリッサはハッとしたようにパッと頬を赤らめた。 恥ずかしそうに視線を伏せ、胸元にそっと手を当てて小さく息を呑む。その姿は、普通の男なら間違いなく有頂天になるはずの、完璧な「恋する乙女」の照れ顔そのものだった。
「……そんなことをおっしゃるなんて、意地悪ですわ、閣下」
(落ちた──!? いや、待て、何かがおかしい……!!)
だが、至近距離にいたアルシードの超一流の聴覚は、彼女が今、上品に呑み込んだ『驚嘆の吐息』が含む、決定的な不純物を正確に捉えていた。
これほど甘く囁かれ、顔まで赤らめているのだ。恋に動揺した可憐な少女であれば、ほんの微かにでも吐息が震え、あるいは熱を帯びて呼吸が浅く乱れるのが当然の道理。
しかし、メリッサから漏れた一呼吸は、風ひとつない湖面のように静かで、恐ろしいほど平然と、均一に調えられたままだった。1ミリの乱れも、揺らぎもない。赤くなった頬とは裏腹に、その呼吸の深さは、静寂そのものだった。
(なぜだ!? 顔を赤らめ、可憐に照れて、恥ずかしそうに息を呑んでいる。目の前にいるのは間違いなく、私への恋心に胸を詰まらせた純真な少女だ。……なのに、なぜ呼吸が微塵も乱れていないのだ……!?)
嘘をついているようには見えない。悪意も演技も感じられない。純粋に恥ずかしがっているように見えるのに、その呼吸だけが、まるで凪いだ海のように完璧にコントロールされている。この致命的な違和感。 百戦錬磨のプレイボーイの脳内に、未だかつてないパニックの嵐が吹き荒れる。焦燥と混乱によって、彼の繊細な胃壁が悲痛な拍動を始め、アルシードは笑顔のまま、一瞬遠い目をした。
──その時、張り詰めた空気を優雅に割り込む、メリッサのどこまでも可憐で穏やかな声が、彼の耳へと届いた。
「……まぁ、皆様お揃いで、賑やかですわね」
アルシードがパニックから意識を戻して周囲を見回すと、いつの間にか演奏会の客席の後方に、公式警備のシグルド、特別休暇のヴィンセント、そして首都防衛査察の任にある両将軍が、凍てつくような微笑のまま「静かなる完全包囲網」を敷いてこちらを凝視していた。
(落ちない婚約者に、狭まる包囲網。……胃が、私の胃の崩壊が加速していく……!)
すべてを無力化され、アルシードは品格を保ったまま、脳内で激しく天を仰ぐのだった。




