白薔薇に這う毒虫、黒薔薇の拒絶
鳴り響いていた至高の旋律が静かに消え入り、劇場内を割れんばかりの拍手が包み込む。宮廷楽団の素晴らしい終演。しかし、アルシードにとってそれは、地獄の第二幕の幕開けを告げる合図に過ぎなかった。
(──背中が、焼けるように熱い……!)
アルシードは、メリッサの白く細い手首に己の指先を重ねたまま、完璧な大公の微笑みで行儀良く起立した。だがその内心では、激しい胃酸の逆流に必死で耐えていた。
客席の後方。そこには公式警備のシグルド、特別休暇のヴィンセント、あるいは首都防衛査察の任にある両将軍が、一糸乱れぬ完璧な陣形で並び立ち、凍てつくような微笑みでアルシードの背中を凝視している。
もしこの手首を不当に握りしめたり、エスコートの手順を一つでも誤れば、この神聖な劇場ごと大公家の血統が歴史から抹消されかねない。そんな国家転覆レベルの無言のプレッシャーが、アルシードの繊細な胃壁を容赦なく削り取っていた。
そんな命がけの限界空間に、まるで空気を読まぬ爆弾が放り込まれたのは、二人が通路へと差し掛かった時のことである。
「やあ、メリッサ嬢! このような場所で出会えるとは、まことに素晴らしい奇跡だ。……ああ、今日の君も、まるで夜空に輝く一等星のように美しいね」
劇場の静寂を優雅に割り裂くように、傲慢で、しかしどこか背伸びをした華やかな声が響いた。
現れたのは、帝国の皇太子ジュリアン。 本来、この日の演奏会への臨席は皇太子としての退屈な「公務」であり、彼は直前までサボる気満々であったのだ。しかし、あの大嫌いなアルシードが、帝国一の美女を伴って現れるという噂を小耳に挟んだ瞬間、彼のストーカー気質に火がついた。公務という完璧な大義名分を引っ提げ、お付きの者を大慌てさせながら、この劇場へ待ち伏せにやってきたのである。
不意に高貴な身分の男から声をかけられたメリッサは、皇族への正しい礼を執り行うため、アルシードが重ねていた手をそっと離して一歩下がった。
初めてサロンでメリッサに一目惚れをしたあの日から、早くも三ヶ月。ジュリアンは己のありったけの情熱を、彼女へと注ぎ込み続けてきた。毎日のように宮廷の最高級の宝石やドレスを贈り届け、夜毎、愛を綴った熱烈な恋文をしたためては伯爵邸へと送りつける──そんな熱烈な求愛を、彼は今日まで絶え間なく繰り返してきたのだ。時には彼女の行く先々へと先回りし、運命の糸を演出するかのような「偶然の鉢合わせ」を画策したことも、一度や二度ではない。
(今日こそ、今日こそ私の至高の誠意が、可憐な小鳥の心を射止めるのだ……!)
そんな涙ぐましい努力を重ねてきたジュリアンは、アルシードへと無礼に背を向けると、挨拶もそこそこに、メリッサの顔のすぐ近くまで己の顔を近づけてじっと覗き込んだ。可憐な薔薇の香りを、余すことなく吸い尽くさんばかりの勢いである。か弱い令嬢に対する、あまりにも無作法で、紳士らしからぬ距離の詰め方であった。
「ああ、間近で見ると、君の美しさはやはり格別だ、メリッサ嬢。大公ごときが、名門オルブライト家の強大な権力を我が物にしようと、君を強欲な野心の道具にしているのが哀れでならない。……さぁ、その不浄な手から、この私が君を救い出してあげよう」
ジュリアンは己の身勝手な正義感に酔い痴れた笑顔のまま、その場で大袈裟に片膝を突き、メリッサの白く柔らかな手を掴もうと、ずいと自分の手を伸ばした。
(──お前、今すぐその手を引っ込めろォ!!!)
その瞬間、アルシードは脳内で鼓膜が破れんばかりの絶叫を上げていた。ジュリアンが放った傲慢な言葉など、彼の耳には一言も入っていない。ただ、 ジュリアンが言葉を放ち、メリッサへ手を伸ばした瞬間、背後の客席後方から「ドォン……」と地響きのような、劇場ごと消し飛ばしかねない殺気が爆発したのだ。 近衛騎士隊長シグルドの剣が「シャリ……」と1ミリだけ鞘から滑り出し、帝国最高峰の武力を誇る双璧──将軍ゲラルトと大将軍ガルフォードが放つ国家転覆オーラのせいで、劇場の豪華なシャンデリアが物理的にチカチカと不穏に明滅し始めている。
もし、ジュリアンの指先がメリッサの肌に1ミリでも触れれば、この場で前代未聞の「皇太子駆除(物理的抹殺)」が執行される。そうなれば、巻き添えで大公家もろとも歴史から消去されるのは確実だった。
「──お戯れが過ぎますよ、殿下」
ジュリアンの指先がメリッサに触れる、その寸前。 アルシードは流麗なステップでメリッサの前に滑り込み、己の背後へと完璧に彼女を庇った。そして、差し伸べられたジュリアンの無作法な手を、身につけていた極上の白手袋で、パシィィンと優雅かつ鮮やかに叩き落としたのである。
「っ……、アルシード! 貴様、何をする!」
その瞬間だった。アルシードを睨みつけるジュリアンの怒りと、愛するメリッサへ不浄な手を伸ばされたオルブライト家の男たちの殺気が臨界点を突破した。劇場中を満たしたあまりにも強烈な覇気によって、空間そのものが激しく震え、室内の温度が物理的に2度ほど急上昇したのである。
「──っ」
その目に見えぬ空気の熱衝撃に驚いたのか、メリッサは小さく身じろぎをし、その白く透き通るような肌を、室温の上昇によってほんのりと薔薇色に上気させた。それはまるで、恥じらいに頬を染めるうら若き乙女のような可憐さであったが、言うまでもなく、ただの急激な温度変化による生理現象である。
アルシードは崩れない大公の微笑みのまま、その漆黒の瞳に、国を統べる王者のごとき圧倒的な「覇気」を宿して皇太子を睨み据えた。たとえ偽りであれ、己の婚約者に他の男が触れるなど、一人の男としてのプライドが断じて許さない。そして、背後の茨たちをここで爆発させないための、それは文字通り命がけの威嚇であった。
大人の男としての凄まじい貫禄と威圧感に気圧され、ジュリアンは一歩、また一歩と、情けなく後ずさりした。
「婚約者である私を差し置いて、私の大切な薔薇に不躾な手を伸ばすなど、いかに皇太子殿下とて見過ごせません。……今日のところは、この辺りで『お引き取り』いただくのが、お互いのためかと?」
有無を言わせぬ絶対的な拒絶。 ジュリアンは悔しさに震え、「チッ、大公め、邪魔をしおって……!」と勝手に逆恨みの炎を煮詰めながら、捨て台詞を残して這うように去っていった。
実際には、アルシードが身を挺してその不浄な手を叩き落としてくれたおかげで、背後の将軍たちにその場でバラバラにされずに済んだ(命を救われた)という事実を、たわけた皇太子は夢にも知らなかった。
「……はぁ、……っ、コホ。メリッサ嬢、お怪我はありませんでしたか」
命の危機を退け、品格を保ったまま振り返ったアルシードだったが、その心中はすでに更地であった。
これほど命を張ってもなお、心に響く様子のない愛しの婚約者。迫り来る皇太子。そして、背後から未だにジリジリと背中を焼いてくる、オルブライト家の男たちの静かなる完全包囲網。
(胃が、私の胃の消滅が、限界突破で加速していく……! 本日は、本日はもうこれにて撤退だ……!)
すべてを無力化され、アルシードはボロボロになった胃壁を抱えながら、大公の品格だけを鋼の意志で維持し、脳内で激しく天を仰ぐのだった。
──かくして、栄華を極めた至高の演奏会は、大公の胃壁の完全崩壊という悲劇をもって、あまりにも優雅にその幕を閉じるのであった。




