劣等の羽虫、薔薇を願う
───こちらは帝国の至高なる輝きを宿すはずの、皇太子ジュリアンの私室である。
主であるジュリアンは、豪奢な長椅子にだらしなく身を横たえ、天井を見つめながら口元を不気味に緩めていた。気品溢れる高貴な顔立ちは見る影もなく崩れ、その唇からは、およそ皇族のものとは思えぬ締まりのない吐息が漏れ出ている。
「ふふ、ふふふふ……。メリッサ、私の可憐な小鳥……。ああ、思い出すだけで、私の胸は張り裂けそうだ……!」
立ち居振る舞いや公の場での言葉遣いこそ、背伸びをした皇族としての傲慢さを保ち、一人称には「私」を用いているジュリアンだが、その中身は致命的なまでに無知で愚かであった。
あの衝撃的な一目惚れから、はや三ヶ月。ジュリアンは、生まれて初めて知る「恋」という名の情熱に、完全に脳を灼かれていた。それはもはや、恋情というよりは一種の熱病であり、彼の貧弱な理性を跡形もなく焼き尽くしていた。
帝国一の美女と謳われるメリッサの、あの白銀の絹糸を織り上げたかのような美しい髪。触れれば折れてしまいそうなほどに細く可憐な肩。そして、潤みを帯びた澄み切ったブルーの瞳──。
これまでの人生で、ジュリアンの周囲には数多の令嬢が擦り寄ってきたが、メリッサの持つ圧倒的な気品と美貌の前には、すべての女性が石ころ同然に霞んで見えた。
「思い出すだけで……くっ、胸が苦しい……!」
演奏会の後に、声をかけた時のことだ。不意に現れた自分に対し、メリッサはあの大公の手をそっと離し、はにかむように視線を泳がせてみせたのだ。
(あの時だ! 私の姿を認めた瞬間、彼女の白く柔らかな指先が、ほんの微かに震えていたのを私は見逃さなかったぞ……!)
実際には、アルシードの背後に立つオルブライト家の紳士たちが放った、劇場をも凍らせるほどの無言のプレッシャーに空気が震え、驚いたメリッサが小さく身じろぎをしただけなのだが、盲目な皇太子の脳内では『自分への恋心に戸惑う、可憐な小鳥の羽ばたき』へと極上に変換されていた。
「しかも、あの薔薇色に染まる頬……。私を見つめ、小さく息を呑んで赤面する姿の、なんと愛らしかったことか……」
長椅子の上でゴロゴロと身を悶えさせながら、ジュリアンはあまりの幸福感にその美しい顔を不気味に歪めていた。実際は、背後にそびえ立つオルブライト伯爵家の男たちの、国家をも揺るがす強烈な覇気によって劇場内の温度が物理的に2度ほど上昇し、メリッサの白く透き通るような肌がほんのりと上気しただけである。いうなれば、ただの茹で上がった果実のごとき生理現象であった。
「ああ、あの果実のように愛らしい唇から、私の名を紡いでほしい。……ジュリアン様、大公の手から私を救い出してください、と……ふふ、ふふふふ……!」
メリッサのあらぬ姿までもを思い描き、独り言ちるジュリアンの瞳には、熱病のような、どこか執拗で陰湿な独占欲が醜悪に波打っている。
彼は、メリッサをアルシードの魔の手から「救い出し」、己の愛玩物にするという身勝手な正義感に、激しく酔い痴れていた。
「………大公などの不浄な手で汚されてなるものか。彼女は、私にこそ相応しい…彼女のすべては、この私だけのものになるべきなのだ……」
しかし、その甘やかな妄想の直後、ジュリアンの顔は激しい嫉妬と怒りで醜く歪んだ。
「それに引き換え、あの大公め……! 私の前に立ち塞がり、不遜な態度で私を圧倒しおって……! 傲慢な男だ。メリッサのような清らかな令嬢を、己の権力の道具にするなど万死に値する!……おのれ、アルシード。子供の頃から、いつも、いつでも貴様はそうだった……!」
ジュリアンは豪華な枕に顔を埋め、悔しさにまみれた声を漏らした。
二人は血のつながった従兄弟である。しかし、その育ちはあまりにも違いすぎた。
次期皇帝である自分を差し置いて、アルシードは常に社交界のスターだった。その美しさと頭の良さは、少年の頃から帝国中の憧れの的。何をさせても完璧で、立ち振る舞いには一分の隙もない。どれほどジュリアンが皇太子としての威厳を見せつけようとしても、アルシードの底知れない余裕と美しい微笑みの前には、すべてが子供の我が儘のようにかき消されてしまうのだった。
そして大人になった今、大公の地位についたアルシードは、政治の場でも確固たる地位を築き、大人の男としての圧倒的な貫禄と余裕を漂わせている。(※無論、その胃壁が限界突破で消滅しかけていることなど知る由もない)。それに引き換え、未だに父親である皇帝の影に隠れ、周りの大臣たちから「放蕩児」と冷ややかな目で見られている自分は一体何なのだ。
(あいつさえ……あいつさえいなければ、私が帝国の絶対的な太陽であったはずなのだ!)
ずっと胸の奥でくすぶり続けていた、人生最大の劣等感。それが今、メリッサという最高の美女をめぐる戦い(とジュリアンが勝手に思い込んでいるもの)によって、一気に爆発しようとしていた。
「もう許さぬぞ。メリッサを奪って貴様のその余裕ぶった仮面を剥ぎ取ってやる。泣き崩れる貴様の姿を、この私が特等席で見下ろしてやるのだ……!」
ジュリアンはガリガリと爪を立てて悔しがり、勝手にアルシードへの敵対心を煮詰めていく。
国家最高戦力であるオルブライト伯爵家の男たちの顔も役職もまともに把握していない彼は、自分のすぐ足元に、どれほど恐ろしい地雷原(防衛線)が敷かれ始めているかも夢にも知らなかった。




