茨の有給
「──なるほど。手首への、口づけ、ですか」
最高級の茶葉がふくよかに香る静謐な居間にて、長男シグルドはいつもと変わらぬ気品あふれる笑みを浮かべたまま、ぽつりと言葉を零した。その手元では、近衛騎士隊長として鍛え上げられた強靭な指先が、大公の腕をどの角度からへし折れば最も美しい苦悶の表情を引き出せるか、冷徹極まるシミュレーションを繰り返している。
「中央大通りで衆目に晒し、宝飾店で睦み合い、挙げ句に劇場で密着……。ふふ、大公閣下は随分と熱烈な『ビジネス』がお好きなようだ」
次男ヴィンセントが、やはり物静かな微笑みを湛えたまま、大公家を合法的に破産へと追い込み、社会的かつ物理的に抹殺するための極秘書類をサラサラと優雅に整理していた。
オルブライト家の男たちの立ち居振る舞いは、いついかなる時も宮廷の模範となるほど気品に満ちている。だが、その瞳の奥に宿る漆黒の狂気だけは、もはや隠しきれてはいなかった。一国を容易く滅ぼし得る最高峰の布陣(チート布陣)が、今、静かに怒り狂っていたのである。
「まあ……。ねえ、あなた? 大公閣下、私たちのメイに本当に一目惚れしてしまわれたんじゃないかしら?……まあ、きゃあ! 本当にそのまま結婚してしまえばよろしいのに! 次は手首ではなく、……唇かしら、なんて。ふふ、想像するだけで胸が高鳴りますわ」
高貴な淑女としての気品に満ちた言葉遣いを崩さないまま、脳内を完全に桜色に染め上げた母・ジゼルが、扇で口元を隠して頬を染める。
「「ジゼル!?」」
「「母上!?」」
帝国が誇る双璧の将軍コンビとシスコン兄弟の叫びが同時に重なり、居間の空気(殺気)が一気に跳ね上がる。我が家の絶対王者による恐るべき爆弾発言により、これ以上の狼藉(※ただの偽装婚約の職務)は絶対に許されないと、男たちの意見は完全に一致した。
「決まりだな。次回のデートは、我々全員で完璧に監視する」
将軍である父・ゲラルトの、笑顔ながらも地を這うような低い声に、男たちは深く頷いた。そこへ、ジゼルが優雅に問いかける。
「あらあら、随分と熱心なことですこと。ところで、あなたたち……明日のお仕事はどうなさるの?」
ジゼルの問いかけに、男たちは完璧な笑顔で声を揃えた。
「「「「休暇です」」」」
「まあ。全員お揃いで?」
ヴィンセントが眼鏡の奥の瞳を物静かに細める。
「ええ。幸いにも、私の仕える宰相閣下が『オルブライトが全員で休暇届を出してきた時は、国家の平穏のために大人しく受理しろ』という、我が家の家訓のごとき引き継ぎを前任者から受けておられましてね。笑顔で一発承認をいただきました」
「近衛騎士の職務は、元より『皇室および高位貴族の護衛』」
シグルドが事も無げに言葉を続ける。
「大公閣下と我が将軍家の令嬢が街へ出向くのです、近衛の精鋭が直々に現地警備に赴くのは、むしろ当然の職務と言えます」
ゲラルトが笑顔のまま言葉を締めくくった。
「私と大将軍は、明日は『首都の防衛体制に不備がないか、街頭での抜き打ち査察』を行う公務がある。私はその随行員として、正式に出張命令を出してもらった。完璧な公務だ」
男たちは深く、深く頷き合った。




