真紅の檻
やがて馬車が帝都の中央大通りへと差し掛かると、アルシードは即座に、至高の統治者たる完璧な微笑みをその貌へと張り直した。ここからは、淑女たちの心を惑わせるプレイボーイとしての手腕ではなく、気高き大公として、この「至高の婚約」を衆目に知らしめるための、極めて重要な儀礼の時間であった。
大公家の神聖なる紋章が刻まれた豪奢な馬車が静かにその歩みを止めただけで、行き交う万民は一斉に息を呑み、敬意と好奇の眼差しを注ぐ。
重厚な扉が恭しく開かれ、先に降り立ったアルシードが、流れるような一連の美しい所作でメリッサへとエスコートの手を差し伸べた。その白魚のような指先がそっと彼の掌に重ねられ、歩みに合わせて絹のドレスの裾を優雅に揺らしながら、メリッサがしめやかに降り立つ。
「まぁ……なんて、なんて神々しくも美しいお二人かしら……」
二人が並び立った瞬間、周囲の空気は一変し、落涙せんばかりの感嘆のため息が街を包み込む。
漆黒の外套を完璧に着こなしたアルシード大公と、その隣に佇む、儚げで可憐な婚約者。二人が優雅に歩みを進めれば、そのあまりの「美の暴力」に圧倒された群衆は、まるで海が割れるがごとく自然と道を開けていく。誰もがその光景を網膜に焼き付け、神の祝福を一身に受けたごとき一対の誕生に、内心で激しく熱狂していた。
周囲から一斉に注がれる羨望と狂信の眼差しを、アルシードは全身の細胞で浴びながら、内心で極上の愉悦に浸っていたのである。
(……これほど見事な絵面が、他にあるだろうか。いや、ない。大陸随一と名高いこの私の隣に並び立つのに、これほど相応しい美貌はいないな。この完璧な美しさをエスコートし、己の隣で輝かせているのは、この私だ……)
大公としての、そして男としての誇りを完璧に満たされ、アルシードは唇に不敵で洗練された笑みを浮かべた。
(やはり計画通り、公爵家への牽制はこれで完璧だ。世間は完全に、私たちの関係を本物だと信じ込んでいる。……さて、この完璧な流れをさらに確実なものにするため、次なる一手へと進むか)
アルシードはメリッサを伴い、さらなるアピールの舞台として、帝都で最も格式高いジュエリーショップへと優雅に足を踏み入れた。
店内に入ると、アルシードはあらかじめ用意させていた最高級の品を店員に持ってこさせた。白絨毯のトレイに載せられていたのは、細身のプラチナチェーンに、漆黒のブラックダイヤモンドが上品にあしらわれた、息を呑むほど美しいブレスレットだった。
店員や居合わせた貴族たちの視線が集中する中、メリッサは胸の前で細い手を合わせ、困ったように、しかしどこか嬉しそうに潤んだ瞳でそれを見つめた。
「まぁ……閣下。このように高価なもの、わたくしには勿体のうございますわ……」
そんな彼女の可憐な姿を前に、アルシードは唇に極上の笑みを浮かべ、周囲へこれ以上ない「熱烈な一目惚れ」を印象付けるように動いた。
メリッサの白く細い手首をそっと取り、漆黒にきらめくブレスレットをその腕へと、なめらかに滑らせて留め具を留める。そして、そのまま彼女の手首を優しく握ったまま、大人の色気をたっぷりと孕んだ低い声で甘く囁きかけた。
「案ずることはない。私の瞳と同じ色の宝石を、君にいつも身につけていてほしいんだ。それを見るたびに、私が君を想っていることを思い出してくれるかい?」
そう告げると同時に、アルシードは握ったままの手首を優しく引き寄せ、ブラックダイヤモンドが妖しく光る彼女の細い手首へと、深い慈しみを込めるようにそっと唇を落とした。
周囲の店員や客たちが思わず歓声を噛み殺し、顔を真っ赤にするほどの、独占欲に満ちた情熱的な口づけであった。
「……まぁ。はい、閣下……大切にいたしますわ……!」
メリッサは完全に圧倒されたように頬を薔薇色に染め、うっとりとアルシードを見つめ返す。そのあまりにも愛らしい様子に、周囲からは羨望のため息が漏れ、二人の姿にただただ圧倒されていた。
次なる舞台は、多くの貴族たちが集う華やかなオペラ劇場であった。
第一幕が終わり、他家の貴族たちで賑わうサロンへと移動したアルシードは、わざと注目を浴びる中央へと進み、メリッサにシャンパングラスを差し出して大人の余裕たっぷりに微笑んだ。
「素晴らしい物語だったね。だが、劇中のヒロインがどれほど涙を流そうとも、私の隣にいる君の、その一瞬の微笑みの美しさには敵わないな」
メリッサは頬を染めてグラスを見つめ、周囲の耳目を意識しながら囁き返す。
「閣下……そんな風に私ばかりご覧になっていては、舞台の素晴らしい演出を見落とされてしまいますわ」
周囲の貴族たちから「まぁ、本当にお熱いこと」「大公閣下は彼女に夢中なのね」と感嘆の声が漏れ、世間への見せつけという本来の目的は120点満点で果たされた。アルシードは、任務が完璧に遂行できていることに大満足であった。
そして第二幕が始まり、客席の灯りが消えたVIP席。人目のない暗闇の中で、アルシードは本気で彼女を口説き落とすためのアプローチに出た。
観劇の邪魔をしないよう声は出さず、そっと自分の掌を、膝の上にあるメリッサの手に重ね、指先で優しく触れる。すると、メリッサはハッと小さく息を呑み、拒むことなく、その細い指でアルシードの手を優しく握り返した。舞台をじっと見つめたまま、嬉しそうに、恥ずかしそうに頬を赤らめて。
(甘美な愛の言葉など、今の我らには野暮というものだな。この暗闇の中で、躊躇うことなく私の手を優しく握り締めてくれることこそが、何より雄弁な答えだ)
指先から伝わる可憐な温もりに、アルシードの胸にはこの上ない満足感と、甘やかな勝利の確信が満ち溢れていった。社交界一の白薔薇と謳われる令嬢も、大人の洗練されたリードの前にはこれほどまでに愛らしく、従順に心を委ねてくれるのだ。
(世間への披露という任務は、すでに十二分に果たした。……ならば、この素晴らしい夜の続きは、他人の目の届かない我が邸の薔薇園で、より深く、甘やかに紡ぐとしよう)
有頂天の絶頂に達したアルシードは、勝ち戦を確信して、二人きりになれる大公邸のプライベートガーデンへと彼女を誘ったのだった。
大公邸の薔薇園は、今を盛りと咲き誇る大輪の真紅の薔薇で埋め尽くされていた。人目のない、完璧な二人だけの空間。
「君の美しさは、この大輪の薔薇さえ霞ませるね」
アルシードは一輪の美しい薔薇を手に取り、唇が今にも触れてしまいそうなほどの至近距離までメリッサに顔を近づけた。数多の女性を虜にしてきた、低く甘い極上の声をその鼓膜に響かせる。彼女の細い白銀の髪に薔薇を飾りながら、じっとその瞳を見つめ、甘い夜への誘いをかける。
「まぁ、閣下……そのような、情熱的なお言葉……。わたくし、恥ずかしくて、胸がドキドキしてしまいますわ……」
しおらしく身をすくめるその姿は、先ほどまで外で見せていた、恋に落ちかけた可憐な深窓の令嬢そのものであった。
いくら帝国一の美女と謳われようとも、やはりその中身は純真で愛らしい箱入り娘。己の洗練されたリードにかかれば、その心を解きほぐすなど容易いことなのだと、有頂天のまま勝利を確信したアルシードは、大人の余裕たっぷりに、彼女の白く細い手首をそっと握った。
──だが。
アルシードの指先に伝わってきたのは、「トクン……トクン……トクン……」と、深海の岩盤のごとく微塵も乱れのない、恐ろしいほどに正常で力強い、一定の脈拍であった。
(……あ、あれ? 脈が……全く、1ミリも乱れていない……!?)
アルシードの思考回路が、静かにフリーズする。
ドキドキしていると言いながら、この心臓の絶対的な安定感は何だ。どれほど深く熟睡している時であっても、ここまで脈が落ち着いてはいないのではないか。外で見せていたあの熱烈な態度からは想像もつかない、あまりにも穏やかでブレのない血流に、アルシードの脳内は大混乱に陥る。
するとメリッサは、どこまでも可憐で品格に満ちた微笑みを浮かべたまま、そっと薔薇の葉の裏を指差した。
「あら、閣下。見てくださいませ。この素晴らしい薔薇に、芋虫がついておりますわ」
「あ、ああ……そうだな。庭師に、害虫駆除を徹底させなくてはな……」
アルシードは背中に冷や汗を流しながら、そう答えるのが精一杯であった。恥じらいに胸を高鳴らせているはずの令嬢が、己の至近距離にある顔面を完璧なまでにスルーし、薔薇の葉の裏の芋虫を的確に見定めている。その無慈悲な事実が、彼の大公としての誇り(プライド)を、天国から地獄へと真っ逆さまに叩き落としたのである。
大通りや劇場ではあれほど甘美な既成事実を重ねてきたというのに、いざ二人きりの空間になった途端、まるで透明な防壁に阻まれたかのように決定的な一歩を踏み出せないまま、この素晴らしき夜は終了を迎えた。
アルシードは彼女をオルブライト伯爵邸まで送り届けた。馬車の窓辺から、メリッサは、「本日は本当に夢のようなひと時でしたわ、大公閣下。またお会いできるのを楽しみにしております」と、儚く美しい聖女の笑顔で手を振り、彼を見送ってくれた。
一人、静まり返った馬車に取り残されたアルシードは、自身の完璧なはずの容姿と洗練された技巧を振り返り、優雅な仕草でガシガシと激しく頭を抱えた。
「おかしい……。確かに彼女はしおらしく恥ずかしがっていた。外ではあんなに私に酔いしれていたはずだ。……なのに、なぜ私は今、これほど深い敗北感に包まれているんだ……!? 彼女の心臓は、一体どのような構造になっているのだ……!?」
ガラルディア帝国を揺るがす「世紀の美男美女による偽装婚約」の初デートは、大公アルシードの華麗なる空回りと、有頂天からの大急降下、そして原因不明の激しい頭痛(と、わずかな胃の痛み)と共に、静かに幕を閉じるのであった。




