茨を抜けて
世紀の「偽装婚約」の発表は、ガラルディア帝国を文字通り震撼させた。
大陸随一の洗練された美貌と権力を持つアルシード大公が、ついに身を固める。そのお相手が、中立派の名門オルブライト伯爵家の深窓の令嬢にして、帝国一の美女とうたわれるメリッサであるという報せは、社交界に巨大な爆弾を落としたも同然だった。
帝国で最も麗しい独身貴族であるアルシードの、特別な『唯一の席』に座ることを夢見ていた数多の令嬢や貴婦人たち、そして高嶺の薔薇と知りながらも、メリッサに密かな恋心を抱き、奇跡の縁談を夢見ていた帝都の男たちは絶望の淵に突き落とされた。
何より、大公家を自陣営に取り込もうと熾烈な政争を繰り広げていたローゼンバーグ、ハインリヒの両公爵家に至っては、まさに寝耳に水。完璧に進めていたはずの政略の計算式を根本からひっくり返され、言葉を失うほどの衝撃に各々の屋敷で顔を青くした。
全てはアルシードの計算通り、完璧なチェックメイトのはずだった。
──だが。世間は知る由もない。
その完璧なチェス盤の上に居座っているのが、帝国の階級制度すら軽々と一刀両断にし、大公の権威という最高級の看板を、一ミリの躊躇もなくゴミ箱に放り込める規格外の面々であることを。
「……本日も、誠に素晴らしい歓迎を感謝する、オルブライト卿」
婚約公表後、初となる公式デートの当日。 メリッサを迎えにオルブライト伯爵邸を訪れたアルシードは、応接室のソファーで、早くも本日何度目か分からない冷や汗を背中に流していた。
目の前には、名門貴族の手本とでも言うべき、完璧に優雅で品格に満ちた微笑みを浮かべた大将軍ガルフォードと、将軍ゲラルト。そして窓際で涼やかに佇む宰相補佐ヴィンセント。彼らが一切の言葉を発さず、ただ静かに浮かべている瞳の奥の「殺気」が、部屋の気圧を物理的に数ヘクトパスカルは下げていた。一歩でもエスコートをトチれば、その瞬間に社会的ならびに物理的に消去される──そんな最前線の泥沼のようなプレッシャーが、大公であるはずのアルシードに、かつてない緊張感を強いていた。
「まぁまぁ、あなたたち。そんなに閣下をジロジロと見つめては失礼ですよ」
重苦しい沈黙を破ったのは、扇を優雅に揺らしながら現れた伯爵夫人、ジゼルだった。
「閣下、メリッサをどうぞよろしくお願いいたしますね。うふふ、本当に絵画から抜け出たかのように美しく、お似合いのお二人ですこと。……このまま形式だけと言わず、本当に籍を入れて結婚してしまえばよろしいのに。ええ、本当に。今すぐ神殿へ向かわれてもよろしくてよ?」
(……夫人、上品に微笑んでいるが、本音が全力で漏れ出ているぞ……!)
男たちのドス黒い殺気の中で、唯一、熱烈に歓迎してくれているはずの母親からの「結婚の圧」をまともに浴び、アルシードは引きつりそうな頬の筋肉を必死に保った。
そこへ、洗練された上質なドレスに身を包んだメリッサが、音もなく部屋へ入ってきた。 どこまでも可憐で、朝露をまとった白薔薇のように清らかな美しさを湛えた彼女の姿は、まさに完璧な淑女そのものだった。アルシードは内心で、
(これでようやく、この窒息寸前の処刑台から釈放される……!)
と、アルシードは神に感謝を捧げた。しかし、その救いの女神こそが、次なる地獄への引き金だとはまだ知る由もない
「それでは行こうか、メリッサ嬢」
洗練された仕草で、彼女の小さく白い手を取ろうと、アルシードがそっと右手を差し伸べた──その、瞬間だった。
ゾクッ……!!!
(っ!?!?)
アルシードの右手に、肉眼で見えるのではないかと思うほどの、鋭利な「瞳の矢」が一斉に突き刺さった。背後に控える男三人からの、底冷えするような凄まじい眼光の切っ先。それはまるで、『その不浄な手で我が至宝に触れた瞬間、大公家の血筋ごと物理的に消去する』という、帝国法律すら超越した無言の死刑宣告だった。
本能的な大警報に襲われたアルシードは、数々の戦場を潜り抜けてきた男の反射神経を発揮し、不自然極まりない速度でパッと自分の手を引っ込めてしまった。
「……か、閣下? いかがなさいましたの?」
メリッサが不思議そうに、きょとんと小首をかしげて見上げてくる。その仕草すら、帝国一の美女の名に恥じぬ可憐さだ。
「い、いや……何でもない。少し、袖口の汚れが気になっただけだ」
アルシードは心臓をバクバクさせながら、必死に大公のポーカーフェイスを張り直す。──が、あまりの恐怖と緊張に、額からはタラリと冷や汗が伝い落ちていた。
「……まぁ、閣下。お顔にたくさん汗をかいていらっしゃいますわ」
メリッサがそっと可憐に眉をひそめ、懐から上質なシルクのハンカチーフを取り出した。そして、壊れ物を扱うような優しい手付きで、アルシードの額の汗を一生懸命に拭い始める。
「お部屋が暑うございましたか? 慣れぬ屋敷で緊張させてしまいましたのね、申し訳ありません」
至近距離から向けられる帝国一の美女の純真な気遣い。鈴を転がすような声で心配され、アルシードは
(おお……なんて優しく健気な娘だ)
と一瞬、うっとりしかけた。
──しかし、現実は非情だった。 メリッサの白い指先が大公の肌に触れた瞬間、背後の男たちの瞳の奥に、暗黒の超新星爆発が起きた。今や彼らが放つ無言の圧力は、国家転覆すら容易なほどの質量と殺意を孕んでいる。
(((貴様ァ! メリッサに汗を拭かせるとは何事だ!! その額ごと叩き割ってやろうか!!!)))
という無言の絶叫が、音もなく部屋中に吹き荒れる。もはや体感室温は氷点下、吹き出す冷や汗が物理的な殺気によってさらに倍増し、大公の額は今や、恐怖の泉と化していた。拭っても拭っても、後ろの男たちの殺気が新たな汗を無限に供給してくるのである。
「あら……まぁ、まぁ、次から次へと……。閣下、お体の具合が悪いのではなくて? じっとしていてくださいませね、今綺麗にいたしますわ」
なかなかひかない汗を、健気に一生懸命に拭い続けるメリッサ。
(頼むから、もう私に触れないでくれ……!! 後ろの奴らの目が、完全に据わっている……!!)
アルシードは内心で涙目になりながら、メリッサの上品な優しさ(という名の拷問)のサンドイッチになり、どうにか応接室を脱出して、邸の前に用意された大公家の豪華な馬車の前までたどり着いた。
──馬車だ。あの頑丈な箱に入りさえすれば、ひとまずは物理的な消滅を免れる。アルシードは心の中で神の慈悲に咽び泣いた。
アルシードは、今度こそ婚約者として彼女を馬車へエスコートしようと、一歩前に出た。
──だが、彼の洗練された動きを、しれっと遮る影があった。
「気を付けて行ってくるんだよ、メイ」
いつの間にか先回りしていた近衛騎士隊長の長男・シグルドが、アルシードを完璧に、かつ優雅に背中で押し退け、メリッサの手をそっと取ったのだ。アルシードは「あ……っ」と間抜けに手を伸ばした形のまま、完全にその場に置き去りにされた。
「はい、お兄様。行って参ります」
メリッサはそれが当たり前であるかのように普通に応じ、実になめらかに、羽毛のような軽やかさで馬車へと乗り込んでいく。
「大公閣下。妹は非常に繊細で、か弱い身にございます。……くれぐれも、不埒な輩に『指一本』触れられることのないよう、お願い申し上げます」
そう告げると、シグルドは胸に右手を当て、流れるような美しい動作で、近衛騎士隊長としての非の打ち所がない完璧なお辞儀を披露した。貴族の最高峰たる大公への、最高に凛々しく、気品に満ちた最敬礼。
──しかし。すっと顔を上げたその瞬間の据わった瞳だけは、底冷えするような凄まじい殺気を放っていた。
(な、何なんだ……! 帝国の最高権威たる大公のこの私に対して、なんという無礼な態度を……! 本来なら、伯爵家の若造などが私の前に立ち塞がることすら許されんのだぞ!? 不敬罪で今すぐ監獄へぶち込んでやってもいいんだぞ!?)
──と、脳内だけで精一杯の国家最高権威を大絶叫してみるものの、シグルドの放つ『物理的な圧』の前に、アルシードの喉は完全にロックされていた。ただの一言も抗議を紡げぬまま、彼の高貴な本能は早くも白旗を上げて降伏していた。
「あ、ああ……無論だ、シグルド殿。……この私がついているのだ、彼女の安全は約束しよう」
結局、震えそうになる声を必死に抑えて、大公としての建前を返すのが限界だった。完全にたじたじになったアルシードは、大公の威厳もどこへやら、慌てて馬車へと滑り込んだ。
バタン、と重厚な扉が閉まり、馬車が滑るように動き出す。
対面のソファーに腰掛けるメリッサは、窓の外の家族に向かって、優雅で美しいお別れのひと振りをしている。兄が大公に対してどれほど無礼な真似をしたか、彼女は一ミリも気づいていない様子だった。
(……恐ろしい。なぜ私は一国の最高権力者でありながら、生きて帰れるか分からない戦場へ向かうような心地を味わわねばならんのだ……!)
アルシードは心の中で激しく頭を抱え、乱れた呼吸を整えるために深く息を吐いた。
あの男たちの敵意の理由は、考えるまでもなく明白だった。彼らは、大切な愛娘であり妹であるメリッサを、宮廷のドス黒い政争の『盾』にしたアルシードのことが、気に入らなくて仕方がないのだ。それどころか、あわよくば彼女の純潔を狙おうとする不届きな害虫として、すでにロックオンされている。
(……待て。私はとんでもない選択の誤りを犯したのではないか? 偽装婚約の契約を申し込む家を、完全に間違えたかもしれない……)
オルブライト伯爵家が国を滅ぼせるほどの力を持つ名門中の名門であることなど、そんな政治的な理屈はあの家族の前には一切通用しない。ただただ、メリッサに対する愛情の質量が、物理的な殺気となってこちらの命を脅かしてくるのだ。宮廷の権力闘争など、あの家族の狂気的な溺愛(暴力)に比べれば、そよ風のようなものだった。
帝国一の美女と謳われながら、なぜ今まで誰の物にもならなかったのか。その長年の社交界の謎が、今すべて解けた。あのガードが背後に控えているのだ。生半可な男が近づけば、声をかける前にこの世から消滅させられていたに違いない。
(名門の格だのなんだのを超えて、純粋に怖すぎるだろう、あの家門……!)
じわじわと込み上げてくる後悔と戦いながら、アルシードはぐったりとソファーに身を沈めた。
───だが、そこでアルシードの不治の病とも言える洗練されたプレイボーイ脳が、ある決定的な事実に気がついた。
(……待てよ? あの恐ろしい男たちが目を光らせる中、メリッサ嬢は、自ら進んで私の額の汗を一生懸命に拭いてくれたな……?)
あの時、彼女が自分の肌に触れれば、背後の家族がどれほど怒り狂って私をミンチにしようとするかなど、想像に難くないはずだ。それなのに彼女は、男たちの凄まじい殺気の嵐も恐れず、ただひたすらに私のことを心配し、甲斐甲斐しく尽くしてくれたのだ。
(なるほど……そういうことか。あの男たちの凶悪なガードをかいくぐってでも、私に触れたかったというわけだな。なんとも情熱的で、健気な令嬢だ)
──言うまでもないが、あの部屋で凄まじい殺気の標的にされていたのは、害虫扱いされているアルシードただ一人である。愛されまくっているメリッサにとっては、家族の殺気などそよ風に等しく、知ったこっちゃない話なのだが……。悲しいかな、稀代のプレイボーイたるアルシードの脳内フィルターは、その不都合な真実を「命がけの愛の証明」へと、あまりにも都合よく変換してしまっていた。
現金なもので、そう結論づけた瞬間、アルシードの全身から先ほどまでの冷や汗が引き、代わりに極上の自信が、まるで最高級ワインのように彼を満たしていった。 恐怖を養分にして、脳内に瞬く間に華麗な花を咲かせた誇り高き自惚れは、彼に再び大公としての余裕を取り戻させる。
(やはりメリッサ嬢は、出会った瞬間から私に夢中なのだ)
アルシードはソファーに深く腰掛け直すと、長い脚を優雅に組み、対面に座るメリッサへと視線を向けた。
窓の外を見つめていたメリッサが、視線に気づいてこちらを振り返る。目が合ったその瞬間、アルシードはこれまでに数多の浮名を流してきた、大陸随一の「極上の笑み」を彼女へと向けた。少しだけ目元を細め、大人の色気と余裕をたっぷりと滲ませた、どんな女性でも蕩けさせる自慢の微笑みだ。
すると、メリッサははわわっと恥ずかしそうに両手で頬を包み、スッと可憐に視線を伏せた。その仕草はどこまでも純真で、初々しい魅力に満ち溢れている。
(……愛らしいな。私の視線ひとつで、そんなに恥ずかしがるとは……)
フッと唇の端を上げ、アルシードはさらに自信を深めた。外に出ればあの恐ろしい家族もいない。
(さあ、メリッサ嬢。思う存分、私という男に酔いしれるといい)




