硝子の契約、至高の薔薇
数日後。
事前の約束通り、極秘裏にオルブライト伯爵邸を訪れたアルシードは、使用人に案内されて応接室の重厚な扉の前に立っていた。これから出会うのは、中立派の名門が大切に箱入りで育ててきたという、まだ見ぬ伯爵令嬢だ。
アルシード自身、夜の相手に選ぶなら、甘い戯れを割り切って流せる成熟した大人の貴婦人が好みであった。吐息混じりに色っぽい誘いをかけてくる女性が日常であり、自らの手腕に一瞬で絆されて本気になりかねない世間知らずの小娘など、面倒なだけの存在でしかない。深窓の令嬢など本来はお呼びでないのだ。──だが、それでも相手は帝国一の美女とうたわれる女だ。
(ビジネスの契約とはいえ、その美貌をこの目で拝めるのは、男として少々楽しみではあるな)
そんな不埒な期待を優雅な微笑みの裏に隠し、冷徹なビジネスの契約書を胸に、アルシードは唇に極上の笑みを浮かべた。
「アルシード・フォン・ベルンシュタイン大公閣下をお通しいたします」
使用人の声と共に扉が開かれ、アルシードは優雅に一歩を踏み出した。
「初めまして、オルブライト伯爵。本日は突然の──」
挨拶を口にしながら視線を上げた瞬間、アルシードの全身の産毛が、本能的な戦慄と共に逆立った。
(……な、何だ、この部屋の空気は……!?)
豪奢な応接室のソファーに鎮座していたのは、穏やかな笑みを浮かべた老紳士と、端正な顔立ちの男たち。だが、彼らの瞳の奥から放たれているのは、物理的な圧力すら感じる凄まじい殺気だった。
将軍ゲラルトは、口元に完璧なまでの気品を湛えながらも、その瞳の奥には、幾多の死線を踏み越えてきた者だけが持つ底知れぬ狂気を宿している。向けられた眼差しだけで、己の首筋に冷たい刃を突きつけられたかのような錯覚に、アルシードは背筋を凍らせた。中央に座る大将軍ガルフォードからも、かつて数々の戦場を更地にしてきた生ける伝説ならではの、圧倒的な覇気が放たれていた。──そのあまりの重圧に、アルシードは内心で引きつりそうな笑みを、必死に大公の仮面で覆い隠す。
何より、窓際に彫刻のように佇んでいた、若い二人の兄たちから放たれる気配が尋常ではなかった。
絵画から抜け出たかのように美しい近衛騎士隊長シグルドは、極めて爽やかで美しい歓迎の笑みを浮かべている。しかし、その据わった瞳の奥で渦巻く思考は、極めて物騒でドス黒いものだった。
(──大公め。大義名分を並べているが、本当は最初から我が愛しのメイを狙って近づいたのではないだろうな? 己の政争にメイを巻き込んだその罪、万死に値する。少しでもメイに触れてみろ……近衛の全戦力をもって、貴様を今すぐその場でミンチ……いや、跡形もなく消し去ってやる)
その完璧な笑顔の裏から、凄まじい剣気が物理的な刃となって部屋中に吹き荒れ、アルシードの背中に冷や汗を流させる。
隣に並ぶ宰相補佐ヴィンセントからも、品性高潔な美貌に非の打ち所がない極上の笑みを浮かべたまま、大公家を合法的に破滅へと導く算段に満ちた冷徹な視線が向けられていた。
(……待て。私は内密な政治交渉に来たはずだ。なぜ、これから決戦に臨む最前線の泥沼に立たされているような感覚に陥っている……!?)
これまでに数多の修羅場をくぐり抜けてきたアルシードだったが、この男たちの規格外の威圧感には、背中に冷や汗が伝うのを止められなかった。己が差し出した一枚の書状が、まさか己の死亡診断書になりかねないなど、誰が予想できただろうか。
「ようこそおいでくださいました、大公閣下。お噂はかねがね」
ガルフォードが、若造の器を測るような鋭い目を向けながら、これ以上なく上品な笑みでアルシードを迎える。
「……歓迎痛み入る、オルブライト卿。……不躾な申し出にもかかわらず、こうして席を設けていただいたことに感謝する」
アルシードは必死に大公としてのポーカーフェイスを保ち、ソファーに腰を下ろすと、救いを求めるように、部屋の片隅にひっそりと佇むひとりの令嬢へと視線を走らせた。
そこにいたのは、帝国一の美女とうたわれる、オルブライト伯爵家の愛娘──メリッサだった。男たちの放つ暴力的な殺気とは無縁の、ただ一輪の清廉な薔薇のように、彼女は儚げな微笑みを浮かべている。
(──やはり想像通り、成熟した色気や妖艶さはないな。綺麗なだけの、いかにも箱入りといった佇まいだ)
第一印象は冷徹な分析だった。しかし、彼女を正面から視界に捉えた瞬間、アルシードの洗練された思考回路は、文字通り完全に停止した。
(……っ、まさか、これほどとは……!)
陽光を溶かし込んだような白銀の髪は、シルクのようになめらかで、ふんわりとした毛先が可憐に揺れている。一点の曇りもない白い肌に、吸い込まれそうなほど澄んだ水色の瞳。そして、摘みたての果実のように瑞々しい桜色の唇──。
「帝国一の美女」という言葉すら生ぬるい。神の最高傑作とも言うべき神聖で儚い美しさを前に、アルシードは思わず息を呑み、本気で見惚れてしまっていた。
だが、彼は数多の浮名を流してきた大陸一のプレイボーイだ。わずか数秒で大人の余裕と不敵な笑みを取り戻し、内心で極めて洗練された自惚れを浮かべる。
(なるほど、確かに至高の薔薇だ。だが、世間知らずの深窓の令嬢など、私の手腕をもってすれば落とせぬはずがない。この私が偽装とはいえ婚約者になってやるのだ、光栄に思うがいい。 それに、偽りとはいえ我が婚約者に据えるのであれば、これほど見栄えのする女性もいない。大陸随一と名高いこの私の隣に並び立つのに、この上なく相応しい美貌だ)
男としての確たる審美眼を納得させる絶世の美貌に、彼は深い満足感を覚えた。
周囲を囲む男たちが放つ、凶暴な猛獣の巣窟のようなこの部屋において、彼女だけが唯一のオアシスであった。後は、己の完璧なリードで、この美しい人形をエスコートしてやればいいだけの話。
アルシードは内心で安堵の溜め息を漏らし、再び完璧な大人の笑みを湛えて、流れるように本題を切り出した。
「手紙にも認めた通り、現在の宮廷はローゼンバーグとハインリヒ、二つの公爵家の政争によって酷く形骸化している。彼らの狙いは我が大公家を取り込むこと。……これを穏便に、かつ完全に突っぱねるため、中立派の最たる名門である貴家のお力を借りたい」
「……フン。それが、我が愛娘を偽りの婚約者として盾にする理由ですか、大公閣下」
ゲラルトが、鋭い眼光でアルシードを射抜く。まるで部屋の空気が一瞬で氷結し、床がみしりと音を立てるような錯覚さえ覚える威圧感だ。
「仰る通りです。ですが、これはオルブライト家にとっても悪い話ではないはずだ。メリッサ嬢ほどの美貌であれば、今後、有象無象の貴族たちから縁談の標的にされるのは目に見えている。……そこで形式上、この私が彼女に一目惚れして熱烈に求婚したという体裁をとる。世間に対しては、居ても立ってもいられず大公自身が直々に伯爵邸へ足を運び、情熱的に求婚した……という美談に仕立て上げるのだ。大公家という強大な後ろ盾があれば、メリッサ嬢に群がる不埒な男たちを近づけさせない防波堤にもなれる」
アルシードは真っ直ぐにゲラルトたちを見据え、極めて誠実なトーンで言葉を重ねた。その眼差しには、どんな淑女の心をも一瞬で溶かすような、至高の気品が宿っていた。
──が、その場にいたオルブライト家の男たちの脳裏に浮かんだのは、完璧な一致を見せた、あまりにも物騒な総ツッコミであった。
(不埒な男の最たるものが、目の前の貴様だ!!)
品性高潔な美貌に非の打ち所がない笑みを浮かべたまま、ヴィンセントの瞳の奥の冷徹さが、さらに一段階深くなる。
「もちろん、ただで力を貸してくれとは言わない。政争が落ち着き、ほとぼりが冷めれば予定通り婚約を解消するが……そうなればメリッサ嬢は世間から不名誉な目で見られる恐れがある。彼女の未来を傷つける真似は、私のプライドが許さない。ゆえに、婚約解消の際には、彼女の今後の生涯を完全に保障するだけの莫大な慰労金を支払う。それだけではない。我がベルンシュタイン大公家の名において、彼女にふさわしい、家柄も人格も一級品の最高の男を責任を持って紹介すると約束しよう。互いの利害を一致させた、ビジネスとしての契約を、どうか結んでいただきたい」
アルシードが差し出した、一分の隙もない完璧なビジネスの提案に、部屋の空気が微かに揺れた。
男たちの鋭い視線が交錯する中、それまで優雅に茶を啜っていたジゼルが、ふふっと扇で口元を隠して艶やかに微笑んだ。
ただそれだけの、至って淑やかな仕草。しかし、先ほどまで部屋を埋め尽くしていた野獣のごとき男たちの凄まじい殺気は、彼女の微笑み一つで、まるで最初から存在しなかったかのように霧散していく。
(……ほう?)
大陸の歴史を動かすほどの猛獣たちを一瞬で手懐ける、オルブライト家の真の頂点。彼女の底知れぬ笑みを前に、アルシードの直感が「この場で最も怒らせてはならない相手」を正しく察知し、胃の奥が小さく悲鳴を上げた。
「素晴らしいご提案ですわ、大公閣下。利害の一致したビジネス……結構なことです。──ですが、我がオルブライト家がこの契約をお受けするにあたって、私からも、一つだけ絶対に守っていただきたい条件がございますの」
「条件、ですか。何なりと仰ってください、夫人」
「契約期間中、閣下にはご婦人方とのお付き合いを『完全に』断っていただきますわ。ええ、麗しい貴婦人たちからの情熱的なお誘いが後を絶たない大公閣下ですもの。ですが、契約期間中のそういった浮名はすべてお断りになってください。他の女性と甘い噂を流すようなことは、ただの一度も許されませんの」
「……ご婦人方との、お付き合いを、ですか?」
アルシードは一瞬、耳を疑った。 ジゼルは芝居がかった溜め息をつき、アルシードの姿を頭の先から爪先まで品定めするように見つめる。
「ええ。閣下はガラルディア帝国、いえ、大陸中を探しても早々お目にかかれないほどの美男子。見る者を惑わせる端麗な容姿に、耳元で囁かれればどんな女性でも蕩けてしまいそうな甘いお声、誰もが見上げる長身。……それに、仕立ての良いお召し物の上からでも容易に察せられる、その鍛え上げられた逞しいお身体。そんなお方が社交界に放たれていれば、ご婦人方が放っておくはずがありませんもの。いくら形だけの婚約とはいえ、世間には『大公閣下の一目惚れ』として公表するのです。それなのに閣下が裏で他の女性と浮き名を流せば、我が家のメリッサは社交界のいい笑い者になってしまいますわ。絶対にそんなことがないよう、お約束いただけますね?」
品性の塊のような声音。だが、その言葉は甘い蜂蜜を塗った強固な足枷そのものであった。
「なるほど。承知いたしました。帝国一の美女を射止めた男として、他の一切のお誘いに背を向けるなど、紳士として当然の義務。喜んでお約束いたしましょう」
アルシードは微塵の動揺も削ぎ落とした、完璧な紳士の微笑みで快諾した。
(──なるほど。女遊びはするなということか……まあ、もっともではあるな。この俺が本気で貞淑な婚約者を演じて見せれば、世間はさらに熱狂するだろう)
アルシードは椅子の背もたれに体を預け、内心で不敵に鼻で笑った。
確かに、これまでの彼にとって、女性との夜の戯れはある種の栄養剤のようなものだった。己の魅力で女性を口説き落とし、男としての自信や洗練された術を磨く──それが『稀代のプレイボーイ』たる彼の日常だったからだ。それが数ヶ月の間とはいえ、完全に断たれるのは少々手持ち無沙汰になるかもしれない。
(……だが、何も問題はない。要は、他の女に手を出さなければいいだけの話だ)
アルシードは、斜め向かいで相変わらず人形のように静かに微笑んでいるメリッサへと、値踏みするような視線を滑らせた。
(お互いに分別のある大人なのだ。契約のパートナーであるメリッサ嬢さえその気になれば、彼女にお相手を願えばいい。お上品すぎて少々物足りないかもしれないが……一度その姿を見た男たちが夢中になるという、帝国一の美女だ。これほどの極上を、男として放っておく手はないだろう)
世間を騙しつつ、至高の美女を抱く。
この退屈な偽装婚約も、存外、悪くない時間になりそうだな──と。
アルシードは己の完璧なリードで全てをコントロールできると信じて疑わず、極めて優雅に、勝利を確信した微笑みを浮かべた。
──至高の薔薇をこの手で手懐ける。そんな洗練された大公の野心が、いかに儚く無謀なものか。それを思い知らされる日は、そう遠くはなかった。
「それでは閣下、契約成立ですわね。メリッサ、大公閣下へご挨拶を」
ジゼルに促され、ついに帝国一の美女がゆっくりとソファーから立ち上がった。
シルクのドレスを微かに揺らし、アルシードの前へと歩み寄る。その一挙手一投足が、まるで最高級の芸術品が動き出したかのように優雅で、無駄が一切ない。彼女はアルシードの視線を真っ向から受け止めると、絹糸のような睫毛を伏せ、両手でドレスの裾をふわりと広げて、完璧な、息を呑むほど美しいカーテシーを披露した。
「初めてお目にかかります、ベルンシュタイン大公閣下。オルブライト伯爵が娘、メリッサと申します。……閣下のような高貴なお方から、我が家のような実直なだけの伯爵家へ身に余るお言葉をいただき、身が引き締まる思いでございますわ。未熟な身ではございますが、閣下のご負担にならぬよう、慎んで婚約者の役目を務めさせていただきます」
鈴を転がすような、清らかで透明感のある声。顔を上げたメリッサは、非の打ち所がない完璧な淑女の微笑みをアルシードへと向けた。
──ドクン、と。アルシードの胸が、妙に大きく跳ね上がった。
(……な、んだ、これは……?)
これまで夜の社交界で、ありとあらゆる絶世の美女を相手にしてきた自負がある。女性の美しさに見惚れて言葉を失うなど、彼のプライドが許すはずもなかった。しかし、目の前で微笑むメリッサの、あまりにも神聖で、触れれば壊れてしまいそうな儚い美しさを前に、アルシードの思考回路は一瞬にして止まり、ただただ息を呑んで、その姿に魅了されてしまったのである。
──だが。その大公閣下のわずかな動揺を、周囲の男たちが見逃すはずがなかった。
ゾクッ、と全身の毛が逆立つ。
次の瞬間、応接室の室温が爆発的に急降下した。アルシードの全身に、肉眼で見えるのではないかと思うほどの、鋭く冷徹な瞳の矢が一斉に突き刺さる。
(……っ!?)
ガルフォードの「我が宝を汚す者は許さん」という覇気、ゲラルトの鋭い眼光、そしてシグルドとヴィンセントの二人の兄たちからの「今、メリッサを不埒な目で見たな?」という、網膜が焼け焦げそうなほどの視線のレーザービーム。
全員が、その美しい顔にこの上なく麗しい友好的な笑みを浮かべたまま──しかしその瞳の奥だけから、不届き者を今すぐ社会的、ならびに物理的に抹殺する一歩手前の、凄絶な光を放っていた。
「……ッ、ご、丁寧な挨拶を感謝する、メリッサ嬢。あなたのような美しい婚約者を得られて、私は果報者だ」
アルシードは心臓をバクバクさせながら、男たちの瞳の矢に射殺されないよう、必死に大公のポーカーフェイスを張り直して立ち上がった。
(あ、危なかった……。一瞬でも気を緩めたら、あの男たちにここで物理的に消されるところだった。……だが、これで契約は成立だ。後は私の完璧なリードで、この美しい人形を世間向けにエスコートしてやればいい)
こうして、ガラルディア帝国を揺るがす世紀の美男美女による偽装婚約が、お互いの凄まじいすれ違いと、壮絶な殺気の中で、静かに幕を開けたのであった。




