茨の誓い、猛き疾風
ヴィンセントが五歳で「知の才」を覚醒させて以降、オルブライト邸の日常には少しばかり奇妙な光景が混ざるようになっていた。
日中の猛稽古を終えた夕刻。
稽古場で鬼のような強さを見せつけていた七歳の長男シグルドは、汗を拭いながら、執務室の机に向かう弟の元へと足を運んでいた。
「……ヴィンセント、なにしてるんだ?」
木剣を担いだまま、何気なくヴィンセントの肩越しに手元を覗き込む。
五歳の弟が広げているのは、帝国軍の補給運用記録と領内税務の比較対照表───大人でも目を通すだけで頭を痛めるような、細かな文字と膨大な数字の羅列であった。
「父上からお預かりした、先月の軍需物資の監査書類ですよ、兄上」
「あ……かんさ……?」
ヴィンセントが淡々と羽ペンを走らせる横で、シグルドの視線が紙面をさまよう。
黒いインクでびっしりと埋め尽くされた羊皮紙。暗号のごとき複雑な計算式と、法規の条文。
それを目で追おうとした瞬間───シグルドの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
(……ぐ、目が……目が滑る……ッ!?)
シグルドにとって、剣の軌道を見切ることも、蚊の羽音を聞き分けることも造作もないことだった。だが、この紙の上に並ぶ無機質な数字の群れは、まるで氷の上を滑走するように視線を弾き返し、未知の古代呪術の陣となって網膜へ襲いかかってくる。
「う……ッ」
急激な眩暈と頭痛に襲われ、シグルドは思わず額を押さえてよろめいた。
「……兄上? どうされたのですか」
「……いや、なんでもない……。ただ、その……お前はよく、そんな不気味な黒い虫の足跡みたいなものを、じっと見つめていられるな……」
本気で気持ち悪そうに顔を顰める兄に、ヴィンセントはぱちくりと瞬きをした後、涼しい顔のまま綺麗に整った溜息をついた。
「虫の足跡ではありません。これは美しい論理の構築ですよ。……まあ、兄上には剣を振っていた方がお似合いですが」
「ぬ……! 馬鹿にされた気がするぞ!」
ガシガシと自分の頭を掻きむしりながら、「やっぱり俺は身体を動かしてくる!」と逃げるように稽古場へ戻っていくシグルド。
その力強い背中を見送りながら、ヴィンセントは小さく口元を緩めるのだった。
(……ふふ。兄上が剣で敵を倒すなら、僕はこれで家を守るまでだ)
一方、逃げるように稽古場へと駆け戻ったシグルドは、取り憑いた悪霊でも振り払うかのごとく木剣を振るっていた。
「────……おかしい。絶対におかしいぞ……っ!」
ブウンッ! ブウンッ! と、夕暮れの稽古場に激しい素振りの風切り音が響き渡る。
汗を飛び散らせながら木剣を振るうシグルドの脳裏には、先ほど弟の机の上で目撃した「悪魔の羊皮紙」の光景がこびりついて離れなかった。
シグルドにとって、世界は極めて単純明快だった。
敵が立ちふさがれば斬る。気配がすれば捉える。蚊が飛んでくれば叩き落とす。すべては「見え」「感じ」「動く」という直感の世界だ。
だというのに。
(なんなんだ、あの暗号は……! なぜあんな気味の悪い呪文を眺めているだけで、あいつは『軍需品の計算違い』なんてものが分かるんだ!?)
「はぁ……はぁ……ッ! どうかしてる……ヴィンセントの奴、頭の構造がどうかなってるんじゃないか!?」
素振りの手を止め、頭を抱えて髪を掻きむしるシグルド。
剣の天才である自分が、五歳の弟に対して「未知の恐怖」を感じているのだ。直感で生きる武人だからこそ、論理と数字という「感覚で捉えられない異質な強さ」に直面し、本気で恐慌をきたしているのである。
「おいシグルド、どうした? 今日の素振りはいつになく力が入っているな」
汗だくで頭を抱える息子を見かねて、父ゲラルトが声をかけてきた。
シグルドは藁にもすがる思いで、木剣を握りしめたまま叫ぶ。
「父上ッ! ヴィンセントの頭の中はどうなってるんですか!? あいつ、紙に書かれた虫の足跡を見ただけで、数字の計算を言い当てたんですよ!? 俺なんて見た瞬間に頭がクラクラしたのに……!」
興奮気味に訴える長男の言葉に、ゲラルトは豪快に胸を叩いて笑い飛ばした。
「ハハハ! 気にするなシグルド! あれが『知の才』という奴だ! 我らオルブライトの男にはさっぱり分からんが、だからこそヴィンセントは凄まじいのだ!」
「〜〜〜ッ! さっぱり分からんって、父上まで……ッ!?」
あまりにも堂々と言い切る父親の返答に、シグルドは「分からないのは俺だけじゃないんだ」という奇妙な安心感と、「父上すら分からないものを理解しているあの弟は、本当に怪物なのでは……」という更なる困惑の狭間で、いよいよ幼い頭が限界を迎えるのだった。
* * *
「いいかシグルド、ヴィンセント、そしてメイ! オルブライトの者ならば、まずは木登りと芝生ゴロゴロで大地と風を感じるのだ!」
澄み渡る秋晴れの休日。領内のなだらかな丘へピクニックに出かけた一家であったが、そこで待っていたのは、祖父ガルフォードによる実に豪快な「自然との戯れ」であった。
ガルフォードは八歳になったシグルドと六歳のヴィンセントの両脇を大きな手でひょいと抱え上げると、絨毯のように広がるふかふかの芝生の上へと一気に転がした。
「わははは! さあ、てっぺんから下まで転がり落ちるぞ!」
「うわあぁっ、目が回るーっ! 祖父上、速いです!」
「……祖父上、これでは服が草まみれになってしまいます……」
目を回しながらも大喜びで転がっていくシグルドと、服の汚れを気にしつつも涼しい顔のまま綺麗に回転していくヴィンセント。
その姿を追いかけながら、四歳になったばかりのメリッサが、短い足でよちよちと一生懸命に芝生の斜面を駆け下りてくる。
「きゃははっ! まてまてーっ!」
太陽の光を浴びて白銀の髪を揺らし、ころころと鈴を転がすような笑い声をあげるメリッサ。その天使のごとき愛らしさに、歴戦の猛者であるはずのガルフォードの顔は、もはや原型を留めぬほどに緩みきっていた。
「おお、メイや! メイも転がるか? ほぉれ、じいが受け止めてやるから、いつでも飛び込んでおいで!」
両手を大きく広げて待ち構えるガルフォードの胸へと、メリッサが「えいっ!」と飛び込む。すると彼女は、今度は兄たちの真似をして、自分で芝生の上にコロンと横になり、小さな体を一生懸命にゴロゴロと転がし始めた。
「みてみて、おじいちゃま! めいも、ごろごろー!」
「ぐっ……! なんという愛らしさだ……! ゲラルト、見ろ! メイが芝生と戯れておるぞ! まるで野に咲く妖精ではないか!」
孫娘の背中に小さな葉っぱがくっついているのを見て、目尻に涙すら浮かべんばかりに感動し、悶絶するガルフォード。少し離れた木陰でジゼルと共に茶の準備をしていたゲラルトも、「ええ、本当に誰に似たのか愛らしい限りですね」と、負けず劣らず甘い目元で頷いている。
「次は木登りだ! 手足の力だけであの枝まで登ってみせよ!」
「はいっ! 祖父上、俺、あの一番高い枝まで登ってみせます!」
ガルフォードから大木の登り方を伝授されたシグルドは、目を輝かせて幹へと飛びついた。
ひとしきり遊んだ後、ガルフォードとヴィンセント、そしてメリッサが、ジゼルの淹れたお茶とお菓子を楽しみに木陰へと戻っていった隙にも、シグルドは大木に向かって一人猛特訓を続けていた。
節くれだった樹皮に手足を引っ掛け、まるで小猿のような身軽さでスイスイと高みへ登っていく。
(ふふん、ヴィンセントにもメイにも、上からのすごい景色を見せてやるんだ!)
夢中で高い枝を目指し、ついに見事、目標としていた頂きの枝まで登り詰めた。
「おい、ヴィンセント! メイ! 見ろよ───」
誇らしげに胸を張り、下を振り仰いだ瞬間。シグルドの表情が凍りついた。
木の下に、二人の姿がない。
慌てて視線を巡らせると、お茶の席から少し離れた林の入り口へ向かって、ひらひらと舞う蝶々を追いかけながら、メリッサが一人で歩いていくのが見えた。そして、それに気づいたヴィンセントが、顔色を変えて必死にその後を追っていく。
(───なっ!?)
「メイ! ヴィンセント!?」
シグルドは叫ぶやいなや、低い枝まで一気に飛び移り、そのまま地面へと飛び下りて一陣の風のごとく林へと駆け出した。
(まずい、あの林の奥は……!)
木登りに没頭し、弟と妹から目を離してしまった自分への激しい後悔が、波のように押し寄せる。
そして、鬱蒼とした林の入り口に差し掛かった、その瞬間───。
「きゃあああああっ!! おにいちゃま!!」
シグルドの耳に、幼いメリッサの悲鳴が突き刺さった。
「メイッ!!」
心臓が跳ね上がり、生い茂る枝葉をがむしゃらに跳ね除けて突き進む。
視界に飛び込んできたのは───飢えて血走った目で低く唸る、五頭もの凶暴な野犬の群れだった。
その包囲の中央で、六歳のヴィンセントが地面に落ちていた木の枝を構え、恐怖で固まるメリッサを小さな背中に隠して、必死に野犬の注意を自分へと惹きつけている。
『ガウッ!』
一頭がヴィンセントへと飛びかかり、その鋭い爪がヴィンセントの白い頬をかすめ、赤い血がスッと一筋滲んだ。
「───俺の、弟と妹に……触れるなぁぁぁッッ!!!」
シグルドの頭の中で、何かが弾け飛んだ。
足元に落ちていた太い木の枝をひっつかむと、放たれた矢のごとき踏み込みで野犬の群れへと肉薄する。
渾身の力で叩きつけた一撃は、鈍く重い衝撃音を伴って一頭を弾き飛ばし、間髪入れずに二頭目の鼻先を強打した。
だが、相手は飢えた野犬の群れだ。残りの三頭が一斉にシグルドの隙を突き、死角から牙を剥いて躍りかかってきた。
(くそっ……数が多い……ッ!)
眼前に迫る鋭い牙。どれほど剣の才に恵まれていようと、その身体はまだ八歳の子供に過ぎない。
すべての猛攻を捌ききれず、一頭の牙がシグルドの腕を浅く裂き、鋭い痛みが走った。
体勢が崩れる。その隙を逃さず、残りの野犬たちがシグルドと、その背後にいる弟妹の喉元へと同時に飛びかかろうとした───その時であった。
───空気を激しく爆破したかのような、桁違いの凄まじい衝撃音が林全体に轟いた。
飛びかかろうとしていた野犬たちが、シグルドたちの指先に触れることすら叶わず、横合いから突如として吹き荒れた暴風のごとき一撃によって一斉に弾き飛ばされ、大木の幹に激突して昏倒する。
大地を揺らす重厚な足音とともに、子供たちの前へ立ち塞がるように降り立ったのは───。
「……我が子らに、牙を向けるか」
父、ゲラルト・オルブライトであった。
いつも家族に見せている温厚で優しい微笑みも、日頃の厳しい鍛錬で見せる武人の顔すらも、今の彼の前では生ぬるい仮面に過ぎなかった。
その広い背中から立ち昇っているのは、森の空気を一瞬にして凍てつかせるほどの、絶対的な強者のみが纏う「覇気」と、氷の刃のごとき「殺気」。
低く静かな声を落とすと同時に、ゲラルトはただ一歩、無造作に踏み込んだ。
八歳のシグルドの目をもってしても捉えきれぬ神速の間合い。そして、手加減など微塵も存在しない圧倒的な暴威が閃き───残る野犬たちは悲鳴を上げる間すら与えられず、一瞬のうちに薙ぎ払われ、文字通り全滅していた。
「……ハッ……ハッ……」
シグルドは荒い息を呑み、ただ茫然とその背中を見つめて立ち尽くしていた。
あまりにも強大で、あまりにも揺るぎない。これこそが、帝国屈指の武門を束ねる「オルブライト家当主」の真の武力。
だが、すべての脅威が去った次の瞬間、ゲラルトが纏っていた恐ろしいまでの殺気は、まるで最初から幻であったかのように跡形もなく消え去った。
「シグルド! ヴィンセント! メイ! 大丈夫か!?」
いつもの家族思いの父親の顔に戻り、血相を変えて膝をつくと、大きな両腕で三人を一気に抱きしめてくる。
「すみません、父上……俺が不甲斐ないばかりに、ヴィンセントに怪我を……」
「馬鹿を言うな! 八歳のお前が、恐怖に呑まれず二人を守ろうとここまで持ちこたえたのだ。……立派だったぞ、シグルド」
ゲラルトの大きくて分厚い手が、シグルドの頭を力強く、そして温かく撫でる。
溢れそうになる涙をぐっと拭いながら、シグルドは父の偉大な背中を見上げた。
(すごい……父上は、こんなにも強かったんだ……!)
頬の傷を手当てされながらも、自分を頼もしい兄として真っ直ぐに見つめてくれるヴィンセント。そして、涙で濡れた顔を拭い、小さな手で自分の服の裾にぎゅっとしがみついてくるメリッサ。
シグルドの幼い胸の奥底から、熱く滾るような情熱が激しく沸き上がってきた。
「俺……父上みたいになりたい……ッ!」
ぎゅっと小さな拳を握りしめ、シグルドは力強く叫んだ。
「もっと、もっと強くなる! 父上みたいに誰よりも強くなって……今度こそ、俺がヴィンセントもメイも、絶対に守ってみせるからな!」
その言葉を聞いたゲラルトは、一瞬驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに破顔してシグルドの小さな肩をバシッと力強く叩いた。
「ハハハ! 言ったなシグルド! そうだ、それでこそオルブライトの男だ! 誇りに思うぞ、我が息子よ!」
豪快に笑い飛ばす父の横で、難しい話はよく分かっていないものの、兄のとても頼もしい雰囲気を察したメリッサが、ぱあっと花が開くように目を輝かせてシグルドの腰に抱きついた。
「おにいちゃま、つよいつよーい! めい、おにいちゃまだいすきー!」
大好きな妹に満面の笑みでぎゅうっと抱きしめられた瞬間。
先ほどまでの凛々しい武人の顔つきはどこへやら、シグルドの目尻はこれ以上ないほど甘く下がり、嬉しさと愛おしさのあまり、その表情がふにゃりと可愛らしく綻びきった。
「……っ、俺も、メイが大好きだ!」
幸せいっぱいの笑顔で小さなメリッサを抱き上げ、その柔らかな頬に自分の頬をすりすりと擦り寄せる兄の姿に、隣のヴィンセントも呆れつつ、思わず「ふふっ」と愛らしい微笑みをこぼしていた。
「よし、さあ母上と祖父上のところへ戻ろう!」
茜色の夕日に包まれた丘。
前を歩く父ゲラルトの大きくて頼もしい背中を追いかけながら、シグルドは愛おしそうに眺める妹の小さな手をしっかりと握りしめる。その隣では、ヴィンセントが穏やかな微笑みをたたえて歩幅を合わせていた。
偉大な父親の強さと、愛する弟妹の温もりをその手に感じながら、八歳のシグルドは「最強の兄」になるための第一歩を踏み出すのだった。
* * *
夜風を切り裂き、激しく蹄を轟かせながら西の街道を疾駆するシグルドの脳裏には、あの日、手の中で震えていた二人の小ささと温もりが今も鮮烈に焼き付いていた。
(……メイ! ヴィンセント……ッ!)
手綱を握りしめるシグルドの手に、狂おしいほどの力がこもる。
暗殺者に命を狙われ、恐怖に震えているかもしれない愛しい妹。そして、その妹を庇いながら現場に踏み留まっている弟──ヴィンセント。
メリッサを護るためならば、ヴィンセントは己の命すら平気で秤にかける。あの六歳の秋の日、血を流しながらも必死に小さな枝を構えて妹を庇っていた幼い弟の姿が、今の状況と痛いほどに重なった。
(無茶をするなよ、ヴィンセント……! だが──お前なら、メイのために引き下がるはずがないんだ……!待っていろ、二人とも……!)
あの日、二人に擦り傷ひとつ負わせないと誓ったのだ。
長男として二人を守る「絶対的な武」となると誓ったあの日から、自分は一時たりとも鍛錬を怠ったことはない。
(今度こそ……絶対に、俺が二人を守ってみせる……!!)
夜闇を切り裂く四騎の嵐は、一路、血の匂いが漂う西の街道へと突き進んでいくのだった。




