道化の白薔薇、気高き盾
ガラルディア帝国において『武』の象徴たる名門、オルブライト伯爵家。
歴代、屈強なる武人を輩出し続けるこの無骨な一族に、歴史上初めての女児が誕生した。その奇跡の事実がもたらした衝撃は、帝国軍の頂点に君臨する男たちの精神構造に不可逆の変異を引き起こすこととなる。
メリッサと名付けられたその赤子が、初めて言葉らしきものを紡いだ日のことである。
「おいーたま」
陽光の差し込む遊戯室。ぽてぽてとした足取りで歩み寄り、天使の如き微笑みを浮かべた幼きメリッサが放ったその一言は、当時五歳の長兄シグルドの心臓を物理的な質量を伴って貫いた。
のちに帝国の令嬢たちから絶大な人気を誇る麗しき騎士となるこの少年は、その瞬間、手にした小さな木刀を取り落とし、妹の御前で深い忠誠の礼をとるように両膝から崩れ落ちた。
「……じいじ、とは、今、私を呼んだのか」
傍らでは、歴戦の猛将として他国からも恐れられる将軍ガルフォードが、顔を両手で覆いながら大真面目にむせび泣いていた。その横では若き将校ゲラルトが、「ああ。我が娘が呼んでいる。私を、おろーたま、と……」と虚空を見つめ、神からの啓示を受けたかのように戦慄している。
そして齢三歳の次兄ヴィンセントは、のちに切れ者の宰相補佐として冷たく微笑む面影など微塵もなく、「めい、かわいいねえ」と無邪気な笑みを弾けさせ、嬉しそうに妹の傍らで小さな手を叩いていた。
これが、のちに『茨』と称される男たちの、長きにわたる過剰防衛の幕開けであった。
月日は流れ、メリッサが五歳に成長した頃。
オルブライト伯爵家の庭園には、元気な足音が響き渡っていた。
将軍ガルフォードの『子供はのびのびと育てるべし』という豪快な教育方針のもと、メリッサは二人の兄と共に庭の巨木に登り、ふかふかの芝生を転げ回って育っていた。
古くから仕える侍女頭ロッタが「大旦那様! またお嬢様にそのような野蛮な真似をお教えになって!」と金切り声を上げても、ガルフォードは「はっはっは、気にするな!」と豪快に笑うだけである。若き将校ゲラルトも、母ジゼルも、木の上から手を振る愛娘を温かく見守っている。長兄シグルドに至っては共に木に登り、次兄ヴィンセントもなんだかんだと文句を言いながら芝生に座って妹の遊びに付き合っていた。
だからこそ、メリッサにとって木に登ることも、芝生に寝転ぶことも、ごく当たり前の「普通の日常」であった。
そんなメリッサが七歳を迎えた、ある春の日のことである。
彼女は初めて、他家が主催する園遊会へと招かれた。それは、同年代の貴族の令息や令嬢たちと顔を合わせる、社交デビューの第一歩であった。
「オルブライト伯爵家が長女、メリッサでございます」
陽光の下、柔らかな芝生の上で、メリッサは小さなドレスの裾をつまみ、子供ながらに完璧で愛らしいカーテシーを披露した。侍女頭から厳しく教え込まれた礼儀作法は、彼女の類まれなる美貌と相まって、一幅の絵画のように美しい。
「まあ、なんて愛らしいお嬢様でしょう」
「あの武門のオルブライト家から、これほど可憐な白薔薇が咲くとは」
周囲の大人たちは目を細め、微笑ましそうに賛辞を贈る。
しかし、美しく微笑みながらも、メリッサの内心には小さな疑問符が浮かんでいた。
(あれ……? なんだか、皆様、雰囲気が違うわ)
同年代の子供たちと挨拶を交わす段階で、すでに強烈な違和感があったのだ。
目の前に立つ令嬢たちは、誰一人として日に焼けておらず、まるで陶器の人形のように静かに立っている。令息たちも、兄であるシグルドやヴィンセントのようなしなやかな体幹の強さがなく、どこかひ弱に見えた。何より、誰一人としてこの美しい芝生の上に座ろうとも、駆け回ろうともしないのだ。
子供たちだけでテーブルを囲み、歓談の時間となった時、メリッサは素朴な疑問を何気なく口にしてしまった。
「皆様の邸には、登りやすい木はありますか? 男の方たちは、やはり高い木に登られるのかしら」
その瞬間、令嬢たちは目を丸くし、次いでクスクスと上品に笑い始めた。
「まあ、メリッサ様。冗談がお上手なのね」
「貴族が木登りなんて、するわけがないでしょう? みっともないわ」
「芝生の上を走るなんてことも、あり得ませんわね」
メリッサは、雷に打たれたような衝撃を受けた。
(えっ……? みんな、木登りしないの? 芝生でゴロゴロしないの?)
冗談だと思われ、自分が木登りをしているとは言い出せなかったメリッサは、愛らしい微笑みを顔に貼り付けたまま、心の中で激しく動揺していた。
(誰も走らないの? 木登りは、がさつでみっともないことなの……!?)
自分が「普通」だと思っていた常識が、外の世界では全くの非常識であったという事実。
これが、メリッサ・オルブライトの心に落ちた、最初の一滴であった。
その夜。豪奢な天蓋付きのベッドに潜り込んだメリッサは、ふかふかの布団を頭まで被り、一人悶々としていた。
(……ちっとも、楽しくなかったわ)
昼間の園遊会の光景が、ぐるぐると脳裏を巡る。
同年代の子供たちとの交流は、まさに貴族らしさ百パーセントの世界であった。誰も大声を上げず、ただ静かに席に座り、お淑やかに微笑み合いながら、当たり障りのない挨拶や季節の花の話題を交わすだけ。
そこには、庭を走り回って風を切る喜びも、木の上から遠くの景色を見渡す達成感もない。ただ綺麗に着飾って、人形のようにおとなしくしているだけの時間は、木登りを愛するメリッサにとって退屈以外の何物でもなかった。
だが、今の彼女の心をそれ以上に苛んでいるのは、圧倒的なカルチャーショックである。
(みんな、本当に木登りしないの……? 芝生の上でゴロゴロするのは? 誰も走ったりもしないの……?)
ふりふりのネグリジェを身に纏った小さな身体を丸め、メリッサはひたすら真剣に思い悩んでいた。
(じゃあ、お兄様たちと木に登って遊んでいる私は、がさつで、みっともないの……?)
オルブライト家では、それが『普通』であったのだ。祖父も、父も、母も、皆が木に登る自分を笑顔で褒め称え、推奨していたではないか。
自分のこれまでの人生と、外の世界の常識。そのあまりにも巨大な隔たりに、幼きメリッサはただひたすらに混乱し、小さな頭を抱えるしかなかった。
それから数日後。母ジゼルに連れられて、帝都でも名高い華やかなティーサロンへ出かけた時のことである。
美しい装飾が施されたテーブルで、ジゼルと向かい合いながら美味しいフルーツタルトを銀のフォークで堪能していたメリッサの耳に、ふと、隣の席に陣取る貴婦人たちのひそひそ話が飛び込んできた。
「お聞きになりまして? 先日の園遊会での、ルッツ男爵家のご令息のこと」
「ええ、ええ。珍しい蝶を見つけて、あろうことか芝生の上を走って追いかけられたとか」
「あまつさえ足をもつれさせて転び、お召し物に泥をつけてしまわれたのでしょう? まあ、はしたない」
「男の子とはいえ、公の場で走り回るなど、まるで平民の子供ですわね。基本的な礼儀作法すらご存知ないのかしら」
「恥ずかしいこと。きっと、ご家族の教育がまともではないのよ。ルッツ家もすっかり笑い者ですわね」
扇の陰で上品に笑い合う貴婦人たちの声を聞き、メリッサはサァッと血の気が引くのを感じた。
(蝶を追いかけて走っただけで……転んで泥がついただけで、ご家族が『まともじゃない』と笑われるの!?)
もし、あれが自分だったら。
木に登り、芝生を転げ回り、泥だらけになって遊んでいる自分の姿を、この大人たちが見たならば。
『まあ、木に登るなんて。オルブライト家はまともな教育ができないのね』
『恥ずかしい。ご家族もきっとまともじゃないのよ』
そんなふうに、大好きな『お祖父様』や『お父様』、『お母様』、優しい『お兄様』たちが、理不尽に嘲笑されるのだ。
それは、幼いメリッサにとって世界の終わりよりも恐ろしいことであった。あの強く、優しく、かっこいい自慢の家族に、自分のせいで泥を塗るようなことだけは、絶対に、何があっても避けなければならない。
手にした銀のフォークをぎゅっと握りしめ、メリッサは心の中で固く、深く誓った。
(私、完璧なレディになるわ。誰も、私のお祖父様たちを笑えないくらい、立派で、非の打ち所のない淑女に……!)
愛する家族の威厳を守るため、メリッサが自ら『深窓の令嬢』という強固な仮面を手に取った、決定的な瞬間であった。
その日から、メリッサは人が変わったように淑女への道を歩み始めた。
まず彼女は、母ジゼルに「立派なレディになるにはどうすればいいの」と教えを乞うた。
重度のロマンス小説愛好家であるジゼルは目を輝かせ、「いいこと、メイ。ヒロインたるもの、常に可憐で、殿方に守られる儚さを持たなくてはなりません」と、己の偏った美学を愛娘に吹き込んだ。
並行して、歓喜にむせぶ侍女頭による厳格な礼儀作法の教育も始まった。愛する家族の威厳を守るという確固たる目的を持つメリッサは、それらの教えを恐るべき速度で完璧に吸収していった。
大好きな木登りはきっぱりとやめた。芝生の上を走ることも、大きな声を出すことも一切封印し、常に儚げな微笑みを浮かべて静かに歩く。それは幼いながらも見事なまでに完璧な『深窓の令嬢』の姿であった。
──しかし。
その完璧すぎる令嬢の誕生は、オルブライト家の男たちにとって、国家存亡の危機にも等しい大事件であった。
「……我が家の太陽が、輝きを失ってしまった」
邸内の執務室。歴戦の猛将として名を轟かせる将軍ガルフォードが、頭を抱え、重々しく呻いた。その声には、敗戦の将のような深い悲壮感が漂っている。
「ええ。木登りにも誘ってくれませんし、庭を走ることもなくなりました。一体何事でしょう……何かの重病でしょうか」
若き将校ゲラルトも、この世の終わりのような絶望に顔を歪めている。
彼らには、愛するメリッサから突然元気が失われた理由が全く理解できなかった。なぜなら彼らにとって、令嬢が木に登り、泥だらけで庭を駆け回ることは「当たり前の日常」であったからだ。
「違う、病気などではない。これはおそらく、他国の呪術師による精神攻撃だ。すぐに私が討伐に向かおう」
十一歳の長兄シグルドは、木刀ではなく本物の真剣を握りしめ、凄絶な殺気を放ちながら大真面目に討伐任務に赴こうとしていた。
「待ってください、兄上。まずは呪術の出所を特定するのが先です。帝都の出入り記録を洗いましょう」
九歳の次兄ヴィンセントも、幼いながらも冷徹な瞳を光らせ、物理的な報復手段の構築に乗り出している。
メリッサ本人は「家族を笑い者にしてはならない」と、息が詰まるような思いに耐えながら、必死に完璧な淑女を演じ続けていた。
しかしその努力の裏で、『茨』たちは「元気なメイを奪った見えざる敵」に対して大真面目に苦悩し、邸宅内は今にも他国との戦争が始まりそうな、重苦しい殺気と緊張感に包まれていたのである。
完璧な淑女の仮面を被り始めて数週間。
自室の長椅子に背筋を伸ばして座り、微動だにせず本を読んでいたメリッサは、ふう、と誰にも聞こえないほどの小さなため息をこぼした。
(息が、詰まりそう……)
走りたい。庭の大きな木に登って、風を感じたい。けれど、伯爵令嬢たるもの、立派な淑女でいなければ。大好きな家族が笑い者にならないように。
その時、控えめなノックと共に、若き将校である父ゲラルトが部屋に入ってきた。
彼は張り詰めた糸のような愛娘の背中を見て、痛ましく眉を下げる。そして、長椅子の傍らに膝をつき、メリッサと同じ目の高さで優しく語りかけた。
「メイ。……無理をしていないかい」
「無理など、しておりませんわ、お父様」
完璧な微笑みで返すメリッサ。しかし、ゲラルトは静かに首を横に振った。
「おまえが突然木登りをやめ、走らなくなった理由を、私たちはまだ聞けていない。何が不満なわけでも、体を悪くしたわけでもないことはわかっている。……どうか、私にだけは教えてくれないか」
その深く温かな父の声に触れた瞬間、メリッサの中で張り詰めていた糸がふつりと切れた。
大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「だって……っ、私が木に登って、お外を走ったら、お父様たちが『まともじゃない』って笑われるって……っ! 他の皆様は、誰も木登りなんてしないって……!」
しゃくり上げながら吐露されたその幼くも切実な本音に、ゲラルトは目を見開いた。
娘から元気が失われた理由。それは他国の呪術でも病でもなく、他でもない自分たち家族の威厳を守るための、幼いなりの自己犠牲であったのだ。
ゲラルトは、愛おしげに娘をきつく抱きしめた。
「世間の目など、どうでもいい。他家の連中が何と言おうと、我がオルブライト家は揺るがない。メイは、ありのままでいいのだ。庭を走り、木に登り、泥だらけになって笑う元気なメイが、私は一番好きだよ」
その言葉が響いた直後である。
突如、部屋の重厚な扉がバーン!と勢いよく開き、息を殺して外で隠れ聞いていた者たちが雪崩れ込んできた。
「その通りだ! よく言ったゲラルト!」
ガルフォードが、滝のような涙を流しながら豪快に踏み込んでくる。
「妹よ! 愚かな世間の声など、この兄がすべて斬り捨てよう! メイはまた私と共に木に登っていい!」
シグルドが、木刀を天に掲げて大真面目に叫ぶ。
「泣かないで、メイ。私たちの大切なメイ」
ヴィンセントも駆け寄り、妹の小さな手をぎゅっと握りしめた。
帝国軍を牽引する猛将と、のちに国家の最高戦力となる幼き神童たちが、一人の少女の涙を前に総出で膝をつき、己の威信などかなぐり捨てて「ありのままでいい」と全肯定して泣いている。
その不器用で、いっそ異常なほどに深く重たい愛情に囲まれ、メリッサの心はすっかりと晴れ渡っていった。
翌日、オルブライト家の庭には、数週間ぶりに木の上から響く銀鈴のような笑い声が戻ってきた。
ばあやの金切り声を遠くの小鳥のさえずり程度に受け流し、シグルドと共に高い枝にまたがりながら、メリッサは実に晴れやかな気分であった。
(世間の目なんてどうでもいいと、お祖父様たちは言ってくださったわ)
だが、聡明なメリッサは同時にこうも考えていた。
愛する家族は気にしないと言ってくれたが、それでもやはり、外で木登りなどして笑い者になるのは避けたい。家族の威厳は、娘である自分が守らねばならないのだ。
(だったら……お外に出た時だけ、あの『おすまし』の仮面を被っていればいいんだわ!)
家の中では、元気なありのままの姿で過ごす。
一歩外へ出れば、ジゼルの教え通り、可憐で儚げな『深窓の令嬢』を完璧に演じきる。
そうすれば、愛する家族に心配をかけることもなく、外の理不尽な悪意から一族の威信を守ることもできるのだから。
こうして、のちに帝国一の美女と謳われることになるメリッサ・オルブライトの、完璧なる『白薔薇の擬態』は完成した。
同時に、その二面性をすべて知り尽くした上で、外で彼女に群がる虫たちを過剰な殺気で排除し続ける『茨』たちの、長く果てしない大真面目な戦いも、ここから本格的な幕を開けることとなるのである。




