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麗しの薔薇には棘がある  作者: 夢羊
麗しき道化の幕間(番外編)
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茨の血脈、知の城壁


 オルブライト伯爵家の屋敷に、張り詰めた静寂を切り裂くような、力強い赤子の産声が響き渡った。


 無事に出産を終えたジゼルが横たわる寝室へ、扉を叩く音ももどかしく駆け込んできたのは、帝国屈指の武将たちである。



「此度も男児であったか! 実に元気な産声……なんと凛々しい顔立ちか! ジゼル、ようやった!」



『鬼将軍』と恐れられる祖父ガルフォードが、豪快に破顔しながら義理の娘を労う。


 その傍らでは、ゲラルトが片腕に二歳になるシグルドを抱いたまま、ベッドの傍らに膝をついていた。ゲラルトは愛おしそうにジゼルの手を握り締め、深く感謝を捧げる。



「ありがとう、ジゼル……。シグルド、弟ができたぞ」


「ふふ、シグルド。今日からあなたはお兄さんになるのよ」



 ジゼルが可憐な笑みを浮かべて語りかけると、ゲラルトの腕の中にいるシグルドは、まだ舌足らずな幼子らしく、不思議そうに生まれたばかりの赤ん坊を見つめていた。そして、小さな手を伸ばし、弟の柔らかい頬にそっと触れる。


 生まれたばかりの次男───ヴィンセント。


 その力強い産声と、乳児とは思えぬ整った顔立ちを目にした男たちは、皆、確信していた。


 ガルフォード、ゲラルト、そして幼くしてすでに武の片鱗を見せる長男シグルド。


 彼らに続き、オルブライト家の栄光ある未来を担う、もう一人の「武人」が誕生したのだと。


 ──この時、誰もがそれを信じて疑わなかったのである。



  *  *  *



 ヴィンセントが四歳を迎えた年、オルブライト家に誕生した待望の愛娘───メリッサが二歳を迎えた。


 天使のように愛らしい妹の存在に、日々屋敷の男たちは狂喜乱舞していた。だが、その情愛の表現方法は、幼い兄弟の間でも驚くほど極端に分かれていたのである。


 メリッサの立ち入る子供部屋。


 そこで常人には窺い知れぬ「超厳戒態勢」を敷いていたのは、六歳になった長男シグルドであった。


 すでに小さな木剣を身体の一部のごとく扱い始めていたシグルドは、二歳になり可愛らしく歩き回る妹の傍らに仁王立ちし、鋭い眼光で部屋の隅々にまで気を配っている。



「───んッ!」



 ふいに空中へ向かって疾風のごとく手が伸びた。


 パンッ、と乾いた打撃音が室内に響く。シグルドがそっと手を開くと、そこにはメリッサの肌を狙って侵入してきた一匹の蚊が潰れていた。



「ふぅ……よし。メイ、害虫は兄上が退治してやったぞ」



 六歳にして驚異的な反射神経と凄絶な殺気を放つ長男に、通りかかった父ゲラルトと祖父ガルフォードは、「ほう……! 見事な間合いと集中力」「あの歳で気配を察知するとは、将来が楽しみだ!」などと、感心しきりで頷き合っている。


 一方、そんな武闘派たちの熱苦しい空気から遠く離れた静寂の一角。


 四歳のヴィンセントは、小さな椅子にちょこんと腰掛け、膝の上に一冊の大きな絵本を広げていた。


 二歳を迎えたメリッサは、まだつたない足取りでトコトコと歩み寄ると、ヴィンセントの膝にちょこんと顎を乗せて目を輝かせ、大好きな兄の側にいようと小さな手を伸ばして絵本のページをペシペシと叩いている。


 ヴィンセントは、母ジゼルが自分にしてくれたように、幼いながらも非常に落ち着いた、波立てぬ穏やかな声で絵本を読み聞かせていた。



「『……こうして、森のくまさんは無事におうちに帰りました』……ふふ、メイ。くまさん、よかったね」



 ヴィンセントが優しく話しかけると、メリッサが小さなお手てをパチパチと叩き、「あー! うー!」と機嫌良さそうに愛らしい笑い声を上げる。


 その瞬間、ヴィンセントの整った幼顔に、ふわりと可憐な笑みが浮かんだ。



(ああ……可愛いな。ずっとこうして、メイに絵本を読んであげていたい……)



 シグルドが「武力」で妹に害なすものを物理的に排除しようとするならば、ヴィンセントは「言葉と知識」で妹の心を穏やかに満たそうとしている。


 この時、ヴィンセントにとっての至福とは、間違いなくこの静かで愛おしい「読み聞かせの時間」であった。


 ───しかし。


 そのような平穏な日々も束の間。


 ヴィンセントが五歳という「悪夢の節目」を迎えたことで、その静寂は呆気なく破られることになるのだった。


 五歳を迎えたまさにその日。ヴィンセントの手には、ついにずっしりと重い木剣が握らされた。



「さあヴィンセント、今日から本格的な訓練の始まりだ! オルブライトの男として、とことん鍛え上げてやるからな!」



 ガルフォードとゲラルトが腕を組み、爛々と目を輝かせながら稽古場で待ち構えている。



(……ついに、この日を迎えてしまった)



 手に残る木剣の冷たく固い感触に、ヴィンセントは心の中で静かに溜め息をついた。避けては通れぬ道だと分かってはいたが、やはり胸を占めるのは重い憂鬱だった。



「……ハッ!……フッ!」



 幼い掌が赤く擦れ、額から汗が吹き飛ぶスパルタな指導が始まる。


 普通の子なら泣き出して逃げ出すような苛烈なメニューだが、ヴィンセントは持ち前の要領の良さとオルブライトの血筋ゆえに、完璧なフォームで素振りをこなしてみせる。



「よし、次はシグルドと手合わせだ!」



 呼ばれて前に出てきたのは、七歳になったシグルドだ。


 木剣を構えたシグルドの眼光はすでに本物の武人のもので、弟相手だろうと一切の手加減がない。



「行くぞ、ヴィンセント! 全力で来い!」


「……はい、兄上」



 激しい打ち合いが始まる。


 ヴィンセントは持ち前の観察眼と器用さでシグルドの一撃を受け流し、時に見事なカウンターを繰り出す。



「ほう! 今の受け流しは見事だぞ!」


「筋が良い! やはりオルブライトの男だ!」



 父親たちが歓声を上げる中、当のヴィンセントは死ぬ気で木剣を受け止めていた。



(……速い! 冗談でしょう、七歳でこの腕力と踏み込み!? 打ち合いを続けたら僕の手首が折れる……!)



 兄の規格外な才能と踏み込みの強さに心の中で激しく驚愕しながら、凄まじい思考を巡らせていた。



(……兄上は、紛れもない剣の天才だ。……だけど、僕の戦場はここじゃない)



 全身泥まみれになりながらも、ヴィンセントの瞳の奥には冷徹なまでの静けさと、熱い情熱が宿っていた。



(僕は、もっとたくさんのことを学びたいんだ。帝国の歴史、法規、世界の仕組み……本の中に詰まっている無限の知識を修め、この頭脳で世界を動かしたい……!)



 剣を振るうこと自体は、オルブライトの男としての務めとして完璧にこなしてみせる。


 だが、自分が本当に心を躍らせ、才能を燃やせる場所は「武」ではなく「知」の世界なのだと、五歳のヴィンセントははっきりと自覚していた。


 稽古場で泥まみれになりながらも、寸分の狂いもなく木剣を振るうヴィンセント。


 ゲラルトやガルフォードは、「見ろ! 五歳にしてあの構え、やはりオルブライトの血だな!」と大歓声を上げている。


 だが、屋敷のテラスからその光景を優雅にお茶を飲みながら眺めていたジゼルだけは、ふっと優しく目を細めていた。



(ふふ……あの人たちは、あの子が『オルブライトの男としての義務』を器用にこなしている姿しか見えていないみたいね)



 ジゼルは前々から気づいていた。


 ヴィンセントが三歳の頃、木剣をぽいと放り投げて絵本を熱心に眺めていた姿。


 四歳になり、小さなメリッサの傍らで、言葉も十分に分からない妹に嬉々として本を読み聞かせていた時の穏やかな横顔。


 そして、稽古の合間に書斎へ忍び込み、幼い手で分厚い歴史書や帝国の法規を紐解いている時の、あの今にも飛び立ちそうなほど爛々と輝く瞳。



(あの子は、剣を握されている時よりも……紙とペンを手に取り、新しい知識を学んでいる時の方が、ずっと生き生きとした顔をしているわ)



 どれほど武闘派の血筋に生まれようと、どれほど稽古を器用にこなしてみせようと、彼の魂が真に求めているのは「武」ではなく「知」の世界であるということ。


 ガルフォードやゲラルトが「次の武将」として期待を寄せる中、ジゼルだけはヴィンセントがオルブライト家にもたらすであろう「もう一つの可能性(突然変異の天才)」を、すでに静かに確信していたのである。



  *  *  *



 昼間の地獄のようなスパルタ稽古を終え、疲れ果てて眠りについたと思われていた五歳のヴィンセント。


 だが深夜、屋敷の書斎の扉がわずかに開き、静かな明かりが漏れていた。


 たまたま執務の続きをしようと書斎を訪れたゲラルトとガルフォードは、その光景に足を止めた。


 小さな灯りの下、幼い手で自分たちの身長ほどもある分厚い領地予算の書類や法規を広げ、一心不乱に目を通している五歳のヴィンセントの姿があったのだ。



「……ヴィンセント? こんな夜更けに何をしているのだ」



 ゲラルトの太く重厚な声に、ヴィンセントはビクッと肩を跳ねさせた。



(……しまった! 勝手に大事な書類を触って怒られる……!)



 夜中に忍び込んで書類を漁っていたのだ。叱られると悟ったヴィンセントが緊張で身を固くしたその時、書斎の明かりに気づいたジゼルが、廊下からそっと様子を見にやってきた。



「あらあら、どうなさったの?」



 ジゼルは二人の背後から固まっている父子の様子を覗き込むと、すべてを察したように優しく微笑んだ。



「ふふ……驚かれました? あの子は剣を握らされている時よりも、こうして難解な本や書類と向き合っている時の方が、ずっと生き生きとしていますのよ」



 ジゼルが穏やかに二人へ語りかける。


 だが───ガルフォードとゲラルトの反応は、ヴィンセントの想像とは大きく異なっていた。


 二人は一切の笑みを消し、恐ろしいほど真面目な、重苦しい強面のまま固まっていたのだ。戦場で見せるような威圧感を孕んだ鋭い眼光で、じっと幼いヴィンセントを見つめてくる。



(……お、怒っている……!? 怒らせてしまった……!)



 幼いヴィンセントにとって、オルブライトの誇る屈強な武将二人の本気の真顔は恐怖でしかなかった。あまりの威圧感に背筋を冷や汗が伝い、生きた心地がしない。


 ───と、次の瞬間。



「……ぶはっ、ははははははは!!!」



 ゲラルトが爆発したような雷鳴のごとき笑い声をあげた。


 恐怖に硬直するヴィンセントの脇の下に大きな手が差し込まれ、ひょいっとまるで羽毛か何かのように「高い高い」の要領で高く持ち上げられる。



「うわっ……!?」


「そうか! そういうことかヴィンセント! お前は『そっち』だったのだな!!」



 楽しそうに目を輝かせ、豪快に笑うゲラルトに、ヴィンセントは目を丸くして呆然とするしかなかった。


 隣ではガルフォードも、髭を蓄えた口元をこれでもかと綻ばせ、雷のような大声で笑っている。



「ガハハハハ! 我がオルブライトから、ついに『知の才』を持つ男が出たか! これはめでたい、実に目出度いぞ!」



 拍子抜けするヴィンセントだったが、抱え上げられたまま、ふと思い出したようにゲラルトの書類を指差した。



「……あ、あの、父上……。お怒りでないのなら、その……この書類なのですが」


「ん? 書類がどうした?」


「その……三行目の補給費用の計算、足し算が間違っています。それに帝国の最新の法規に照らすと、この税率は適用できません……だから、全体の予算がズレてしまっていて……」



 至極当然のように告げられた五歳児の指摘。


 書斎の空気が再びピタリと静まり返った。


 ゲラルトとガルフォードは弾かれたように慌てて書類に目を落とし、書き込まれた数値と法規を照らし合わせる。そして───数秒後、二人の目がこぼれ落ちんばかりに見開かれた。



「……ほ、本当だ……! 計算が合っておらん……!?」


「法規の特例まで把握しているだと……!? 五歳だぞ!? 五歳の子どもが、私たちが頭を悩ませていた予算書の不備を一瞬で見抜いたというのか!?」



「知の才が出た」どころの騒ぎではない。



「天才だ……! 我が家に、歴史に名を刻むレベルの超天才が生まれたぞぉぉぉっ!!」


「宴だ! 今すぐ酒を持ってこい! オルブライトの未来は明るいぞ!!」



 深夜の屋敷に、将軍たちの歓喜の大絶叫が響き渡る。


 持ち上げられたままのヴィンセントは、あまりの騒ぎように、ぱちぱちと瞬きをして、ただ呆然とするのだった。



(……これで少しは、稽古の時間を減らして本を読ませてもらえるといいな……)



 ───こうして、オルブライト家の「突然変異の神童」の覚醒は、豪快な歓喜と共に家族に知れ渡ったのである。



  *  *  *



 アルシードへの完璧なる断絶の宣告を書き進め、最後の句点を打つその直前。ヴィンセントはふと筆を止め、窓の外へと視線を向けた。


 視線の先、暖かな朝光に包まれた庭園では、侍女たちに囲まれた愛くるしい妹が、いつもの健やかな笑顔を咲かせている。


 ────幼き日。武門の血に抗うように、泥まみれの稽古場で「知」の道を選んだあの五歳の選択は、決して間違いなどではなかった。



(兄上と同じ道を歩んでも、私は兄上を超えられなかった。……だが、文の道を選んだからこそ、私はこの国を動かし、誰よりも安全にメイを護る城壁となれたのだ)



 愛する妹の未来を脅かす者は、大公であれ公爵家であれ、この「知の城壁」を越えさせることなど断じて許さない。


 カサ、と静かな音を立てて、最後の一文が羊皮紙に刻み込まれた。ヴィンセントは丁寧にそれを折り畳み、胸元へと収める。使者など立てるつもりはなかった。自らの手で直接あの男へ突きつけてこそ、完璧なる決着と言えた。



  *  *  *



 馬車に揺られること、ひと刻(とき)。たどり着いたのは、帝国の重鎮たるベルンシュタイン大公家の広大な邸宅であった。


 重厚な鉄飾りの施された門前に降り立ったヴィンセントは、眼前に聳(そび)え立つ威容に満ちた大公邸を、冷ややかな視線で見上げる。


 失血の余韻を残す蒼白な顔に、文官の頂を極めし宰相補佐としての、酷薄にして完璧な笑みを湛え───ヴィンセントは静かに、眼鏡のブリッジを端正な指先で押し上げた。



「……さて。参りましょうか」



 一切の迷いを捨て去った足取りで、彼は「天敵」の潜む城塞へと、堂々と足を踏み入れていくのだった。


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