薔薇の生垣、美しき不協和音
ガラルディア帝国の絢爛たる宮廷回廊を、一糸乱れぬ純白の軍服に身を包んだ男が闊歩していた。
近衛騎士隊長シグルド・オルブライト。
皇帝直属の精鋭たる近衛騎士を統べる長であり、その端正極まる容姿は、見る者すべてを平伏させるほどの峻厳たる美を放っている。
「……あら、シグルド様だわ」
「今日もなんて凛々しく、お美しくていらっしゃるのかしら……」
壁際に佇む貴婦人や女官たちが、次々と熱い吐息を漏らし、うっとりとその姿を見送った。彼女たち宮廷の住人にとって、麗しき近衛騎士隊長の登城を拝むことほど贅沢な娯楽はなかった。氷彫細工を思わせる冷徹な横顔、一切の隙のない優雅な足取り。
彼女たちは、若き近衛騎士隊長が国家の命運を左右する重責、あるいは軍事の極意について深く思索しているものと確信し、その孤高の威厳に気高きときめきを募らせていた。
しかし。
衆目の羨望を一身に集めるシグルドの脳内は、ただひたすらに、至高の領域へと達した最愛の妹メリッサの愛らしさのみで占められていた。
(昨日は手土産として持ち帰った菓子を、メイは本当に嬉しそうに食べていたな。小さな唇を動かし、美味そうに頬張る様は、天上の天使の羽ばたきにも勝る奇跡の光景。裁縫の講義をすっぽかしてばあやに厳しく叱責され、悪戯っぽく破顔したあの無垢な美しさ。今朝、出勤の折に可憐な笑顔で見送ってくれた、あの愛らしさ……。………何故、何故我が妹はあんなにも可愛いのか……!)
国家の存亡を賭けた最高軍事会議のごとき深刻さで、シグルドは大真面目に妹の尊さを反芻していた。眉ひとつ動かさぬ鉄壁の表情の裏で、その魂は妹の可憐さに震え、感涙に咽び泣かんばかりの熱量に達している。
だが、その陶酔の時間は瞬時に打ち砕かれた。
脳裏に浮かぶ妹の姿の背後に、その純潔を脅かす不埒極まる外敵───アルシード・フォン・ベルンシュタイン大公の、軽薄極まる笑顔が割り込んできたからである。
(あの不埒者が……。政争の盾に我が妹を利用するのみならず、あわよくばメイの純潔を掠め取らんとする邪心が透けて見える。我が命に代えても、絶対に許さぬ……)
思考が不快の極みへと転じた瞬間、シグルドの美しい眉が、わずかに、しかし極めて冷酷に潜められた。
途端に、彼の全身から漆黒の殺気と凄絶なる威圧感が周囲へ向けて漏れ出す。周囲の令嬢たちは、そのあまりの覇気と高貴なる厳しさに、さらに胸を高鳴らせて身を震わせた。
そんな宮廷の片隅、薔薇の生垣で遮られた物陰から、数人の若き男たちの声が響いた。それは、シグルドが率いる近衛騎士隊の部下たちの声であった。彼らは周囲を警戒しつつも、抑えきれぬ熱情を帯びた声で、ある「女人」について密談を交わしていたのである。
「……たとえ、メリッサ嬢が大公閣下と婚約を結ばれたとしても、私のこの胸の熱き想いが褪せることは決してない」
「ああ、私もだ。たとえこの恋情が報われぬものだとしても、私はこの生涯をかけて、あの御方に無垢なる心を捧げ続けるだろう」
薔薇の生垣の陰で、若き近衛騎士たちが拳を握りしめ、悲劇の騎士を気取って熱弁を振るっていた。彼らは帝国一の美女と謳われるメリッサの、あの深窓の令嬢たる儚げな美貌に、完全に心を奪われていたのである。
彼らにとって、それは騎士としての清らかなる思慕の告白であった。当然、大公閣下の婚約者に対して不敬なる悪事を働く気など毛頭ない。ただ、己の純情を熱く語り合っていたに過ぎなかった。
しかし、生垣の向こうで妹の名を、しかも恋情を込めて囁く世迷い言を聞いた瞬間、シグルドの脳内には猛烈なる嵐が吹き荒れた。
(……メイがこれほどまでに愛らしく、無垢なる美を湛えているのだ。若く純真な近衛騎士たちが、その心を満たすすべての情熱を捧げんとするのも無理からぬこと。我が妹の輝きは、それほどまでに至高にして絶対……。───だが。それはそれとして、不埒な男どもが我が妹にそのような不純なる恋情を向けるなど、兄として、上官として、到底見過ごせるものではない。これ以上の甘言を口にすることは断じて看過できぬ……)
シグルドは静かに、しかし規律の化身たる寸分の乱れもない足音で、薔薇の生垣を回り込んだ。
突然現れた上官の姿に、若き騎士たちは驚愕し、一瞬にしてその顔に隠しきれぬ後ろめたさを走らせた。拝領したばかりの婚約の噂、しかも厳格なる上官の最愛の妹君に対する密談を聞かれたのだ。近衛騎士としての分を弁えぬ己の軽率さに、彼らは一様に息を呑み、気まずさに身を固くする。
シグルドは声音ひとつ変えず、至極厳粛に、凍てつくような双眸で部下たちを見下ろした。
「……それは、大公閣下の権威に背く事になると思わないか?」
「た、隊長……!」
近衛騎士たちがその峻厳たる言葉に息を呑んだその瞬間、静寂の宮廷に、鋭く冷徹な金属音が響き渡った。
シグルドが躊躇なく腰の長剣を「抜剣」したのである。
燦然たる陽光を浴びて、白銀の刃が冷酷な光を放つ。その一点の曇りもない厳粛なる威風に、部下たちは宮廷の治安を司る長の、妥協なき規律の重みを肌で感じ、ただただ圧倒されてその身を正した。
しかし、シグルドが白銀の長剣を抜いたのは、背徳を働いた部下を断罪するためではなかった。
彼は迷いのない流麗な所作で剣の切っ先を天へと向け、己の額の前へと掲げた。
それは、国家、あるいは絶対の主君に対して「不変の誓い」を立てる際の、最も高貴なる騎士の礼式であった。
シグルドは、まるで神聖なる祭壇の前で祈りを捧げる神官のごとき厳粛な面持ちで、朗々と告げた。
「近衛たる者、帝国の秩序を乱す不義の心を抱くべからず。我が剣は、大公閣下とその婚約者たるオルブライト伯爵令嬢の栄光を護るためにこそある。貴官らもまた、その熱き情熱をすべて国家への忠誠へと変え、我が剣に続くがいい」
その姿は、あまりにも美しく、あまりにも公明正大なる忠義に満ちあふれた至高の騎士長そのものであった。
己の後ろめたさを峻厳に諭されると同時に、これほどまでに気高く大公閣下への忠誠を体現してみせた上官の姿に、若き騎士たちは猛烈な感銘に打たれた。彼らは己の未熟を深く恥じ入るとともに、ただただ圧倒されてその場に平伏した。
無論、シグルドの脳内には「大公への忠義」など微塵も存在せず、ただ「我が最愛の妹の周囲から、害虫(不埒な男ども)を完全に駆除する」という個人的な大真面目さしか存在していなかった。
部下たちが感銘に打たれ、ひれ伏すその光景を、政務のために出廷していたアルシードは、壁の陰から完全に目撃していた。
(……大公の権威に背くことになる、だと? 日頃、顔を合わせるたびに殺気と敵意を欠片も隠そうともせず、この俺を睨みつけてくるお前がよくもまあそんな大嘘を言えたな……!?)
アルシードは内心で、烈火のごとき驚愕と呆れの突っ込みを繰り出していた。
日頃、オルブライト家の苛烈なる男たちの一員として、文字通り命の危険を感じるほどの圧力をかけてくる男が、どの口で「大公閣下の栄光を護る」などと言い放っているのか。シグルドのあまりの破廉恥な平然ぶりに、アルシードは眩暈すら覚え、深い疲弊とともに額をそっと押さえた。
しかし、大公の傍らに控える男の反応は、まったく異なるものであった。
大公家筆頭秘書官ハンス。彼は主の困惑など微塵も気づかぬ様子で、その潤んだ瞳を、生垣の向こうの麗しき騎士長へと注いでいた。彼の極限まで鋭敏なる「暴走恋愛脳フィルター」が、いま、猛烈なる勢いで回転を始めていたのである。
(ああ、なんという至高の忠義……! なんという美しき絆でしょうか……!)
ハンスの脳内では、いまや一編の壮大な叙事詩が紡がれていた。
(シグルド様は、帝国一の美女と謳われる最愛の妹君、メリッサ様の兄君。本来であれば、突然の婚約によって妹君を迎え入れることとなった大公閣下に対し、複雑な肉親の情や、寂しさを抱かれて当然のはず。それなのに……それなのにシグルド様は、私情を完全に排し、我が主たる大公閣下への絶対の忠誠と敬意を、これほどまでに深く胸に刻んでおられる……!部下たちの他愛のない憧れすらも、大公閣下の婚約者に対する不敬であると厳しく律し、白銀の長剣を抜いてまで閣下への不変の誓いを立てられるそのお姿……。これぞまさしく、真の騎士。これぞまさしく、未来の義理の兄弟として結ばれるべき、高貴なる男たちの魂の共鳴に違いありません! ああ、大公閣下……! 閣下を包む不実な噂など、シグルド様のこの燃えるような忠義の前には、霧のごとく霧散するのです……!)
感動のあまり、ハンスの胸は熱い情熱で満たされ、その両眸にはきらきらとした涙さえ浮かんでいる。彼は主であるアルシードを振り返ると、弾んだ声でその「美しき誤解」を捧げた。
「閣下……! 近衛騎士隊長殿の、閣下への敬意と忠誠、まことに海よりも深く、山よりも高いものがございますね……! メリッサ様との婚約を、これほどまでに祝福し、その権威を護ろうとしてくださる義兄君をお持ちになり、私は、私は感動に震えております……!」
純粋極まる、しかし的外れの極みにある側近の賞賛を浴びせられ、アルシードはあまりのことに、端正な相貌をなんとも形容しがたい複雑な表情に染めた。
真実を告げてハンスの夢を壊すわけにもいかず、かといってシグルドのあの冷酷な殺気が「深い忠義」などではないことを誰よりも知っている身としては、ただただ恐ろしい誤解でしかない。
「……ああ。そう、だな……」
アルシードは、乾いた声でそう絞り出すのが精一杯であった。
宮廷の薔薇の香りが漂うなか、大公は、これから始まるであろうオルブライト家の男たちとの「大真面目に悲惨な日々」を想い、ただ一人、深い困惑の海へと沈んでいくのであった。




