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麗しの薔薇には棘がある  作者: 夢羊
麗しき道化の幕間(番外編)
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不屈の揺り籠、梢の白薔薇



 オルブライト伯爵家に仕える古参の侍女、ロッタの半生は、常に「至高の美」の変遷と共にあった。


 若き日のロッタが傅(かしず)いた先代当主ガルフォード夫妻は、誰もが羨望の眼差しを向ける類稀なる器量の持ち主であり、その血を引いて生を受けた現当主ゲラルトもまた、産着の揺り籠にある頃から天使の如き愛らしさを誇っていた。


 そのゲラルトが、長じておっとりとした気品を纏う令嬢ジゼルを妻に迎え、誕生した子供たち──長男シグルド、次男ヴィンセントも、極上の絵画から抜け出たかのように麗しく育っていった。


 そして二十二年前、オルブライト伯爵邸に待望の長女が誕生する。


 メリッサ。


 その幼子は、光溢れる一族の中でも群を抜いて特別であり、まるで天上界から舞い降りた本物の御使いのようであった。


 先に男児二人が続いていた邸内は、至宝の如き姫君の誕生に、薔薇色の歓喜に湧き返った。



「ああ、神様。私はこの奇跡のように美しいお嬢様を、帝国一の高貴な淑女に育て上げてみせます」



 まだ若かりしロッタは、揺り籠の中で眠る白薔薇の如きメリッサを仰ぎ見、涙を流して神に誓った。その胸は、未来の完璧な深窓の令嬢を育てるという、崇高な使命感で満たされていたのである。


 ───しかし、その崇高なる誓いは、早々に無慈悲なる現実によって打ち砕かれることとなる。


 元凶は、祖父であるガルフォードであった。


 メリッサが物心つくかつかぬかの頃、ガルフォードは「メイよ、木登りとはこうやるのだ!」と豪快に笑いながら、上質な織物のドレスを纏った孫娘に、野性という名の真髄を直伝し始めたのである。それに触発された長男シグルド、次男ヴィンセントの兄君たちも加わり、庭園での熾烈な木登り競争や、芝生の上での全力の転げ回りが日常茶飯事となった。



「おっ、大旦那様──! お嬢様に何てことを教え込まれるのですか! シグルド様もヴィンセント様も、お嬢様を巻き込んではなりません!」



 ロッタは声を枯らし、血の涙を流して彼らを阻もうとした。だが、伯爵邸にはもう一人、決定的な不条理が存在していたのである。



「まあまあ、ロッタ。皆様、とっても楽しそうですわよ? うふふ」



 オルブライト家当主夫人、ジゼルであった。


 ドレスの裾をたくし上げて大木に挑む愛娘の姿を目にしても、ジゼルはただ上品に頬に手を当て、慈愛に満ちた微笑みを浮かべているだけであった。



「奥様──! 笑って見ておられる場合ではございません! お嬢様は伯爵家のご令嬢なのです、今すぐお止めになってくださいませ!」



 必死に縋るロッタに対し、ジゼルは微かに眉をひそめ、少し困った顔をして唇を開いた。



「そうね、ロッタ……」


(ああ、奥様……! ようやく母親として、この常軌を逸した野性教育を止めてくださるのですね……!)



 ロッタの胸に、一筋の希望の光が差し込んだ。しかし、続くジゼルの言葉は、ロッタの淡い期待を木膚(きはだ)ごと粉砕するものであった。



「ドレスのままだと、枝に引っ掛けて破れてしまうし、何より動きにくそうね。……そうね、もっと動きやすくて、大木の上でスカートの中が見えてしまう心配のないお洋服を、新しく仕立ててあげなくては……」


「…………」



 ロッタは絶望し、天を仰いで力なく肩を落とした。母親までもが、木に登ることを前提とした「機能着」の調達を大真面目に提案し出したのである。このおっとりとした無自覚なる全肯定は、ガルフォードらの暴走を完璧に庇護する至高の防壁であった。



(奥様、そちらではございません──!! 御衣(おんぞ)の問題ではございません──!!)



 成長するにつれ、メリッサの美しさは聖母の如く洗練されていったが、それに比例して、ガルフォード直伝の体幹能力と野性の生命力もまた、限界を突破して研ぎ澄まされていった。


 麗しき姫君が、上質な衣を翻して屋敷の回廊を全速力で疾駆し、大樹の枝から枝へと軽やかに跳躍するたび、ロッタの胃壁は無慈悲に削り取られていったのである。


 かつて優雅で物静かであった若き侍女ロッタは、二十二年の歳月を経て、邸内中に響き渡る声で叱り飛ばす「口喧しい老女」へと、至極大真面目な悲哀を伴って変貌を遂げざるを得なかったのだ。



  *  *  * 



 何事かあると、お嬢様はすぐに走られる。


 ただ乱暴に暴れ回るのではない。家族が遠征から帰宅したと耳にすれば、歓喜のあまり上質な絨毯の上を一閃の如く駆け抜け、不意に刺繍が美しく仕上がれば、誰かに見せたくて堪らなくなり、やはり回廊を嬉々として疾走してしまうのだ。


 幼少期など、兄シグルドやヴィンセントを巻き込んで伯爵邸の端から端までを舞台とした大規模な鬼ごっこに興じるのが常であり、最終的には怒髪天を衝いたロッタに見つかって「キャー!」と快活に笑いながら、驚異の足捌(あしさば)きで逃げ去るのがお決まりの結末であった。



「嬉しいのは分かりますが、お嬢様──! 淑女は屋敷の中で軍馬の如く疾走いたしません──!!」



 どれほどロッタが口喧(くちやかま)しく責め立てて喉を枯らそうとも、ガルフォードが「おお、メイは今日も元気で素晴らしいな!」と快活に笑い、母ジゼルが「まあまあ、次は転びにくい室内履きを用意しなくてはね」とおっとり微笑む環境である。お嬢様の無類の脚力と驚異の体幹は、ロッタの絶え間ぬ心痛と引き換えに、すくすくと健やかに育ち続けてしまったのである。


 そして、メリッサが二十二歳になった今。主人から、驚くべき吉報がロッタの元へもたらされた。


 あの容姿端麗にして有能無比と謳われる最高権威、ベルンシュタイン大公が我がメリッサお嬢様に一目惚れをされ、求婚のために来訪されたという。そして、正式に婚約を交わすことになった、と。



(まあ……! 未来の大公妃殿下の誕生でございますか……!)



 最高峰の縁談に、ロッタは胸を躍らせた。これまでお嬢様に近付こうとする男の影があれば、オルブライト家の誇る『茨』たちが国家最高峰の武力と権力をもって悉(ことごと)く撃退してきたものだが、流石に大公閣下ともなると、あの男たちとて手出しはできなかったようである。いや、帝国一の美しい姫君であるメリッサお嬢様なのだから、大公閣下ほどの男性との縁談は当然の至高の果実であった。


 それと同時に、ロッタの胸には一抹の不安も過ぎっていた。もしもあの「じゃじゃ馬」の本性が大公閣下に露呈すれば、いかに名門オルブライト伯爵家といえど即座に破談になりかねない。


 だが、聞けば婚約後もメリッサは大公閣下の前では上手いこと完璧な「深窓の令嬢」を演じきっているようであった。 もしかすると、お嬢様もあの麗しき大公閣下に、既にお心を捧げておられるのかもしれない。だからこそ、かつてないほどの集中力で完璧な淑女を演じておられるのだろう───ロッタはそんな淡い期待さえ抱き、神に感謝を捧げていた。


 そう、お嬢様がただ内なる限界を、たった一人で耐え忍んでいたとも知らずに。



  *  *  *


 そして迎えた、運命の日の昼下がり。


 伯爵邸の二階にある、陽光の差し込む一室にて、お裁縫の講義が執り行われていた。だが、ロッタは室内に漂う、奇妙に張り詰めた空気を敏感に察知していた。


 メリッサは椅子に腰掛け、手元の布地に針を通している。その姿は、どこからどう見てもお淑やかな深窓の令嬢そのものであった。だが、新米の庭師テオが窓辺から仰ぎ見て恋心を抱くほどのその美しさの裏で、メリッサの美しい爪先が、床の上で小刻みに、リズミカルにトントンと床を叩いていたのだ。


 それは、お嬢様が内なる限界を迎えている際に見せる、無意識の疾走の前触れであった。



「お嬢様」



 ロッタは背筋を正し、現役の侍女頭としての威厳を込めて釘を刺した。



「手元が疎かになっておりますよ。大公閣下との婚約調印を控えている身だからとて、油断してはなりません。閣下からいつ何時、書状や不意のご来訪があるか分からないのですからね」


「……ええ、分かっているわ、ばあや」



 メリッサは静かに微笑んで針を動かした。お澄まししたその顔は完璧であった。だが、ロッタが一瞬、お茶の準備のために背を向け、ほんの数秒だけ視線を外した───まさにその刹那であった。


 衣擦れの音が響く。


 振り返ったロッタの目に飛び込んできたのは、上質なドレスの裾を片手で大胆にたくし上げ、あろうことか開け放たれた二階の窓枠へと片足をかける、帝国一の美女の姿であった。



「おっ、お嬢様!?」



 ロッタが驚愕に声を上げた瞬間、メリッサは悪戯っぽく小さく舌を出して、ニコッと快活に笑ってみせた。


 その愛らしくもお転婆極まる笑顔を目にした瞬間、ロッタの脳裏に、幼少期から数え切れぬほど繰り返されてきた「野性の大跳躍」の記憶が鮮明に蘇った。お嬢様がこれから何をしようとしているのか、長年仕えてきた乳母には即座に、そして痛烈に理解できたのである。



(……窓から、庭の木へ跳ぶ気だ───!!)



「おっ、お嬢様──! いい加減になさいませぇ──!!」



 ロッタは理性のすべてを投げ打ち、窓辺のメリッサを力ずくで取り押さえようと、必死の形相で満身の力を込めて駆け寄った。


 だが、ロッタの手がメリッサに届くよりも早く、お嬢様は驚異の体幹と軽やかな躍動感のまま、躊躇なく二階の窓の外へと飛び出してしまった。



「うふふっ! ごめんなさい、ばあや! でも、お裁縫って退屈なんだもの!」


「そんな事を仰って! 大公様に笑われてしまいますよ!?」



 窓から身を乗り出して、息を荒らげながらロッタは必死に窓の下へと叱責を飛ばした。二十二年間におよぶ淑女教育の崩壊を前に、ロッタの叫びは悲痛そのものであった。だが、枝の上でドレスの裾をひらひらと揺らしながら、メリッサは楽しげに鈴を転がすような声で笑い、快活に言い放つのだ。



「構わないわよ! あの大公閣下、今日はどうせ来ないもの!」



 驚天動地の光景に絶望するロッタ。


 しかし、その真下の美しい石畳のアプローチには、あえて事前の約束を入れず、誠意を示すための電撃的な訪問を敢行したアルシード大公閣下が、直立不動で佇み、知性を完全崩壊させてただ見上げるしかない姿があることなど、木の上の令嬢も、窓から身を乗り出すばあやも、夢にも思っていなかった。


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