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麗しの薔薇には棘がある  作者: 夢羊
麗しき道化の幕間(番外編)
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眼鏡の奥の桃源郷



 大陸随一の歴史と格式を誇る大国、ガラルディア帝国。その大公であるアルシード・フォン・ベルンシュタインの執務室の片隅には、主君の執務を支えるための小さな補助机が置かれている。大公家筆頭秘書官ハンスは、そこに腰を落ち着け、音もなく羽ペンを走らせていた。


 現在、帝国社交界は二十七歳になる大公の婚姻の話題で恐ろしいほどの熱を帯びている。ローゼンバーグ公爵家とハインリヒ公爵家が己の娘を大公家に嫁入りさせようと、醜くいがみ合っているのは周知の事実であった。


 ふと、豪奢な執務机のほうから、紙がばらばらと音を立てて床に散らばる気配がした。ハンスが視線を向けると、アルシードが見合いを促す釣書を忌々しげに払いのけているところであった。



「勝手に決めるな。そんな気は一切ない」



 傲慢とも取れる端麗な顔を歪め、低く吐き捨てる主君の姿に、ハンスは人知れず胸を痛めていた。



(ああ、これほど執拗に二大公爵家から圧力をかけられては、閣下も流石に心底うんざりして辟易されているのだな……)



 政治の道具として己の婚姻を利用されようとしている主君に対し、有能なる側近としての現実的な同情が、ハンスの胸を満たしていた。


 アルシードは椅子の背もたれに深く寄りかかり、苦しげに天を仰いで頭を巡らせている。


 やがて、アルシードは静かに席を立った。机の上の呼び鈴が、澄んだ音を立てて室内に響く。ハンスはすぐさま自らの机から立ち上がり、主君の前へと歩み出た。



「ハンス、内密にオルブライト伯爵家へ使いを出してくれ」



 具体的な用件を伏せた主君の言葉に、ハンスは僅かに目を見張った。



「は、オルブライト伯爵家……でございますか」


「ああ、実はな……」



 アルシードは唇の端を僅かに歪め、もっともらしい口実を、大真面目な顔で語り出した。



「先日、宮廷へ向かう途中で、偶然オルブライト家の令嬢を見かけてな。どうやら私は、彼女に一目惚れをしてしまったらしい。しかし、彼女はなかなか社交の場には姿を見せない。それゆえ、まずは書状を送り、追って直接オルブライト伯爵家を訪ね求婚したいと思っている」



 その瞬間、ハンスの脳細胞は凄まじい衝撃とともに、驚くべき方向へと暴走を始めた。



(……何ということだ! では、閣下が先程から浮かべておられた、あの苦渋に満ちた苦しそうな表情は、公爵家どもの圧力に辟易していたからではなかったのだ! 宮廷に向かう途中で偶然見かけた、あの帝国一の美女と名高いメリッサ様への募る想いに、胸を激しく締め付けられていた、恋煩いの表情だったのだ……!)



 プレイボーイとして浮名を流してきた主君が、二十七歳にして初めて迎えた、命がけの真実の愛。ハンスは猛烈な感動の波に襲われ、視界が熱く潤んでいくのを耐えるのに必死であった。



 ───数日後。ハンスが待ち望んでいたその瞬間は、突然訪れた。


 過日の申し出に対する、オルブライト伯爵家からの返書が、アルシードの元へ届けられたのである。差し出された封書を受け取り、ハンスは自分のことのように胸を高鳴らせながら、主君がペーパーナイフで封を切る姿をじっと見つめていた。



(ああ、ついに、ついに運命の返答が……! あの名門オルブライト伯爵家が、閣下の突然の熱烈な求婚にどのようなお返事をなされたのか。メリッサ様もさぞや、身分違いの激しい情熱に胸を痛め、恥じらっていらっしゃることでしょう……!)



 ハンスが固唾をのんで見守る中、アルシードは届けられた書状に視線を走らせた。


 書面には、大公家からの不躾な申し出に対する警戒を滲ませつつも、ひとまず『指定の日時に訪問を許可する』という旨が、極めて簡潔に、かつ冷徹に綴られていた。それはオルブライト家の猛獣たちが、大切な愛娘を政争の盾にせんとする不届き者を睨みつけ、腸を煮えくり返らせている危険なサインでもあったのだが───。



(……ふう。ひとまずビジネスの交渉の席には着いてくれるか)



 アルシードは書状から目を離すと、張り詰めていた緊張を解き、深く、安堵の息を漏らした。まずは最悪の事態である門前払いを免れ、対等の交渉権を得られたことに対する、有能な大公としての安堵の吐息であった。


 しかし、それを横で見ていたハンスの耳には、その音が全く違う響きとなって届いていた。



(……おお! なんという恋心溢れる、甘く切ないお吐息……!)



 ハンスは猛烈な感動の波に襲われ、ハンカチを握りしめた。



(訪問の許可が下りたことで、ようやく、ようやく最愛のメリッサ様にお会いできる。その喜びのあまり、閣下はあのように深く、甘やかなため息を漏らされたのだ……! ああ、全社交界を震え上がらせるあの冷徹な大公閣下が、ただ一人の女性を想ってこれほどまでに優しく、情熱的なお顔をなさるなんて……! 閣下の真摯な一目惚れの書状が、あの頑なな名門の心を動かしたのです。恋の歯車は、いま確実に動き出しました……!)



 主君の至高の純愛がまた一歩前進したと確信し、ハンスは視界を熱く潤ませながら、心の中で激しいガッツポーズを繰り返すのだった。


 そして迎えた、オルブライト伯爵邸訪問の当日。


 大公邸の豪奢な控室の鏡の前で、アルシードは一分の隙もない見事な正装に身を包んでいた。上質な生地仕立ての衣装、格式高き紋章が刻まれたボタン、完璧に整えられた髪。その姿は、神々しいまでの気品に満ち溢れている。


 鏡に映る己の姿を冷徹に見つめながら、アルシードはふっと唇の端を吊り上げ、有能なる交渉人としての不敵な笑みを浮かべた。



「こちらの条件を飲んでもらうからには、相応の誠意を持って交渉に臨まねばな。さて、オルブライト伯爵が首を縦に振る完璧な論理を展開するとしよう」



 彼の本音は、あくまで冷徹でビジネスライクなものであった。大公家の勝手な都合で巻き込む以上、相手に不利益は被らせない。そのための完璧な条件と誠意を用意し、あの堅物な伯爵家をいかにして論理的に説き伏せるか。百戦錬磨の政治家、そして有能な大公としての責任感と、勝算を確信した男の不敵な余裕。


 ───しかし、その傍らで控えるハンスの恋愛脳フィルターは、この至高の瞬間をまたしても凄まじい次元へと超訳していた。



(……おお、ご覧なさい、あのまばゆい輝きを! 初めての真実の愛に胸を高鳴らせ、最愛のメリッサ様を迎えに行こうとする男の、なんと高潔で美しいお姿か……!)



 ハンスは猛烈な感動に胸を震わせ、溢れそうになる熱い涙を必死に堪えていた。



(『相応の誠意』……! ああ、なんという誠実なお言葉。閣下は、ただ情熱に任せて求婚するのではなく、大切な女性を政争の嵐から守り抜き、大公妃として必ず幸せにするという、生涯の誓いを胸に抱いていらっしゃるのだ! あの不敵な微笑みは、愛の勝利を確信した男の気概! おいたわしや我が主、これほどまでに気高く真摯な純愛を捧げるために、これまでは退屈な火遊びで心を紛らわせるしかなかったのですね……!)



 カツカツと、決意に満ちた足取りで馬車へと向かう主君の背中を見つめながら、ハンスは心の中で激しくハンカチを噛み締め、恭しく先回りして馬車の扉を開いた。



(どうぞ、愛の勝利を……! お幸せに、閣下……!)



 ハンスは喉の奥まで出かかったその全力のエールをどうにか飲み込み、涙で潤んだ瞳を輝かせながら、深く頭を下げて主君を見送った。



「行ってくる。留守を頼むぞ、ハンス」


「はっ……! 薔薇色の未来が閣下を待っております! どうぞ、お心に決めた御方との運命を勝ち取ってらしてくださいませ、閣下!」



 その真剣かつ熱のこもった、完全に誤解の彼方へと突き抜けたエールを受け、アルシードは馬車の窓から一瞬だけ遠い目を向けた。



(……こいつ、私のついた『一目惚れ』という方便を、微塵の疑いもなく本気で信じ切っているな)



 自分が政争回避のために勝手にでっち上げた方便の嘘なのだが、ここまで純粋に魂を燃やして応援されてしまうと、言い知れぬ気恥ずかしさと共に、優秀なはずの側近に対してじわじわと申し訳なさと哀れみが湧いてくる。余計な詮索をされずに済むのは助かるが、この純度百パーセントの眼差しをいつか現実に戻したとき、どう説明すればいいのか。アルシードはかすかに胃の痛みを覚えるのだった。



(まあ、いい……)



 気を取り直すように小さく息を吐いた瞬間、バタン、と重厚な馬車の扉が閉められた。


 御者が手綱を引き、大公家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が、静かに前進し始める。


 窓の向こうで、いまだに我が主の「愛の勝利」を信じて胸を焦がしているハンスの姿を見届けながら、アルシードの乗った馬車はオルブライト伯爵邸へと走り出した。




 ────大公閣下も、そして見送る筆頭秘書官ハンスも。




 その馬車が向かう先で待ち受けているのが、大将軍ガルフォードを筆頭とする、国家最高峰の獰猛な『茨』の男たちによる「首筋に冷たい剣を突きつけられるがごとき、凄まじい殺意の洗礼」だとは、この時はまだ、誰一人として知る由もなかったのである。

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