泡沫の白薔薇、黒薔薇の残照
数日後の大公邸執務室。
窓外から差し込むうららかな陽光とは対照的に、部屋の空気は凍てつくように静まり返っていた。
卓上に広げられた一枚の純白の羊皮紙。
そこに並ぶのは、文官の頂を極めし宰修補佐ヴィンセントが、その優れた知性と才覚を以て紡ぎ出した、冷酷無比な法理の壁であった。
大公家側の警護の不備。不可抗力の事態による契約継続の不可能性。
一文字の乱れもなく、極上の美文で綴られたその書面は、いかなる弁明の余地も与えず、オルブライト伯爵家と大公家との縁を永久に断ち切るという、明確な宣告に他ならなかった。
「……見事なものだな」
アルシードは低く、自嘲を孕んだ呟きを漏らした。
羽ペンを取り上げるその手が、微かに、しかし確実に戦慄いていた。
目を閉じれば、あの日───襲撃のあったまさに翌日、満身創痍の痛々しい姿で直々に大公邸へと書状を持参したヴィンセントの、氷刃のごとき眼差しがありありと蘇る。血に染まった包帯を纏いながらも、微塵の揺らぎもなく突きつけられた、この『偽装婚約契約即時解除に関する合意書』。
手渡されたその瞬間、アルシードの胸に奔ったのは、言葉を失うほどの強烈な衝撃であった。
契約の解除。それは即ち、メリッサと会うための大義名分をすべて失い、彼女との永久の別れを迎えることを意味していた。
受け取ってからの数日間、アルシードは独り、底知れぬ懊悩の闇へと突き落とされていた。
これまでは、胸の奥底に芽生えていた特別な感情を「過労による錯覚」と言い張り、自己欺瞞の蓋をして頑なに目を背けてきた。しかし、もう二度と会えなくなるという冷酷な現実を前にした時、その蓋は音を立てて吹き飛んだのである。
(───いやだ)
胸の奥底から堰を切ったように溢れ出たのは、自身の醜悪なまでの独占欲と、狂おしいほどの本心であった。どうしても、離れたくない。
しかし、恋心を自覚した途端に訪れたのは、甘やかな喜びなどではなく、引き裂かれるような凄絶な苦悩であった。偽装婚約を続けるということは、メリッサをこれからもハインリヒ公爵家のような巨大な外敵の刃に晒し続けるということに他ならない。
離れたくないという己の私情か、それとも、彼女の命の安全か。
過酷極まる二者択一の果てに、アルシードが導き出した答えは、やはり一つしかなかった。メリッサの安全───それこそが、何よりも最優先されるべき至誠であった。
「ハンス」
「はっ」
部屋の片隅で、主人のただならぬ様子を沈黙で見守っていた筆頭秘書官が、短く応じた。
ハンスの瞳には、沈痛な色彩が色濃く滲んでいる。この婚約が偽装であるとは露知らず、純粋に相思相愛であるはずの二人が、外敵の陰謀によって理不尽に引き裂かれようとしている現実に、配下としての激しい憤りと悲しみを堪えているようであった。
「馬車の用意を。これより、オルブライト邸へ向かう」
「……かしこまりました。直ちに」
ハンスの重い足音が遠ざかり、扉が閉まる。
一人残された静寂のなかで、アルシードは悲壮な決意を胸に、羽ペンを握り直した。
自身の名を刻むべき空白を見つめ、静かに刃先を落とそうとした───その刹那。
アルシードの脳裏に、眩いばかりの光景が鮮烈にフラッシュバックした。
それは、社交界で見せる帝国一の美女としての完璧なおすまし顔ではなかった。
街の散策デートの折、見たこともない無邪気さで瞳を輝かせていたメリッサの姿。あるいは、大好きなデザートを口に運んだ瞬間、今にも頬っぺたが落ちそうになりながら、この上なく幸せそうに喜んでいた、あの無防備で愛らしい笑顔。
自分にだけ素の姿を晒してくれた、あの聖域のような平穏な日々。
その輝きを、二度とあのような血生臭い夜の闇で曇らせてはならない。己の恋を永久に葬り去ってでも、彼女のその無垢な笑顔を護り抜くことこそが、男としての、そして大公としての全力を尽くすという誓いの体現であった。
引き裂かれるような痛みを奥歯で噛み締め、アルシードは震える手元を押し留め、一気に筆を走らせた。
紙上を滑る漆黒の軌跡は、大公アルシード・フォン・ベルンシュタインという名と共に、終わりの始まりを告げるサインを冷酷に刻みつけた。
* * *
大公邸を出発した馬車が、オルブライト伯爵邸へと到着する。
重厚な外壁の周囲には、一見するとそれとは分からぬよう、私服を纏った近衛兵や伯爵家の精鋭私兵たちが、幾重にも不気味なまでの厳戒態勢を敷いていた。ハインリヒ公爵家の放った暗殺の魔手からメリッサを隔離せんとする、一族の徹底的な拒絶の壁がそこにあった。
アルシードは懐にある『偽装婚約契約即時解除に関する合意書』の重みを肌に感じながら、覚悟を固めて馬車を降り、鉄門をくぐった。
正面玄関へと続く美しい石畳のアプローチを進む。
一歩敷地内へと足を踏み入れれば、そこには兵の姿など微塵もなく、あの日と変わらぬ静謐な美しさを湛えた庭園が広がっていた。最悪の危機を前にしながらも、愛する妹に裏社会の凄惨な現実を一切知らせまい、怯えさせまいとする『茨』たちの、過剰なまでの溺愛の結末が、このあまりにも不自然な平穏であった。
ふと視線を上げれば、開け放たれた二階の窓と、見事な枝振りの大木が目に入る。
あの日、上質なドレスの裾をたくしあげ、驚異の体幹能力を以て木登りという野生の極致を見せつけたメリッサの姿。大公としての格式高い知性と、社交界を鳴らした至高のプライドがガラガラと完全崩壊した、あの眩い記憶が脳裏を過った。
懐かしむ間もなく、アルシードの視線がその大木のふもと、青々とした芝生へと落ちた───その刹那。
アルシードの全身から、一時に血の気が引いた。
木陰の芝生の上にぽつんと横たわる、動かぬ白いドレスの人影。
(───メリッサ嬢、が……!?)
最悪の結末が脳裏を過った。今、自身の目の前にあるその凄絶な光景に、アルシードの思考は完全に叩き割られていた。ハインリヒの放った刺客の手が、よもや、この要塞のごとき屋敷の内側にまで届いたというのか。
あの夜の闇の底に転がっていた、おぞましき骸の残像が、今まさに横たわる彼女の姿へと残酷に重なり合う。一歩間違えば永遠に失われていたかもしれないというあの恐怖が、今、現実の絶望となって、大公の心臓を容赦なく踏み荒らしていた。
喉が干からび、五体の芯から湧き上がる激しい戦慄を抑え込むことすらできず、大公としての品格も忘れ、血の気が引いた顔で駆け寄りそうになった、まさにその時だった。
芝生の上に仰向けに寝転がっていた人影が、うららかな空へと、その白い指先をすっと伸ばしたのである。
術策も陰謀も届かぬ世界の果てにいるかのように、のんきに鈴を転がすような鼻歌を歌い始めた。
生きている。ただ、退屈に身を任せて日向ぼっこをしていただけだった。
最悪の錯覚から解き放たれ、激しい安堵の溜息と共に、アルシードの胸に一筋の苦い想いが去来した。
(……あのじゃじゃ馬め。生きた心地がしなかったではないか)
五体の芯から震えが引いていくのを感じながら、アルシードは目の前にある彼女の、あまりにも平和で無垢な姿を静かに見つめた。
裏の惨劇など何も知らず、ただ純白のドレスを陽光に輝かせている。だからこそ、痛感せざるを得なかった。この濁りのない平穏を、自らの都合でこれ以上危険に晒すことなど、断じて許されない。彼女のこの眩しい日向を護るためならば、己の恋など、いくらでも引き裂かれてみせる。この偽装婚約の解消は、避けられぬ必須の選択なのだと、アルシードは血が滲むほどの決意を、改めてその胸の奥底へと深く刻み直した。
激しい安堵と悲壮な覚悟を抱えながら、アルシードは静かにメリッサへと近づいていった。
青空と風になびく木の葉だけが映っていたメリッサの視界に、ひょこっとアルシードの顔が入り込む。
「閣下!?」
驚きに目を見開きながらも、芝生の上に寝転がったまま起き上がろうともしない。
相変わらず大公への敬意が微塵も感じられぬその不遜でじゃじゃ馬な振る舞いが、今のアルシードにはたまらなく愛らしく、何より、その命が健在であるという事実が愛おしかった。引き裂かれるような胸の痛みを隠し、彼は苦笑を浮かべて問いかける。
「芝生の上というのは、それほど寝心地が良いのか?」
「とっても気持ちがいいわ。閣下もどうぞ」
事もなげに、隣へと寝転がることを勧めてくる。
至高の品格を誇る大公として、何も敷かれていない芝生の上へ直接身を横たえるなど、平時であれば万に一つもあり得ぬ暴挙であった。しかし、今日を限りに最後となるかもしれない彼女との時間を、一分一秒でも惜しむように、アルシードはぶつぶつと零しながら、静かにその隣へと腰を下ろし、距離を開けて仰向けに寝転んだ。
視界いっぱいに広がる碧天と、揺れる青葉。
「……悪くないな」
大公の仮面を外した、素の呟きが静かに漏れた。
とても貴族の令嬢とは思えぬ新鮮で愛らしい野生ぶりに、アルシードは空を見上げたまま、ふと声を掛けた。
「木登りは、いつからやっているんだ? 自分でやり始めたのか?」
「お祖父様に教わったのよ。元気が一番だって。幼い頃は、よくお兄様たちともあの木のてっぺんを目指して競争したわ。ヴィンセントお兄様はいつも不参加だったけれど、シグルドお兄様とは何度も泥だらけになって勝負したの」
懐かしそうに、楽しげに語るメリッサの声が、芝生の上を優しく吹き抜けていく。
「今でもこうして、暇を見つけてはこっそり登ろうとするのだけど、そのたびにばあやが飽きもせず、金切り声を上げて叱ってくるのよ」
他ならぬ帝国軍の頂点たる大将軍ガルフォードの豪快な姿、そして泥まみれで競い合う兄妹の姿を思い浮かべ、あの御仁たちならやりそうだと、アルシードは再び小さく苦笑した。
それまで二人で仰向けに空を眺めていたが、アルシードは静かに首を巡らせ、隣にいるメリッサの横顔をじっと見つめた。
恋心を自覚した彼の瞳に映る、その眩いほどに愛おしい輪郭。
先ほど固めたばかりの冷酷な現実が、再び彼の胸を激しく締め付けた。
アルシードはこれ以上の感傷に呑み込まれぬよう、先に身を起こすと、気付いたメリッサもまた、滑らかな動作で芝生の上に起き上がる。
「閣下、今日は我が家にご用でも? それとも、直々に次の逢瀬のお誘いに来てくださったのかしら」
おどけて、深窓の令嬢を模した言葉遣いをしながら、メリッサは眩いばかりの笑顔を向けた。
もう次の逢瀬など、永遠に訪れない。その事実が、アルシードの胸に耐え難いほどの重圧となって伸しかかる。
「いや……。今日は、君の父上に用があってな」
「なーんだ、そうなの」
メリッサは何の疑いも持っていない。ただ純粋に、無防備に、彼を信頼し切っていた。
「閣下、次の逢瀬では、どのような甘味をご用意してくださるのか楽しみにしておりますわ」
再び花が咲くようなとびきりの笑顔を見せる彼女を前に、アルシードの理性が、あるいは情愛の堰が、一瞬にして決壊した。
気がつけば、アルシードは座ったまま、メリッサの後頭部へと優しく手を添えていた。
大公としての冷徹な仮面も取り澄ました品格もかなぐり捨て、引き寄せたその頭部、白銀の髪の上へと、切なさを堪えるように口づけを落とした。
兄たちに対するのと同じ無防備な親愛を向ける令嬢にとって、大公のその行動はあまりに不可解であった。メリッサはただ、何事だろうかと言いたげに、小鳥が小首を傾げるような純真な眼差しで、座ったままアルシードを見上げるばかりであった。
「……失礼、何の香りかと思ってな」
衝動のままに動いてしまった己の翻弄を隠すため、アルシードは咄嗟に苦しい言い訳を口にした。あくまでもメリッサの頭部を掠めたのは、唇ではなく鼻先であったと言い張るような、精一杯の自己欺瞞であった。
「さて……行くか」
これ以上、己の本心を露呈させるわけにはいかない。アルシードが立ち上がると、メリッサもまた、ドレスの裾を揺らしながら続いて軽やかに立ち上がった。
「閣下、背中に草がたくさんついてしまったわ」
メリッサが歩み寄り、相変わらずの無邪気な気安さで、彼の背中についた芝生を小さな手で優しく、ぱたぱたと払い始めた。
いつもと変わらぬ、愛おしい日常の残照。その小さな手の温もりが、背中を通じてアルシードの魂へと真っ直ぐに伝わってくる。その温もりに触れられるのも、今日が最後なのだという冷酷な現実が、最も重く、残酷に彼の胸へと突き刺さった。
(───お別れだ、メリッサ嬢)
溢れ出そうになる血の涙を喉の奥で飲み込みながら、アルシードは心の中で、静かにその名を呼んで別れを告げた。
「……礼を言う」
彼は大公としての完璧な微笑を再び顔面に張り付かせると、「閣下、またあとでね」と手を振る彼女の声を背中に浴びながら、懐にある断絶の書状をまるで冷徹な刃に触れるかのようにそっと指先で確かめ、満身創痍の茨たちが待ち受ける屋敷の奥へと、静かに歩みを進めるのであった。
【重要】第一章の閉幕、および第二章の開戦に関する厳粛なる布告
拝啓、読者諸卿。
ガラルディア帝国宰相府補佐官であり、オルブライト家次男のヴィンセントでございます。
諸卿らの熱き視線に支えられ、我がオルブライト家を襲った不届きなる【メリッサ暗殺計画】は、これにて無事に第一段階の処理(※第一章完結)を完了いたしました。
我が兄シグルドの「三分の一の抜剣」などという非効率な大騒ぎを余所に、襲い来る暗殺者の第一陣につきましては、私自らが聖者の微笑みと共に、迅速に処理させていただきました。まずは諸卿らの不変の追随に対し、深く感謝の意を表します。
──しかし、我がオルブライト家にとって、真の戦いはここからでございます。
今回の事変の最中、大公アルシード閣下が、我が愛すべき妹メリッサに対し、ついに「本物の恋心」を自覚するという、極めて深刻な事態(第二次国家危機)が検知されました。
事の顛末を申し上げましょう。私が大公閣下に対し、メリッサとの婚約破談を即時に行いたいと『偽装婚約契約即時解除に関する合意書』を突き付けました。すると閣下は、メリッサに会う大義名分がなくなってしまうと大真面目に考え込まれ、ついには──『…………いやだ…!』と、我が家の防衛線の前で、ついに己の情愛に気づいてしまわれたのです。誠に遺憾極まる覚醒と言わざるを得ません。
さらに、次なる第二章におきましては、大公家を取り込まんとするハインリヒ公爵家が、閣下とメリッサの「偽装婚約」を力ずくで破談にすべく、彼らは手っ取り早くメリッサの身をどうにかしてしまおうと、さらなる巧妙な魔の手を伸ばしてくるに違いありません。暗殺者の第一陣を退けたとはいえ、第二章でも一瞬の油断も許されない、緊迫の防衛戦が続くこととなります。
つきましては、これら迫り来るハインリヒ公爵家との高度な政治戦、および大公閣下の完全に崩壊した胃壁の緊急再生期間を確保するため、誠に勝手ながら、第二章の定時報告(再開)まで、しばらくの「作戦的休止(充電期間)」をいただくことといたします。
諸卿におかれましては、恋を自覚した大公閣下のさらなる胃痛と、我が家女主人の無自覚なる煽り爆撃、そして第二章における我がオルブライト家の「本気の防衛戦」の開戦に備え、厳戒態勢のままお待ち(待機命令)いただけますと幸いでございます。
再開のその日まで、しばしの猶予を。
──ガラルディア帝国宰相府補佐官
ヴィンセント・オルブライト




