懊悩の茨
朝餉ののち、いつもの健やかな日常へとメリッサを送り出したヴィンセントは、ひとり執務室へと籠もり、凍てつくような静寂のなかに佇んでいた。
卓上には、一点の翳りもない純白の羊皮紙。そして、漆黒の墨汁を潤沢に含んだ一本の羽ペンが横たわっている。
これから彼が染めるのは、大公アルシード・フォン・ベルンシュタインへ突きつけるための、『偽装婚約契約即時解除に関する合意書』。文官の頂を極めし宰修補佐としての明晰な叡智を以てすれば、大公家側の警護の不備と、不可抗力の事態による契約継続の不可能性を法理の壁で完璧に論証し、いかなる言い訳の余地も与えず縁を断ち切る書面など、瞬く間に成るはずであった。
白磁を思わせる端正な指先が、静かに羽ペンを取り上げる。
しかし───。黒きインクをたっぷりと湛えたその刃先は、羊皮紙の真上で、あたかも時を止められたかのように、不自然に凍りついた。
(───認めたくない。あの男の手に、渡したくなどないのだ)
胸の奥底から泥々と湧きあがるのは、冷徹な理性を焼き尽くさんばかりの、狂おしいまでの兄としての情念であった。
ヴィンセントの脳裏に、宮廷でのあの光景が鮮明に蘇る。
まさに自身の眼前にて、天敵であるはずのアルシードが、非の打ち所のない品格と圧倒的な威言を以て、実の妹を侮辱した皇太子を排斥してみせた、あの回廊の記憶。我が身を賭してでもメリッサの名誉を護り抜くという、大公としての、そして一人の男としての、揺るぎなき矜持。
あの折、宮廷の回廊を満たした大公の凄絶なまでの怒りと、圧倒的な覇気───それに、他ならぬこのヴィンセント自身が、 密かに心を動かされてしまったのだ。
さらに昨夜、メリッサの無事を見届けた刹那、五体の芯から震えを来していたアルシードの姿。
手綱を離してなお、その両手は隠しようもなく戦慄き、動揺を隠し得てはいなかった。常に完璧な余裕を崩さぬはずの大公が、言葉を失い、ただ呆然と身を震わせていた、あの無様とも言える姿。
それは、世に溢れるメリッサの美貌やオルブライト家の権勢を求め、甘言を弄して群がる軽薄な有象無象の輩とは、明らかに一線を画していた。
大公としての傲慢さも、プレイボーイとしての仮面もすべて剥ぎ取られ、ただ一人の男として、メリッサの命が脅かされたことに、剥き出しの恐怖に身を焦がしていた、あの至誠に満ちた「本気」。
それを肌で、そして魂で感付いてしまったからこそ、メリッサを深く溺愛する兄としての強烈な独占欲が、激しい拒絶の悲鳴を上げる。
これほどまでの至情を向けられてみろ。万が一にも、あのメイの心が奪われかねないではないか。
認めたくない、決して渡したくはない。しかし同時に、もし、いつかメリッサがこの伯爵邸という揺り籠を巣立つ日が訪れるのだとしたら───あれほどまでに身を焦がし、メリッサの名誉と命を護らんと欲する男にこそ、託すべきではないのか、と。
認めたくない。だが、認めざるを得ない。そんな引き裂かれるような愛憎の狭間で、ヴィンセントの気高くも美しい眉が、苦々しく中央に寄せられた。
ぽつり、と。
静止した筆先から、一滴の墨汁が純白の羊皮紙へと零れ落ち、無残な黒い染みを作った。
平時であれば、公文書をこのような形で汚すなど、万に一つもあり得ぬ不覚であった。自身の内に渦巻く醜いほどの動揺を突きつけられ、ヴィンセントは小さく、自嘲を孕んだ溜息を漏らす。
「……何を迷っている、私は」
端正な唇から、凍てつくような低い呟きが零れる。
兄としての私情がどれほど揺らごうとも、冷徹なまでの鉄の理性が即座にそれを覆い尽くす。
アルシードの人間性が如何に誠実であろうと、彼が至誠を以てメイを想っていようと、現実に、メリッサの命がハインリヒ公爵家という巨大な外敵に狙われ、一歩間違えば夜陰の底で永遠に命を奪われていたという最悪の危機。あの男の都合によって結ばれた偽装婚約という契約がある限り、メリッサの傍らには常に血生臭い殺意が付き纏うのだ。
ならば、答えは初めから一つしか存在しなかった。これ以上の契約継続は、一族として、兄として、断じて容認できぬ。
ヴィンセントは汚れた羊皮紙を容赦なく丸めて放り捨てると、新たなる一枚を滑らかに卓上へと広げた。
もはや、その瞳には一片の迷いもない。失血による蒼白な顔に、前夜の闇で見せたような酷薄にして完璧な文官の微笑を湛え、彼は羽ペンを一気に走らせ始めた。
紙上を駆ける黒き軌跡は、大公家を冷酷に突き放す、一片の血も通わぬ事務的な美文。
メリッサを深く溺愛する一人の兄としての情念と、あの折に抱いた微かな温もりを、すべてその冷徹な文字の底へと封じ込めながら――ヴィンセントはアルシードへの、完璧なる断絶の宣告を書き進めていくのだった。




