茨の虚飾、氷刃のロマンス
翌朝、いつもより僅かに早い時刻。オルブライト伯爵邸の食堂には、いささか張り詰めた、ただならぬ空気が漂っていた。
大将軍ガルフォード、将軍ゲラルト、近衛騎士隊長シグルドの三人は、昨夜大公邸より届いた急使の書状を睨み据え、声を潜めて密談を交わしている。ハインリヒ公爵家が他国の最精鋭たる暗殺集団を動かしたという驚くべき事実に、彼らは一様に眉根を深く寄せていた。
そこへ、ヴィンセントが姿を現す。いつもの激務を捌く時と変わらぬ、至極平然たる面持ちで食堂へと入ってきたものの、その端正な顔は失血のためにいくぶん蒼白く、隠しきれぬ肉体の疲弊が微かな影を落としていた。
「───ヴィンセント。傷の具合はどうだ」
ゲラルトの低く響く問いかけに、ヴィンセントはいつもの涼涼とした美貌を崩さぬまま、静かに首を振った。
「御心配には及びません。それよりも、昨夜の暴漢どもが遺した武器ですが……刻印は一切なく、完全に無名のものでした。ですが、奴らは初めから、明確にメイの命を奪うべく襲撃してきたのです」
「……完全に無名、か。それこそが他国の最精鋭を雇い入れた証拠だな。大公閣下からの急使にあった『闇市場を経由した巨額の金貨の動き』、そして『足のつかない他国の暗殺集団の国内流入』という警告。身元を完全に隠蔽された無印の武器は、まさにその最精鋭どもが用いる道具そのものだ。二つの事実が、完全に符合する」
シグルドが冷徹に断定する。前日に受けていた大公からの警告と、ヴィンセントが直面した凄惨な現実。二つの事象が今、一本の確かな線となって繋がった。
大将軍ガルフォードが、重厚な声音を食堂の床へと響かせる。
「───……これ以上の容認は、断じて不可能だ。大公との偽装婚約は、これにて即時終了とする。これ以上、メイを大公の政争の盾にさせるわけにはいかん」
「異論はありません。大公閣下には、私が直接───」
シグルドが武官としての鋭い視線を湛え、自ら名乗りを上げようとした。しかし、それをゲラルトが手綱を引くように制する。
「待て、シグルド。お前が直接赴けば、その場で取り返しのつかぬ決裂を招くことになる」
国家最高峰の近衛騎士隊長たるシグルドが直々に大公邸へ乗り込むということは、オルブライト家による公的な「最後通牒」に他ならない。武の頂点が直接動けば、それは対話の余地をすべて爆砕し、大公家との全面衝突という最悪の破局へ直行することを意味していた。まずは公の手続きを以て、向こうの管理不届きという不手際を突きつけるべきだ、と父親の言葉の意図を、ヴィンセントは文官の最高峰たる明晰な頭脳で瞬時に察知した。事務的かつ冷徹極まる破棄の書面を以て、大公側に如何なる言い訳の余地も与えず、法理の壁で完璧に縁を断ち切る。
「承知いたしました。大公閣下が如何なる欺瞞も挟めぬよう、私が完璧な即時解除の書類を認めましょう」
ヴィンセントが冷酷な笑みを浮かべ、承諾したその時。それまで淡々と茶器を調えていたジゼルが、ふう、と優雅な溜息を漏らした。
「………大公閣下とメイ、とってもお似合いだったのに...本当に残念だわ……帝国一の美男美女の立ち並ぶ姿は、素晴らしく眼福だったのに」
どこか寂しげに紡がれたのは、いつも通りの少女趣味な言葉。しかし、その声音には一筋の揺らぎもなく、愛娘の命を脅かす契約の解消への同意に他ならなかった。
「───メイが来るぞ」
廊下の向こうから響く、軽やかで愛らしい足音。ガルフォードの短い警告を合図に、男たちは一瞬にしてその冷徹な軍人・文官の顔を封印した。
張り詰めていた鋼の如き威圧が霧散し、卓を囲む血生臭い気配が、一糸乱れぬ迅速さで融解していく。ガルフォードは重厚な肩の力を抜き、ゲラルトは険しい双眸に温和な光を宿し、シグルドは鋭利な切っ先のような佇まいを消し去って、ただの穏やかな兄へと立ち返る。まるで最初から何もなかったかのように、彼らは優しい家族の仮面を被り、朝の木漏れ日に相応しい完璧な家族の空間を調え上げた。
何も知らないメリッサが、健やかな朝の光を全身に浴びながら、弾むような足取りで食堂の扉を押し開いた。
「皆様、おはようござい────」
しかし、その満面の笑顔は、次の瞬間に完全に凍りつくこととなる。
そこには、いつも通りの美貌を湛えながらも、あまりに痛痛しいほどの傷を纏った兄の姿があった。
上衣の片袖が痛々しく切り開かれている。覗く腕には、血が滲むほどに厳重な白い包帯が幾重にも巻き付けられ、動かせぬよう白い布で吊られていた。その顔容は、大量の失血を物語るように酷く蒼白である。そればかりか、露出した首筋や手の甲にまで、無数の細かい傷痕が散見された。
ただごとではない。宮廷の文官であるはずの兄が、なぜこれほどの重傷を負っているのか。一瞬にして食堂の空気を支配した凄惨な気配に、メリッサは息を呑んだ。胸の奥を鋭い楔で貫かれたかのような衝撃が走り、視界がにわかに暗転するほどの眩暈が彼女を襲う。幸福な朝の色彩は瞬時に剥ぎ取られ、心臓が耳の奥で早鐘のように鳴り響いた。
「───ヴィンセントお兄様!?」
弾けたように駆け寄り、長卓の椅子に腰掛ける次兄の傍らに膝をつく。痛々しい包帯の白さと全身の微傷に手を伸ばしかけ、触れて良いものか分からずに戦慄した。
「どうなさったの!?こんなひどい怪我……!」
激しい動揺を隠せぬ妹に対し、ヴィンセントはいつものように、ただ優しく苦笑を浮かべてみせた。
「ああ、メイ。おはよう。……驚かせてしまったね。昨夜、宮廷からの帰りに、運悪くたちの悪い野党の群れに遭遇してしまってね」
野党、というその言葉の持つ凶悪な響きに、メリッサは一瞬にして顔を真っ青に染める。か弱き文官の兄が夜闇の中で刃物を持った暴漢どもに囲まれ、一歩間違えればその命を奪われていたかもしれないという恐怖に、戦慄が全身を駆け巡った。
妹のその青ざめた表情を細やかに見据え、シグルドがいつもの優しい口調で、穏やかに言葉を重ねる。
「───ちょうど、見回り中の近衛騎士が居合わせて大事なく済んだんだよ、メイ。襲われたのがオルブライトの者とわかって、送り届けてくれてね」
「本当においたわしいわ、ヴィンセント」
長卓の端で優雅に白磁の茶器を傾けていたジゼルが、おっとりとした声音でその緊迫した空気を遮った。
「けれど、腕だけで済んで良かったわ。せっかく綺麗な顔に産んであげたのに、傷なんかついたらお母様泣いちゃうから。まだ可愛いお嫁さんも貰えてないのに……顔に傷なんかつけて婚期でも逃したら、私のときめきが台無しになっちゃうわ…!」
あまりの場違いな言葉に、ヴィンセントは失血による蒼白な顔のまま、深い溜息を吐き出す。痛む肉体を圧して、白磁の如き細い指先で自身の眉間を静かに押し込んだ。
「………母上、私の命よりも顔が大事ですか」
「顔よ! いい、ヴィンセント。ロマンスの世界において、美しさというものは何よりも尊く、いかに重要な役割を果たすか、あなたはまるで分かっていないのね。麗しき殿方の顔に心ない傷がつくなど、お母様の愛するロマンスの世界においては、あってはならない大罪なのよ」
大真面目な顔で胸に手を当てて言い放つ最愛の妻の美学を、将軍ゲラルトはただただ深い愛を以て全面的に受け止めている様子。優しく目を細めてジゼルへと甘やかな視線を向けると、真剣な声音で言葉を添える。
「まあ……幸い顔は無傷で良かったじゃないか、ジゼル。ヴィンセント、よくやった。母上のときめきを死守したことは、大いに褒めてやるぞ」
実の父親からおかしな労いを受け、ヴィンセントはますます眉間を強く押し込む。
そこへ、長卓の最上座から、地響きのような大将軍ガルフォードの豪快な笑い声が響き渡った。
「がははは! 全くだ! だが、オルブライト家の男たるもの、野党の数人程度を退けられずにどうする。手際が悪いからそれほどの怪微を負うのだ。ヴィンセント、その怪微が治ったら、今一度私とゲラルトの手で鍛え直してやるから覚悟しておけ!」
家族たちがどれほどのんきな笑い話として葬ろうとも、メリッサの胸中には「一歩間違えれば、優しく善良な兄が殺されていたかもしれない」という生々しい絶望が渦巻いていた。理不尽な暴力への激しい憤りと、兄を失いかけた恐怖で今にも弾けて泣き出しそうなメリッサの肩を、ヴィンセントが怪我をしていない方の腕で、静かに、優しく引き寄せた。
その細くとも揺るぎない腕に包まれた瞬間、メリッサの耳元に、どこか酷薄なまでの清廉さを湛えた、低く甘やかな声が滑り込んでくる。
「───襲われたのがメイでなくて、本当に良かったよ」
その声音には、不運な野党の襲撃が愛しき妹に向かったものでなかったことへの安堵を装いつつも、昨夜の凄惨な死闘の中で、彼女の平穏を文字通り命がけで死守しきったという、魂の底からの執念と凄絶な慈愛が満ちていた。薄氷を踏むが如き宮廷の暗闘を生き抜く文官の、それは妹に決して見せることのない、狂おしいほどに深い庇護の情念そのものであった。
兄の胸に抱かれ、その痛々しい包帯の温もりに触れて涙を堪えるメリッサの視界は、いまや完全に塞がれていた。
その瞬間に、食堂の空気が一変する。
愛しき孫を、娘を、妹を、優しく抱き寄せたヴィンセント。そしてそれを見つめるオルブライト家の男たちの鋭い眼差しが、水面下で静かに交錯した。
───一刻の猶予もない。即座に破棄の手続きを進め、メリッサを大公の盾から引き剥がす
これ以上ハインリヒ公爵の牙がメリッサに向かぬよう、大公アルシードとの契約を法理の壁で完璧に断ち切るという、家族が一丸となった冷徹な防衛の合図が無言で交わされる。
そして、長卓の端。優雅な所作で紅茶を口に運んでいた母ジゼル。先ほどまでのんきな美学を熱弁していたその双眸から、完全にすべての光が消え失せていた。
白磁越しに、娘を危険に晒した外敵、そして愛する息子に血を流させた理不尽な現実を冷酷に見つめるような、氷の如き凍てつく眼差し。愛する者を脅かされた母親の、怒り心頭に発した凄絶な静寂が、そこには確かに宿っていた。




