情愛の揺らめき、兆しの黒薔薇
深夜の大公邸には、街道での喧騒が嘘のような、重苦しい静寂が満ちていた。
無事にメリッサをオルブライト邸へと送り届け、自邸へと帰還したアルシードは、酷く疲弊した足取りで執務室の扉を開く。
室内には、主君を案じて待ちわびていた筆頭秘書官ハンスの姿があった。
丸みのある愛らしい瞳に安堵の光を宿し、ハンスは主君の無事を確認するや否や、素早い足取りで歩み出た。
アルシードが息を吐きながら豪奢な上着のボタンを外すと、ハンスは流れるような所作でその脇へ寄り添い、上着を恭しく受け取る。そのまま室内の衣桁へと丁寧に上着を掛けるハンスの背に向かって、アルシードは長椅子に深く身体を預けた。 あの愛おしい鈴の声によって一度は凪いだはずの、しかし、胸の奥に燻り続ける微かな震えと、引ききらぬ冷や汗を、必死に押し隠しながら。
「ハンス、お前の素早い報告のおかげで、危機の兆候を辛うじて掴むことができた。心から感謝する」
ハンスは衣桁の前で向き直り、正当に自身の功績を労う主君に対し、深々とした丁寧な一礼で応じた。有能な秘書官としての完璧な所作のなかに、彼の持つ純真で実直な人柄が滲む。
「メリッサ嬢はヴィンセントと共に外出中で、西の街道で暴漢どもに急襲されていた。……確たる証拠は未だないが、ハインリヒ公爵家の仕業と見てほぼ間違いなかろう」
「閣下……! メリッサ様が御無事であったなれば、何よりにございます」
ハンスは胸元にそっと手を当て、心からの安堵をその優しい顔に浮かべた。
しかし、秘書官の関心はそれだけに留まらない。政務を通じて親しくなり、今や大切な友人として親交を深めてきた、あの怜悧な男の安否が胸を過っていた。
「では、こちらからの急使を受け、オルブライト家の方々は無事に間に合われたのですね。……ヴィンセントも、その場にいたのでしょう? 彼も無事でしたか?」
「いや、違うのだ、ハンス。私がオルブライト邸へ向かう途上、急報を受けて飛び出してきた彼ら三人に鉢合わせ、共に現場へ急行したのだが……驚くべきはその後だ。我らが街道へ馳せ参じた時には、すでに襲撃者ら五名が悉く斬り伏せられていた」
「……え? 到着された時には、すでに敵が全滅していた、と……? 帝国最高峰の武力を有する大将軍閣下らが手を下すまでもなかったのですか。一体、どこのどなたが、他国の精鋭五名を相手にそのような……」
ハンスはその状況の矛盾に瞬時に気づき、困惑のあまり、調度品を整えていた指先をぴたりと止めた。
長椅子に身を預けたまま、アルシードは静かに首を振り、未だに信じがたい冷徹な事実を口にした。
「流石は軍閥の名門と言うべきか。文官の身でありながら、ヴィンセントにはあの大将軍らが直々に苛烈なる武の教えを施していたようだ。奴らをたった単身で仕留めたのは、他ならぬ彼自身だ」
「……ヴィンセントが、単身で……?」
ハンスの顔から完全に余裕が消え失せ、その場に凍りついた。
いつも穏やかに談笑していた、あの物静かで知性派の友人が、よもや騎士すら凌駕する武を秘めていたとは。筆頭秘書官は言葉を失い、文字通り驚天動地の衝撃を受けて佇んでいた。
アルシードは小さく息を吐き、机の上の硝子器へと手を伸ばしながら、さらに言葉を重ねた。
「……いや、さすがに無傷というわけにはいかなかったようだがな。我らが到着した時、ヴィンセントの左の袖口が鮮血に染まっていてな。刃に裂かれたらしく、随分と深い傷のようだったが……何事もなかったかのように平然と笑ってみせていたぞ」
「……左腕を……そんな深い傷を……! たった一人で精鋭五名を相手にしたのです。どれほど武の心得があろうとも、どれほどの過負荷がその身体にかかったことか。平然としているなど、強がりに決まっています。……明日、政務の合間にでも様子を見に行かなければ……!」
驚愕を超え、友人の無茶を心から案じて憤りすら滲ませ、ハンスは思わず拳を握り締めた。その真っ直ぐで優しい言葉が、夜の室内に響く。
アルシードは、友を想って身を焦がす配下の姿をじっと見つめながら、自身の胸の内へと静かに視線を落とした。
(ハンスは、友を案じて真っ直ぐに身を焦がしている。……至極当然の、まっとうな人間の情だ。ならば、私のこの肉体の震えは何なのだ。───そうだ、人が一人、殺されかけたのだ。それも、私が己の政争回避のために『盾』として、『道具』として巻き込んでしまった、何の罪もないあの令嬢が。もし、一歩間違っていれば、あの夜の闇の底で、彼女の命は永遠に奪われていたかもしれない)
脳裏に鮮烈に浮かび上がるのは、馬車の壁を隔てて聞こえた、メリッサのあの鈴を転がすような愛おしい声。
本性を晒し合い、肩の力を抜いて笑い合える、唯一無二の気安い関係。同盟の相手であり、どこか年の離れた妹のようでもある、あの親しい人を失うことなど───絶対に、あってはならない。
己のせいでその平穏を脅かされたことへの強い憤りと、失うことへの猛烈な拒絶。それらが胸の奥から濁流のごとく溢れ出し、もはや『夜闇の中で手綱を強く握り締めすぎていたからだ』という浅ましい言い訳だけでは、この全身を伝う冷や汗も、止まらぬ震えのすべてをも説明し切ることは、到底できなくなっていた。
大公アルシードは、未だそれを「恋」という名で呼ぶ術を知らない。しかし、親しい存在を失うことへの純粋な拒絶と激しい困惑のなかで、混迷に直面しながらも、彼はその胸の奥に芽生えた特別な情愛の輪郭に、確実に、静かに指先をかけ始めていた。




