黒薔薇の焦燥、茨の繁茂
深夜の大公邸の執務室には、羽ペンの走る静かな音だけが響いていた。
書類に向かっていた大公アルシードの手が、ふと止まる。彼の脳裏に蘇ったのは、先日の街頭散策における、あの可憐な婚約者の姿であった。
完璧な淑女の仮面の裏で、ドレスの裾をウズウズとさせていた愛らしさ。初めての買い食いにお淑やかにはしゃぎ、にこりと笑って絹のハンカチーフで己の口元のクリームを拭ってくれた、破格の不意打ち。
───あんなにも楽しそうに笑う姿を見たのは、初めてだった。
アルシードの端正な唇が、無自覚な優しい微笑みを刻む。あのように無邪気に喜んでくれるのであれば、次は一体、どこへ連れていけばよいのだろうか。ありのままに羽を伸ばせる逢瀬の場を、思案し始めたその時であった。
「───……いかん、集中せねば。これはすべて、連日の過労が見せる一時的な錯覚だ」
アルシードはハッとして、自らの初々しい思考を振り払うように強く頭を振った。
理性を翻弄する甘き熱を、頑なな自己欺瞞の蓋で押し隠し、再び険しい大公の顔に戻ろうとした、まさにその瞬間。
ただならぬ気配と共に、執務室の扉が開いた。
歩み寄ってきたのは、筆頭秘書官ハンスである。いつもの主君の恋路を妄想しては涙ぐむ純愛脳は影を潜め、その顔からは一切の笑顔が消え失せていた。冷徹な仮面を被ったかのような厳しさを纏い、ハンスは極秘の書類を差し出す。
「閣下、こちらを。───帝都の闇市場を仲介する大物商人の元に、一週間ほど前に巨額の金貨が動かされました。依頼主の名目は完璧に偽装されており、我が方の情報網を以ってしても未だ発信源は特定できておりません。名義は完璧に偽装され、いくつものダミー商会が複雑に経由されておりますが……これほど巧妙な隠蔽工作と破格の資金を用意できるのは、帝国内でも権力と富を握る極一握りの大貴族のみ。……ハインリヒ公爵家などが最も疑わしいですが、現状、確たる証拠は一切掴めておりません。しかし、この金の規模と隠密性は、他国の最精鋭の暗殺集団を国内に引き入れる際の前金と見て間違いございません」
一点の曇りもない冷たい声音が室内に響く。大公の右腕としての完璧な仕事の冴えを見せるハンスの姿がそこにあった。
書類を受け取ったアルシードの瞳が、鋭く細められる。
一週間前のあの朝刊。大公の懐柔を諦め、追い詰められた政敵。もし、これがハインリヒ公爵の動きであり、本当に他国の最精鋭の暗殺集団が雇われたのだとすれば───。
そのすべての歯車が、アルシードの明晰な頭脳の中で瞬時に噛み合う。
「……だとしたら、狙いはメリッサ嬢だ……!」
アルシードの唇から、緊迫した声が漏れた。
あの『過激なる華麗な美形一家』の武力を恐れる公爵が、自らの関与を完璧に隠匿した上で、婚約を破談に持ち込むための最悪の手段。死人に口なし。メリッサの命を奪うことこそが、最も確実な障害の排除であると公爵が冷酷に弾いたのだと確信した瞬間、アルシードの脳内を凄まじい焦燥の嵐が吹き荒れた。
「すぐにオルブライト伯爵邸に使いを出します!」
主君が次の命を下すよりも早く、ハンスは鋭い声で応じた。その有能な視線には、一刻の猶予もないという確固たる決意が宿っている。
ハンスは即座に身を翻し、極秘の凶報を伝えるための最速の遣いを手配すべく、執務室を風のように飛び出していった。
一人残されたアルシードは、上着をひったくるように掴むと、自らも夜の街へと疾走すべく、激しい焦燥と共に執務室を後にした。
* * *
同じ頃、夜も更けたオルブライト邸の居間には、上質な紅茶の香りが漂っていた。
精緻な銀のトレイを前に、大将軍ガルフォード、将軍ゲラルト、迅速なる近衛騎士隊長シグルドの三人は、それぞれ長椅子に腰を下ろしていたが、その視線は一分おきに壁の時計へと向けられていた。
「……メイの帰りが、少し遅いな」
ゲラルトが、手にした磁器の杯をそっと置き、眉を下げて呟いた。
夕刻からヴィンセントと共に諸用で外出しているメリッサのことが、心配でならないのだ。隣に座るシグルドも、いつもの凛とした美しい容貌に、隠しきれないそわそわとした焦りを滲ませる。脳内で妹の身に起こるありとあらゆる事態を想像しているシグルドは、深く溜め息をついた。
「いっそのこと、我らで迎えに出向いては、父上」
「うむ。シグルドの言う通り、夜道は危険が多いからな」
ガルフォードもまた、深く頷いた。国家最高峰の武力を握る男たちが、ただの一令嬢の迎えのために全力を出そうと大真面目に相談し始めた、まさにその時であった。
居間の扉が、大きな音を立てて開け放たれる。
息を切らせて滑り込んできたのは、大公邸からの最速の遣いであった。その身なりは夜を徹して疾走してきたことを物語っており、遣いは震える手で一通の極秘の書状をシグルドへと差し出した。
「大公閣下、ならびに筆頭秘書官ハンス様より……! 大至急、お改めください!」
シグルドは眉をひそめ、即座に書状をひったくるように受け取った。
そこには、ハンスが掴んだ帝都の闇市場の異常、そして大物貴族の影がある他国の最精鋭の暗殺集団が、今まさにメリッサの命を狙って動き出したかもしれないという、確実なる危難の推測が冷徹に書き連ねられていた。
「───っ、なん…だ、と……!」
書状を読み終えたシグルドの顔から、一瞬で和やかな空気が消え去った。
いつもなら妹の純潔の危機に、脳内に嵐が吹き荒れるはずの騎士であったが、本当の命の危機を前にしたその刹那、彼の瞳は極限まで冷たく据わった。脳内の迷いは一瞬で漆黒の「絶対的な殺意」へと姿を変え、これまでの牽制を遥かに超越した速度で、愛刀の柄を完全に握りしめた。
ガルフォードとゲラルトの二人も、書状の内容を視線で追った瞬間、居間を満たしていた茶の香りが一瞬で消し飛ぶほどの、淒絶な殺気をその身から放った。
これまでの過剰保護のコミカルな気配は微塵もない。国家を揺るがすほどの、帝国最強の怪物たちがそこにいた。居間の窓ガラスが、男たちの放つ本気の覇気によってビリビリと音を立てて震える。
「一刻の猶予もない。オルブライトの血を引く者が、何者によっても汚されることは許さん。遅れをとるな、出るぞ」
大将軍ガルフォードの地鳴りのような命が下る。
三人の武人は、夜の闇を切り裂くような圧倒的な速度で、メリッサの乗る馬車が通るはずの街道へと馬を駆り、激しい殺気と共に、一秒の無駄もなく邸を出立していった。




