微睡みの聖域、美しき氷刃の茨
夜の帳が深く下りた街道を、一台の馬車が静かに進んでいた。
車内を満たしているのは、一日の用件を終えた安堵感と、心地のよい静寂である。座席に深く腰掛けたメリッサは、小さな手を口元に当て、可愛らしく小さな欠伸を漏らした。
「随分遅くなっちゃったわね、お兄様」
眠そうに目元を潤ませながら、メリッサは呟いた。
そんな妹の姿を、向かいに座るヴィンセントは、まるで聖者のような慈愛に満ちた優しい微笑みで見つめていた。普段、宮廷の執務室で百官を冷徹に差配している宰修補佐の面影は、そこには微塵も存在しない。ただただ妹を甘やかす、穏やかな兄の顔がそこにあった。
「疲れただろう、メイ。邸まではまだ少しかかる。到着したら私が起こしてあげるから、それまで少し眠るといい」
「ええ……それじゃあ、お言葉に甘えて……」
メリッサはこっくりと小さく頷くと、座席の背もたれに身を預け、やがて規則正しい柔らかな寝息を立て始めた。
完全に眠りに落ちた妹の愛らしい寝顔を、ヴィンセントはしばらくの間、この世の何よりも尊いものを見るかのように、甘やかに、そして静かに眺めていた。
だが、馬車が街頭の途絶えた深い漆黒の森へと差し掛かった、まさにその時であった。突如として、御者の短い悲鳴が夜の静寂を切り裂いた。
激しい衝撃と共に、馬車が急停車する。座席が大きく揺れ、ヴィンセントは咄嗟に手を伸ばして、眠るメリッサの身体が倒れぬよう静かに支えた。
外からは、足音もなく現れた漆黒の装束に身を包んだ、異様な凄みを纏う暴漢が、またたく間に馬車を完全に包囲する不穏な気配が伝わってくる。
「……メイ、ここで待っていなさい」
ヴィンセントは、微睡む妹に優しく声をかけると、座席から静かに立ち上がった。
車外の異変を確かめるべく、ヴィンセントが馬車の扉を静かに開け放った、まさにその刹那───。
闇の中から、容赦のない冷たい刃が、彼の喉元を貫かんと凄まじい速度で突き出された。だがヴィンセントは、その殺気の起こりを完全に察知していた。その瞬間、彼の端正な顔立ちから、聖者のような優しさは微塵も残さず消え失せる。
刃が一分の隙もなく肉に届く直前、ほんの僅かに頭を傾けてそれをかわした。突進の勢いのまま通り過ぎようとした暴漢の手首を、鉄の万力のような力で掴み、逆らえない角度へ冷徹にひねり上げる。 闇の中に、骨の軋むゴキリという鈍い音が響いた。間髪入れずに、ヴィンセントはその男の胸元へ容赦のない鋭い一撃を叩き込み、呼吸を完全に奪って地面へと叩き伏せる。男の手からこぼれ落ちかけた鋭利な短剣が、ヴィンセントの細く白い指先へと美しく収まった。
一瞬、文字通り呼吸を止めるほどの一瞬の出来事であった。
予想外の事態に、周囲を囲んでいた黒装束の男たちは息を呑み、思わず一歩後退りした。お互いに気配を消し合う暗殺の夜だからこそ、彼らの間に走った焦燥は深い。
ヴィンセントは奪い取った短剣の重みを指先で確かめながら、闇に蠢く気配の数を、冷徹な眼差しで瞬時に数え上げた。
「……四人。今片付けた男を入れて、五人、か……」
端正な唇から、凍てつくような低い呟きが漏れる。 いずれも一騎当千の凄みを纏う男たちである。オルブライトの武の系譜を引くとはいえ、本職の武官ではない己の身を鑑みれば、これは決して容易な数字ではない。ヴィンセントは背後の馬車に眠る妹の存在を肌で感じながら、胸の内で物凄い危機感を抱いていた。
(この人数なら……なんとかなるか……?)
最悪の結末すら脳裏をよぎる極限の精神状態。しかし、それを決して敵に悟らせぬよう、ヴィンセントは優雅に、そして酷く冷たく微笑んでみせた。
リーダー格らしき男が恐怖を押し殺した低い声音で、鋭く命令を囁いた。
「───怯むな。相手は文官一人だ。数で押し包め」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィンセントの細められた瞳の奥には、高貴にして容赦のない、底知れぬ暗い愉悦が満ちていく。
「───何者だ?…文官であれば御せるとでも……? オルブライトの家にあって、私がただの非力な文官である筈がないだろう……?」
低く、冷たく響く声音と共に、ヴィンセントは馬車の扉を背にぴたりと立ち塞がった。一歩たりとも妹から離れぬ鉄壁の構え。
敵を威圧するその美しい横顔とは裏腹に、端正なうなじや背中には、熱い汗がじっとりと滲んでいた。
しかし、黒装束の男たちもまた、決してただの烏合の衆ではなかった。残る四名の暴漢は狂いなく互いの死角を補い合い、無音の連撃を以て、馬車ごとヴィンセントを冷酷に圧殺しにかかる。
襲いかかる敵の刃を流麗にかわし、奪い取った短剣を以って、間合いに踏み入る男をまずは一人斬り伏せたヴィンセントであったが、馬車の守りを最優先にするがゆえ、その足場は必然的に制限されていた。その洗練された身のこなしをしても、背後の扉を庇いながら、数方向から同時に繰り出される致命の刃をすべて無傷で凌ぎ切ることは不可能であった。
───鋭い金属音が夜の森に交錯する。
肉を割く鈍い感触と共に、ヴィンセントの左の美しい袖口が鮮血に染まった。
かすめた細い刃が、彼の腕の肉を確かに切り裂いたのだ。しかし、端正な顔立ちに苦悶の色が走ったのは一瞬に過ぎない。
ヴィンセントは傷口から流れる血の熱さなど微塵も気にとめぬ冷徹さで、直後に迫った二人目の胸元へ短剣を深く突き立て、その命を奪い去った。その攻撃は、戦場を駆ける騎士たちすら凌駕する美しさと、確実な致命の精度を持っていた。大将軍ガルフォードと将軍ゲラルトの手によって、その身体の芯まで完璧に叩き込まれた最強の武の系譜。
非力な文官という想定を完全に覆すその強さに、暴漢たちは激しく戦術を狂わされながらも、完全に追い詰められたリーダー格の男が、冷酷な合理性から低く鋭く叫んだ。
「───この男は後回しだ! 早く馬車の中の娘を殺れ!」
残った二名の男がヴィンセントの包囲を強引に抜けようと、メリッサの眠る馬車の扉へと突撃する。
その刹那、ヴィンセントの周囲の空気が、世界を凍りつかせるかのような絶対的な殺意へと一変した。己の負傷など些事。妹の平穏な眠りを汚し、その命を狙おうとする不埒な羽虫どもへ、ヴィンセントは一歩も引かぬ絶壁の守護者として立ちはだかる。
「……妹が眠っておりますので、お静かに」
ヴィンセントは馬車の前に立ち塞がったまま、深手を負った左腕の痛みを強靭なる意思の力で圧殺し、突き進む敵の心臓を冷徹に貫き、残る男たちを文字通り悉く片付けた。
ドサリと重い肉の塊が地面に沈む。同時に、過負荷を強いられた肉体へと激痛が走り、ヴィンセントの気高くも美しい眉が、苦悶に深く歪んだ。
いつもは完璧に整えられている前髪が、じっとりと滲んだ熱い汗によって、陶器のような額やこめかみに数筋、乱れて張り付いている。
そこから滑り落ちた大粒の滴が、伏せられた長い睫毛を重そうに濡らし、白い頬を伝っていく。感情を持たない透明な涙のように、彼の端正な顎の輪郭をなぞり、首筋の痛々しいほど脈打つ頸動脈へと容赦なく吸い込まれていった。
「……っ、はぁ……、……っ」
その端正な唇が、こらえきれずに小さく開き、熱を帯びた、酷く艶やかな吐息が夜闇へと零れ落ちる。 大将軍の血筋ゆえに技の精度こそ完璧であったが、普段の文官生活で鈍った肉体は、早くも限界を訴えて悲鳴を上げていた。
『怯むな! 相手は文官一人だ!』
戦闘の最中、最初に仲間をやられたリーダー格の男がそう叫んでいた。しかし、瞬く間に人数を減らされ、業を煮やした男が最後に放ったのは、明確な殺意の矛先であった。
『この男は後回しだ! 早く馬車の中の娘を殺れ!』
奪い取った短剣の重みを震える指先で確かめ、刃の出処を一瞥する。
そこには製造元を示す銘も、いかなる組織の紋章も刻まれてはいない。完全な無銘。だが、男たちのあの焦燥に満ちた命令が、これが単なる物取りの襲撃ではないことを冷酷に物語っていた。
その瞳はすでに、この武器をただの凶器としてではなく、宮廷の文官として「精査すべき証拠品」として捉えている。
「狙いはメリッサですか。……随分と、なめた真似をしてくれたものだな……」
低く地を這うような呟きを、夜の闇に溶かす。
背景にある巨大な陰謀の影を察しながらも、ヴィンセントは深く息を吸って呼吸を整えると、左袖を赤く染めたその美しい顔に、底知れぬ冷酷な微笑を浮かべ、何事もなかったかのように自身の衣服の乱れを整え始めた。




