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白薔薇に臨む剪定の鋏



 天光がガラルディア帝国の帝都を白々と照らし出す頃、貴族街の一角に佇むハインリヒ公爵邸の執務室には、ただならぬ沈黙が満ちていた。


 豪奢な敷布が施された机の上に放られたのは、刷り上がったばかりの朝刊である。その一面には、前日の街頭散策における大公アルシードとオルブライト伯爵令嬢メリッサの姿が、美辞麗句の限りを尽くして書き立てられていた。



「───阿呆らしい」



 低く、苦々しい地声が室内に響く。ハインリヒ公爵は、見事な彫刻の施された椅子の背にもたれかかり、眉間に深い皺を刻んだ。


 紙面に躍る文字は、目撃した平民たちの熱狂をそのまま写したかのように誇張に満ちている。大公が令嬢のために平民の職人を連行せしめた専横すらも、『愛すべき婚約者の望みを叶えるための、大公閣下の果てなき慈悲と至高の機転』と美化され、令嬢が絹の布で大公の口元を拭った不意打ちに至っては、『帝国一の美貌を誇る二人の、言葉をも超えた深き情愛の証明』と結ばれていた。


 公爵は、忌々しげにその紙面を払いのけた。乾いた音を立てて絨毯へ落ちる紙片を、冷徹な眼差しで見下ろす。


 これまでハインリヒ公爵家は、大公の権威を損なわぬ極限の境界線を見極めつつ、甘言と利を以ってアルシードをこちら側へ引き込もうと幾度も画策を重ねてきた。政争における最大の障壁たるローゼンバーグ公爵家を出し抜くためには、稀代の有能たる大公の武力と血統は何としても手に入れねばならぬ果実であった。


 しかし、この朝報が示す現実はあまりにも残酷である。


 二人の仲睦まじき様子は、すでに帝都の全域に知れ渡ってしまった。偽装の二文字など微塵も感じさせぬ、完成された美しき逢瀬。


 いくら帝国一の美女と謳われるほどに美しいとはいえ、ただの伯爵令嬢にそこまで骨抜きにされているというのか───。


鉄壁の理性を誇るはずのアルシードが、小娘一人に翻弄されている事実に、公爵の臓腑にはじわじわと焦燥の火が広がり始めていた。


 このまま推移すれば、大公家という破格の権力は完全にオルブライト家のものとなり、ハインリヒ公爵家の存立すら危うくなる。何としてでも、この不愉快極まる婚約を破談に持ち込まねばならない。


 だが、その手段の選択はあまりにも困難を極めた。


 公爵は、深く暗い思考の海へと沈み込み、五つの手段を天秤にかけ始める。──合法的、あるいは、非合法的な手段を含めて。


 まず、小娘を脅して婚約を辞退させる道は、完全に閉ざされている。オルブライト家の男たちは、国家最高峰の地位に就く者ばかりである。大将軍ガルフォードを筆頭に、将軍ゲラルト、近衛騎士隊長シグルド、そして宰修補佐ヴィンセント。あの『過激なる華麗な美形一家』の面子を潰すような真似をすれば、公爵家とて一晩で物理的に圧殺されかねない。小娘に直接圧力をかけるなど、自ら死地に飛び込むに等しい愚行であった。


 ならば、皇太子ジュリアンに小娘を献上してはどうかという企みが一瞬、頭をよぎる。皇太子の恋路を裏から応援する形を取れば、公爵家の関与を隠しつつ多大な利点を得られるようにも思えた。しかし、もし『茨』や大公の逆鱗に触れて皇太子が再起不能にまで叩きのめされれば、宮廷の均衡が崩れてかえって足元をすくわれる懸念がある。この不確実な駒を動かすのは、今はまだ危険が大きすぎた。


 残るは、攫って売り飛ばすか、あるいは傷物にして街頭に晒し、大公妃の資格を奪うか。しかしこれらも、もし小娘が生きて身元が割れたり、裏社会の連中から足がついたりすれば、自分が裏で糸を引いていると露見する危険が残り、オルブライト家の恐るべき報復から逃れることはできない。


 すべての選択肢を冷徹に吟味した果てに、ハインリヒ公爵が行き着いた結論は、唯一つ。


「殺す」───小娘の完全なる抹殺であった。


 死人に口なし。生かして政治的な取引に利用するよりも、この世から完全に消し去る方が、結果として最も関与を隠蔽しやすいと確信する。


 公爵は、自らの安全を最優先にするため、帝国一の金を投じて、公爵家とは一切の繋がりを持たない他国の闇に潜む『最精鋭の暗殺集団』を匿名で手配することを決意した。──夜の闇に紛れ、音もなく標的を屠る、黒装束の猟犬どもを。


 完璧なる陰謀の図式を完成させた公爵は、冷酷な笑みを浮かべ、闇へと視線を向ける。



「さて……せいぜい短い命を愉しむがいい、オルブライトの小娘」



 深き混迷の果てに下された非道なる決断は、静まり返った室内の闇に溶けて消えた。

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