麗しき茨、狂気の乱舞
美術商会の二階、往来を見下ろせる特等席において、二人の距離はかつてないほどに縮まっていた。
薄焼き甘味を上品に口へと運び、初めての買い食いに興じるメリッサの背筋は、隣に座るアルシードの肩と今にも触れ合わんばかりに近く、傍目にはほぼ寄り添っているかのような甘やかな構図を成していた。
だが、その光景を地上から見上げる近衛騎士隊長シグルドの瞳には、それが全く別の、極めて破滅的な情景として映り込んでいた。
ただ甘味を仲良く平らげているだけの平穏なひとときは、彼の歪みなき深層心理において、「我がオルブライト家が誇る不落の絶対防衛圏が、大公によって内側から易々と蹂躙され、最愛の妹が未知なる幸福の深淵へと自ら身を投じかけている劇的な陥落の瞬間」に他ならなかったのだ。
並んで腰掛ける二人の間に漂う、あの気の置けない穏やかな空気感。それこそが、シグルドにとっては『妹の心が芯から奪われかけている』という、最も恐るべき戦慄の証明であった。
(……近い。距離があまりにも近すぎる。なぜあのような、平民の粗末な長椅子に、我が国最高峰の令嬢が何らの警戒も持たず、あそこまで無防備に身体を寄せ合っているのだ。メイ、まさかお前、すでにその心をあの男の不埒なる魅力に……っ!)
腰元の柄を握るシグルドの右手に、静かに、しかし凄惨な冷や汗がにじむ。
一見すれば、国家の警護任務を冷徹に遂行する凛とした佇まいのままであったが、その胸の奥底では、これまでの「一センチの牽制」では決して防ぎ止められぬ、未曾有の崩壊警報が烈しく鳴り響いていた。
さらにシグルドの怒りの火力を煽ったのは、大公アルシードの視線であった。
無自覚な恋心の疼きに翻弄されているアルシードは、隣のお転婆な少女の無防備な姿から、完全に目が離せなくなっていた。その、あまりにも真っ直ぐで熱烈な凝視の事実は、兄の瞳に、この上なく不埒な外敵の姿として焼き付く。
「あら。近衛騎士隊がいるわ」
「……ということは、シグルド様も……!」
「きゃあ! いらしたわ! いつ見ても美しくて凛々しくて……なんて素敵でいらっしゃるの……!」
たまたま街へ買い物に訪れていた社交界のご令嬢方が、大通りに佇む近衛騎士の精鋭たちを発見し、一斉に華やいだ歓声を上げた。
容姿の美しさをも厳格に重視される近衛騎士隊において、その頂点に君臨するシグルドの神々しいまでの美貌は、帝国のあらゆる乙女たちの心を惹きつけて離さない、絶対的な憧れの象徴であった。令嬢たちは胸を高鳴らせ、その凛とした雄姿を遠巻きに見つめては、うっとりと頬を染めていた。
しかし、ご令嬢たちの熱い視線を浴びる麗しき近衛騎士隊長の頭の中は、今や未曾有の大崩壊を迎えていた。
(見すぎだ……。あの男、いくらメイが可憐だからと言って、ジロジロと見すぎだ。社交界の夜を支配した眼光を、我が妹の純真な横顔にこれほど長く注いで、一体何を企んでいる……っ)
シスコンとしての歪みなき思考回路において、「我が妹があまりにも愛らしいがゆえに、不埒な男が見惚れてしまうのは当然の理」という確固たる大前提を抱きながら、シグルドは噛み締めた奥歯をギリリと軋らせた。鉄壁の規律を誇る近衛騎士隊長としての威厳を辛うじて維持しながらも、その呼吸は確実に乱れ始めていた。
しかし、その殺気と焦燥を隠し持ったシグルドの張り詰めた佇まいは、遠巻きに眺めるご令嬢方の目に、さらなる劇的なる誤解を生んでいた。
「まあ、御覧になって……。シグルド様、いつも以上に鋭く、真剣な眼差しをされていらっしゃるわ」
「ええ、まるで帝国の平和を揺るがす見えざる敵と、独り命がけで対峙しておられるかのようですわね。あのような厳格なお姿も、息を呑むほどに素敵……!」
令嬢たちはその冷徹極まる美貌の奥底で、一人のシスコンの男が「我が妹が愛らしすぎるがゆえに、不埒な男が見惚れてしまうのは当然の理」などという歪みなき大前提を抱き、ただただ大真面目に歯噛みしているとは夢にも思わなかった。街頭に漂ううっとりとした恋慕の吐息は、シグルドの張り詰めた神経の裏側で、静かに、しかし確実に空回っていた。
しかし、その無音の光景の中で、シグルドの全理性を木端微塵に粉砕する、真の試練が幕を開ける。
ふいに顔を向けたメリッサと、アルシードの視線が正面から絡み合った。
目が合って、メリッサがこれ以上ないほどに幸福そうに、にこりと花が開くように可憐に笑った。
そして次の瞬間、メリッサは真っ白なシルクのハンカチーフを掲げ、大公の唇へと向かって、あまりにも無防備に、あまりにも優しく、その細い指先を伸ばした。
「────ッ」
シグルドの脳内で、あらゆる思考の防波堤が、凄絶などという生ぬるい言葉では決して表現し得ないほどの音を立てて完全崩壊した。
会話は一切聞こえない。無音の視覚情報だけが、シグルドの脳髄に最悪の破滅のパズルを完成させていく。
大公の熱烈な凝視、それに応える妹の蕩けるような微笑、そして、互いの距離を完全に消失させるかのように、大公の唇へと吸い寄せられていく妹の手。
シグルドの瞳から、完全に光が消え失せ、完璧な品格を湛えた端正な顔面のまま、その眼光だけが、漆黒の奈落のごとき深淵へと変貌していく。
(おのれ大公……。ついにメイの唇の領空まで侵犯する気か……っ。あのような白昼堂々たる場所で、我が愛する妹に、そのまま口づけを交わすなどという破廉恥の儀式に及ぶつもりか……っ)
いよいよ妹の純潔が、眼前の睦み合いによって完全に奪われかねない(接吻される)という、狂気的なる危機感。
取り乱しという表現すら超越した絶望の業火がシグルドの全身を貫いたが、彼は決して下俗に声を荒らげることはない。ただ、圧倒的な品格を纏ったまま、その美しい肉体だけが、静かに凄絶な殺気を沸騰させていくのであった。
これまでのシグルドであれば、大公を威嚇し牽制する際も、カチッと一ミリだけ鞘から剣を浮かせ、あるいはそこから一センチだけ抜くという、気高き境界線を決して踏み越えぬ男であった。それがオルブライト家の男としての、そして近衛騎士隊長としての絶対的な規律であったはずなのだ。
───だが、今回ばかりは違った。
ギリ、と端正な奥歯を噛み締めたシグルドの右手が、無意識のうちに柄を掴み、引き抜く。
ジャキリ、と鈍く重い金属音が、彼の腰元から鳴り響いた。
いつもの一ミリでも、一センチでもない。陽光を浴びた白刃が、ギラリと冷たい光彩を放ちながら、実に「三分の一」に達するまで鞘から剥き出しになったのだ。
これほど剣を引き抜くなど、近衛の長剣においてはいつでも相手の首を刎ね飛ばせる超危険領域であり、シグルドがいかに己を見失い、猛烈に取り乱しているかの明白な証拠であった。
その異常事態と、隊長の身体から噴出する、まるで国境線が破られたかのような尋常ならざる殺気を察知した部下の近衛騎士たちは、凛とした品格を保ったまま、極めて真面目な声音で色めき立った。
「……おい、見ろ。隊長が、あのシグルド隊長が、剣を三分の一も抜かれたぞ」
「いつもの牽制ではない。これは、我らでは気付けていない暗殺者か、あるいは国家を揺るがす見えざる戦端が開始された合図に違いない」
本気でこれが大公閣下と令嬢を狙う国家的危機(異常事態)の襲来であると誤認した精鋭たちは、一様に表情を引き締め、上官の最新の戦闘合図(三分の一)に、寸分の疑いもなく追随した。
「流石は隊長、いち早く敵の急襲に気づかれるとは。我らも続け。隊長の三分の一に合わせろ」
シャキィィィン――ッ!!!
街頭ののどかな空気を切り裂いて、帝国最高峰の精鋭数十名が一斉に気を引き締め、鋭い殺気と共に愛刀をぴったり「三分の一だけ」一斉に引き抜いた。
無駄に統率の取れた鉄の冷たい一斉金属音と、地鳴りのごとき凄絶な殺気が、美術商会の開放的なバルコニーへと遮るものなく壮大に響き渡った。
その瞬間、バルコニーの特等席でメリッサの至近距離からの無防備な愛らしさに心臓を撃ち抜かれていたアルシードは、一瞬にして全身の血の気が引くのを感じた。
メリッサの真っ白なシルクのハンカチーフが自身の口元を優しく拭ってくれた瞬間、元プレイボーイの胸の奥底には、かつてないほどの甘美なる歓喜と情愛が確かに咲き誇っていた。……しかし、それと全く同時に、これまでの血を吐くような経験則が、彼の脳髄に最大級の警戒警報を叩き込んだのだ。
(───待て。この状況は…!シグルドが、俺の胃を刈り取りにくる絶対的な予兆だ…!)
メリッサが触れてくれた喜びと、しかし「シグルドが尋常ではなく激怒しているから今すぐやめてくれ」という五体を裂くような恐怖の狭間で、アルシードの完璧なる大公の仮面は硬直した。
直後に押し寄せてきた、近衛騎士隊全体による本気の「三分の一の一斉抜剣」という凄まじい鉄の金属音。
ただ薄焼き甘味を味わうという至福の聖域は、一瞬にして一歩でも動けば首が飛びかねない極限の戦場へと変貌し、アルシードは文字通り滝のような冷や汗を流した。
(何だ、あの無駄に統率の取れた完璧な三分の一の抜剣は……! 俺の胃壁を崩壊させるつもりか……っ!)
かつて稀代のプレイボーイと呼ばれた男は、あまりにも理不尽な我が命の危機と、五体を突き刺す凄まじい胃の激痛に耐えかねて深く背もたれに沈み込み、現実の不条理さに、人知れず本日二度目の白目を剥く羽目になるのであった。




