黒薔薇の専横、奇襲の白薔薇
背後の騒音にげんなりしながらも、アルシードは気を取り直し、平静を装って声を絞り出した。
「……西方の異国から流れてきた職人が、新しく興した薄焼き甘味の店だ。果物の蜜煮や特製のクリームを生地で包む代物でな。いま、街の平民たちの間で酷く流行している」
「薄焼きの、甘味……!」
その言葉が終わるよりも早く、メリッサの瞳が爛々と燃え上がった。淑女の仮面で完璧におすまししてはいるが、今にもドレスの裾を翻して列へ飛び込みそうなほど、その足元がウズウズと小刻みに跳ねている。
「閣下、私、あれを食べてみたいわ!」
瞳を爛々と輝かせて言い放つメリッサに、アルシードは呆れたように眉根を寄せた。
「いや、今しがた特製パフェを腹に収めたばかりではないか。君の胃袋は底が知れないな、メリッサ嬢」
「まあ、失礼な。甘味は別腹と、古来より帝国の賢者たちも書き残しておりますわ」
堂々たる嘘を上品な聲音で言い返すメリッサの無邪気さに、アルシードは結局、眉を下げて静かに苦笑を漏らすしかなかった。
『……分かった。ならば、並ぶとしよう』
などという不用意な決断を、ガラルディア帝国の最高位たる大公が下すはずがなかった。
半月におよぶ激務でどれほど脳が狂い、初恋の少年のごとく胸を翻弄されていようとも、アルシードの鉄壁のぬかりなさが社交界の醜聞を許すはずがない。
帝国一の美女と大公が平民の列に交じって買い食いに興じるなど、もし宮廷の儀礼室に知られれば、明日には大公邸の門前に抗議の書状が山を成すのは明白であった。
「……メリッサ嬢。気持ちは分かるが、我らが平民の列に直接交ざるわけにはいかない。万が一にも、君が市井の不毛な噂に巻き込まれるような事態は、婚約者として絶対に阻止せねばならんからな」
自身の胃の健康を守るためのぬかりなき防策を、アルシードは大公としての完璧な品格ある声音で冷徹に諭した。
「まあ……やはり、不可能なのですのね」
見るからに落胆の気配を滲ませるメリッサの姿に、アルシードの胸の奥底がまたしても無自覚な愛おしさで激しく擽られる。
彼は差し出しかけた己の手を、初々しい動転のあまり寸前で引き戻し、ただ大公としての流れるようなエスコートの動作のまま、通りの斜向かいにある豪奢な建物を促した。
「だが、方法がないわけではない。あそこにあるのは大公家御用達の高級美術商会だ。あそこの二階であれば、中央大通りの活気を一望できる特等席がある。ついて来なさい」
アルシードに促され、二人が素早くその高級商会へと足を踏み入れていく───その時、後方で凍りついていた近衛騎士隊長シグルドの元では、部下たちが大真面目な顔で「搬送する組」と「護衛を継続する組」に人員を分けるための、極めて深刻な作戦会議を繰り広げていた。
「シグルド隊長が、謎の急性発作で重症だぞ!」
「呼吸は微かにある! だが心神喪失の度合いが深すぎる、今すぐ特別医療班を呼ぶのが先決だ!」
緊迫した議論が交わされる中、遠い意識の奈落を彷徨っていたシグルドの耳に、微かな声音が届いた。
『……大公閣下とオルブライト伯爵令嬢の、護衛を継続せねば……』
その言葉が、凍てついていたシグルドの魂を大理石の硬直から引き戻した。
死線から這い上がるかのように、シグルドの指先がピクリと動く。白目状態の瞳に、凄絶な意思の灯火がじわりと蘇った。
「────………我が……我が任務は、まだ終わってはいない……!」
地鳴りのごとく低く掠れた声が、シグルドの唇から漏れ出る。
「た、隊長が目覚められたぞ!」
「シグルド隊長ッ! ああ、奇跡だ、神は我らを見捨ててはおいでにならなかった!」
色めき立つ部下たちが一斉に膝を突く中、一人の騎士が涙を流さんばかりの形使でその巨躯を支えようとした。
「隊長! ご無理をなさらないでください! まだお顔が真っ白でいらっしゃいます!」
「黙れ……。私は、近衛騎士隊長だ。メイの……いや、国家最高峰の令嬢の警護を、他人に委ねられるか……っ」
物凄い発作的重症に苦しみながらも、執念だけで立ち上がる我が上官の雄姿に、精鋭たちは一様に胸を熱くし、拳を握りしめて咽び泣いた。
「あのような極限状態でなお、職務を全うされようとするなんて……。シグルド隊長、どこまで高潔な御方なのだ……!!」
本気でこれが国家的危機であり、上官が命を賭して大義に殉じようとしているのだと、騎士たちは感動の渦に呑み込まれていた。
(あの誠実な男の不埒から、何としてもメイを守り抜かねば……っ!)
真実の動機を「騎士の矜持」という美しい包装紙で完全に包み隠し、凄絶な執念だけで奇跡の生還を果たしたシグルドは、再び鋭い眼光を前方へと走らせ、部下たちに商会の周囲を厳重に包囲・監視する隠密の警護線を敷くよう命じるのだった。
一方、そんな大騒動など露知らず、美術商会の豪奢な個室へと案内されたアルシードは、すぐさま支配人を呼びつけていた。
突如として現れた大公閣下と帝国一の美女の姿に、商会の支配人は心臓を総毛立たせて戦慄したが、アルシードは指先一つでそれを制し、すぐさま二階の特等席へと案内させる。
「支配人、今すぐあの行列の店の職人を、焼き鉄板と材料ごとこの二階へ秘密裏に呼び寄せてくれ。代金はすべて大公家が持つ」
国家の最高機密を扱うかのような大真面目さで、ただの平民の甘味を用意させるという、無駄に壮大な職権乱用。支配人は「まさか大公閣下が平民の甘味を……!?」と内心で天地がひっくり返るほどの衝撃を受けながらも、有能な手腕で瞬時に職人を二階へと拉致……いや、極秘裏に呼び寄せた。
その頃、大通りで黙々と生地を焼いていた平民の職人は、突如として背後に現れた黒ずくめの商会男たちに両脇を抱えられ、何らの猶予も与えられぬまま豪奢な建物へと連行されていた。愛用の焼き鉄板と材料の入った樽までが、神速の連携で同時に運び込まれる。
(ひぃぃ…俺が何をしたってんだ! 領主様に納めるべき小麦の売上を、ほんの少しばかり帳簿から省いたのがバレたのか、それとも……っ!)
あまりの理不尽な事態に、職人は己の命の終わりを覚悟していた。
しかし、案内された美術商会の豪奢な二階の個室のバルコニーで待っていたのは、絞首台ではなく、神話の絵画からそのまま抜け出してきたかのような、帝国最高峰の美貌を誇る二人の貴人であった。
「……職人、急な呼び立てを許せ。その鉄板で、先ほど街頭で焼いていた薄焼き甘味を、今すぐここで実演してもらいたい」
大公としての完璧な威厳を纏ったアルシードの冷徹な声音に、職人の心臓は総毛立ち、爆発せんばかりに激震した。
(た、大公閣下……!? それに、もしや隣にいらっしゃるのは、噂に聞くオルブライト伯爵令嬢……!? なぜ平民のクレープごときで国家権力が動いているんだぁぁ――っ!?)
あまりの衝撃に五体を震わせながらも、職人は生き残るために命がけで火を熾し、焼き鉄板を温めた。
お誂え向きに用意されたバルコニーの特設調理場の前に、大公と令嬢が静かに立ち塞がる。
メリッサは完璧な深窓の令嬢としての淑やかな佇まいを維持しつつも、興味津々といった様子で、職人の手元をじーっと真剣に見つめていた。そのブルーの瞳には、じゃじゃ馬の本性が隠しきれぬ野生の輝きとなって爛々と宿っている。
さらにその隣では、初恋少年のごとき動転を隠し持つアルシードまでもが、大公としての鋭い洞察力を発揮するかのように、腕を組んで職人の焼き技をじーっと無言で凝視していた。
帝国一の美男美女から全神経を集中させた視線を至近距離で浴びせられ、そこに控える商会の支配人や給仕たちまでもが息を呑んで見守るという、凄絶なまでの緊迫感。職人の額からは滝のような脂汗が流れ落ち、鉄板の上に生地を薄く伸ばすだけの作業が、まるで皇帝陛下の御前で国家の命運を分ける儀式に挑んでいるかのような錯覚さえ抱かせていた。手が震えて具材を落としそうになりながらも、職人は勘だけで最高品質の甘味を焼き上げ、震える手で皿へと移した。
二人が焼き上がった甘味を受け取り、バルコニーに置かれた長椅子へと移動した瞬間、完全に限界を迎えていた職人も、商会の人間たちも、一斉に胸に手を当てて、深い安堵の息を漏らすのだった。
賑やかな平民の街頭を見下ろせる特等席に腰掛け、二人はようやく薄焼き甘味を口にする。
「まあ……! 閣下、生地がまだ温かくて、胡桃の香ばしさが口いっぱいに広がりますわ。宮廷の職人が作るものとはまた違う、素朴でありながら実に力強い美味ですのね!」
メリッサは商会の人間たちの視線を意識し、完璧な深窓の令嬢としての「お淑やかなおすまし」を維持し、背筋を美しく伸ばしたまま、上品に、しかし驚くべき速度で薄焼き甘味を口へと運んでいた。初めて経験する平民の娯楽に、彼女は興奮を隠しきれず、ブルーの瞳を野生の輝きで爛々と輝かせてお淑やかにはしゃいでいる。
「……美味いなら何よりだ、メリッサ嬢」
呆れた言葉を返しつつも、アルシードは自身の胸の奥を執拗に擽るその愛らしい姿から目が離せなくなっていた。
どれほど世間を欺く完璧な仮面を被っていようとも、彼女の本質は、今にも走り出しそうなじゃじゃ馬の少女なのだ。宮廷の欺瞞に満ちた息苦しい喧騒から彼女を連れ出し、誰も気にすることのない場所で、ありのままの姿で羽を伸ばさせてあげたい。何一つ遠慮することなく、思う存分にはしゃがせてあげたい──。
(……そのためには、どのような逢瀬の場を用意すべきか。大公家が隠し持つ、厳重に閉ざされた極秘の離宮庭園であれば可能か? いや、そこへ彼女を連れ出すとなれば、ハインリヒ公爵家の監視を完全に撒かねばならん。近衛の目を盗むための隠密ルートの確保と、帝国の隠密部隊の動員が必要か……)
ただ気安い同盟相手を喜ばせたいというだけの、過労による「錯覚」のために、アルシードは大公の権力と知略をすべて動員し、次なる逢瀬の作戦案を練り上げ始めていた。己の内に眠る獰猛な独占欲の存在には、未だ夢にも気づかぬままで。
メリッサの満足そうな様子を隣で見届け、大公としてのぬかりなき防策が完璧に功を奏したと確信したアルシードは、傍らに控える商会の支配人へと、至極満足げに視線を向けた。
「支配人。これならば、市井に不毛な噂を流されるリスクを完璧に排しつつ、平民と何ら変わらぬ街頭の買い食い体験をメリッサ嬢に提供できたな。我ながら、実に隙のない完璧な対応であったと自負している」
大公としての完璧な品格を湛え、これ以上ないほど大真面目に、誇らしげに言い放たれたその言葉。
それを正面から受け止めた支配人は、ただただ脳髄を殴られたかのような強烈な衝撃に襲われていた。
(……いえ、閣下。これは『平民と同じ買い食い』などでは断じてございません。たかが婚約者の些細な思いつきを叶えるためだけに、一介の平民の職人を焼き鉄板ごと国家権力で拉致し、この高級商会の二階バルコニーに隔離して完璧な擬似空間を構築した……恐るべき社会的地位の私物化に過ぎません……っ!)
有能な切れ者といわれた大公が、たかが婚約者の少女のために、自身の知略と国家権力をあまりにもくだらない方向へとフル稼働させている。そのあまりにも重すぎる愛の暴挙(本人は業務と言い張っている)を目の当たりにした支配人は、声にならぬ戦慄を覚え、ただただ冷や汗を流して平伏するしかなかった。
そんな支配人の絶望など露知らず、アルシードは自身の胸の奥を執拗に擽るメリッサの愛らしい姿から目が離せなくなっていた。
どれほど頑なに「過労による錯覚」と言い張ろうとも、大公としての洗練された理性をなぎ倒して湧き上がる情愛の視線は、あまりにも真っ直ぐに、そして静かにメリッサの美貌へと注がれていた。
薄焼き甘味を上品に口へと運び、その素朴な美味に心からの歓喜を弾ませている少女。その無防備でお転婆な本性をただ見つめるこの時間が、今のアルシードにとって、何物にも代えがたい安らぎの聖域となっていた。
ふいに、何かを察したようにメリッサが食べる手を止め、アルシードの方へと顔を向けた。
視線が、正面から絡み合う。
至近距離で自身をじっと見つめていた大公の瞳を真っ直ぐに受け止め、メリッサは隠しきれない親愛の情を込めて、にこりと花が開くように可憐に笑った。
「まあ、閣下。お口元にクリームがついておりますわ」
鈴を転がすような上品でお淑やかな声音でそう告げると、メリッサは懐から真っ白で繊細な刺繍入りのシルクのハンカチーフを取り出した。




