陽光の白薔薇、崩れ行く茨
重厚な馬車の扉が閉ざされ、外界の喧騒が完全に遮断された刹那。アルシードは座席の背もたれへと力なく身体を沈めた。
完璧な品格を保ってメリッサを車内へとエスコートし終えたものの、いまや彼の五体を苛むのは、容赦のない胃の激痛であった。
レストランの個室を出た直後、背後から突き刺さるように浴びせられた茨たちの、あの狂気じみた敵意。国家最高峰の武威を湛えた男たちが放つ、一切の道理を無視した理不尽な圧迫は、大公としての傲慢さを誇るアルシードの精神を芯から削り取っていた。
外からの視線が完全に途絶えた空間で、彼はただただ人知れず虚空を見つめ、現実に迫る体調の危機に耐え忍ぶしかなかった。
「閣下、あの特製のクリームの口溶けは、本当に素晴らしかったわ」
その傍らで、一切の澱みのない、弾んだ聲音が響く。
メリッサは世間向けの、触れれば壊れる薄氷のごとき深窓の令嬢の仮面を完全に脱ぎ捨てていた。
「閣下が連れて行ってくださるお店は、本当に素晴らしい名店ばかりで……ふふっ、次はどんなお店にご招待していただけるのかしら」
先ほど匙を置いたばかりだというのに、そのブルーの瞳は、早くも未来の甘美なる美味への期待で眩く輝いている。可憐な外見とは裏腹に、その中身はあまりにも逞しく、驚くほどハキハキとしたお転婆な少女そのものであった。
凄惨な胃痛に耐えていたアルシードは、その破格の無防備さに思わず毒気を抜かれた。己の胸の奥底を静かに翻弄するこの奇妙な感覚を、彼は「気の置けない同盟相手との気楽なやり取りが、少しばかり心地よいだけの錯覚だ」と、大真面目に自己欺瞞の蓋を閉じる。すべては連日の激務による過労がもたらした脳の狂いに過ぎない。
「……まだ腹に収めたばかりだというのに、もう次の心配か、メリッサ嬢」
呆れた言葉を返しつつも、アルシードの美貌には、眉を下げた柔らかな苦笑が浮かんでいた。かつて帝国の夜を支配した男が、いかなる高貴な美女の前でも見せたことのない、極めて無自覚で穏やかな笑みであった。
楽しそうにコロコロとよく笑うメリッサを見つめるうちに、アルシードの内に「このまま邸に戻すのは惜しい」という無自覚な情愛が微かに疼く。
「メリッサ嬢、もし良ければ、このまま邸に戻る前に、少しだけこの先の街を歩いてみないか。心地のよい陽気だ」
「まあ、街の散策ですか? 喜んでお供するわ、閣下!」
歓喜に弾むメリッサの承諾を受け、馬車は平民たちの活気あふれる中央大通りへと進路を変えた。
馬車が停まり、再び外界へと足を踏み入れた瞬間、メリッサを纏う空気が一変した。
陽光に透ける硝子細工のごとき儚さと、誰もが平伏したくなるような高貴な気品。瞬時に完璧な淑女へと擬態したメリッサは、周囲の平民たちがその神々しさに息を呑む中で、鈴を転がすような声音を響かせる。
「まあ……とても活気がありますのね、閣下」
どこまでも上品におすまししているが、アルシードの鋭い洞察力を欺くことは叶わない。ドレスの裾の陰で、今にも走り出しかねないほど足元がウズウズと小刻みに跳ねているのを、彼はとうに見抜いていた。その瞳は、面白そうな出店を求めてせわしなく、野生の輝きを秘めて動いている。
「全く、目を離したらどこへ駆けていくか分からないな」
目を離せばどこへ飛び出していくか分からぬじゃじゃ馬の性質に呆れつつも、アルシードは誰にも悟られぬよう、眉を下げて静かに苦笑を漏らした。
その二人の空気感は、周囲を歩く平民たちの目に「この上なく美しく、互いへの深い情愛に満ちた、完璧な恋人同士」の情景として映り込んでいた。
『なんて絵になるお二人だ』『大公閣下が、あれほど優しく笑われるなんて、心からご令嬢を愛しておいでなのだな』という感嘆が街頭に静かに広がっていく。二人が偽装の契約で結ばれた、胃を痛める大公とお転婆な令嬢であるとは、平民の誰一人として疑う者はいなかった。
そんな周囲の誤解に満ちた視線など露知らず、歩を進めていたメリッサが、唐突にアルシードの逞しい腕を両手で掴んだ。
「……っ?」
プレイボーイの洗練された身のこなしを誇るアルシードが反応する間もなく、ぐいぐいと力強く下に引っ張られる。驚きに目を見張りながらも、彼はその力に抗うことなく、不恰好にならぬよう流麗な動作のまま、上体を低く屈めた。
アルシードの耳元に、メリッサの柔らかな吐息が触れる。
「閣下、閣下、あのお店は何かしら。たくさん人が並んでるわ」
周囲に決して聞こえぬよう、しかし声を弾ませた素の口調の小声であった。
「ああ、あれは……」
大公としての完璧な知識を以て説明を返そうと、アルシードがメリッサの方へと顔を向けた───その刹那、彼の思考回路が完全に停止した。
距離が、あまりにも近すぎた。
至近距離でこちらを見上げるメリッサは、上目遣いに、悪戯っ子のような愛らしい笑みをその美貌に浮かべていたのだ。
むろん、メリッサにとっては、実の兄たちに甘えているのと全く同じ、邪念を一切削ぎ落とした無邪気な感覚に過ぎない。しかし、その無邪気な不意打ちに、アルシードの洗練された思考回路は完全に停止した。かつて帝国の夜を支配した男は、目の前の可憐な白薔薇の存在感に圧倒され、またも襲いかかる己の肉体の急激な反逆に、内心で冷や汗を流して困惑した。
そして後方。本気でこれが国家最高峰の護衛任務であると信じて、護衛という名の監視を遂行していた近衛騎士の精鋭たちは、その光景を遠巻きに眺めていた。
『なんと美しいお二人だ』『仲睦まじくていらっしゃる。まるでお伽噺の一幕のようだ』 騎士たちはその高貴な情愛の美しさに、気品たっぷりに静かな称賛を送っていた。
ただ一人、その先頭に立つ近衛騎士隊長シグルドを除いては。
実の兄としての直感が、かつてない天変地異の到来を告げていた。
先ほどレストランから出てきた妹の、あの幸福感に蕩けた表情。そして今、市井の喧騒の中で、大公の腕をしっかりと抱え込み、至近距離から放たれている無防備極まる信頼の上目遣い。
それらの点と線が、シグルドの脳内で恐るべき速度で結ばれ、一つの壊滅的な結論へと達していた。
(───メイの心が、奪われた。あの、偽装の盾に過ぎぬはずの男に……っ!)
妹の心と純潔が、己の関与し得ぬ領域で完全に陥落したという、あまりにも理不尽な現実。
不埒な害虫であれば抜剣して細切れにすれば済むものを、己も一度はその真摯な矜持を認めてしまった男だからこそ、この事態はシグルドの魂を芯から粉砕するに十分であった。
凄絶な衝撃のあまり、シグルドの瞳から一瞬にして光が消え失せた。五体の感覚が完全に消失し、血の気が引いた顔面は、今や美しい大理石の彫像のごとく真っ白に硬直している。口を微かに開けたまま、魂が口から抜け出しかねない白目状態で完全に凍りついたその巨躯は、周囲の空気を凍らせるほどの凄まじい悲惨さを放っていた。
その異常事態に、後方で控えていた近衛騎士たちが真っ先に気づいた。
「……おい、隊長の御様子が奇妙だぞ」
「瞳の光が完全に消失しておられる」
隊長が何らかの身体的発作を起こし重症なのではないかと、騎士たちは色めき立った。
「隊長! シグルド隊長ッ!」
「いけない、お身体が鉄のように強張っていらっしゃる! 医官を呼べ!」
「隊長が崩御されたぞーーーッ!!」
中央大通りの片隅で、帝国最高峰の精鋭たちが、白目を剥いて微動だにしない我が上官を囲み、涙を流さんばかりの形相で右往左往し始める。
前方でその凄まじい気配を察知したアルシードは、冷や汗を流しながらも、決して表情は崩さない。
至近距離のメリッサの愛らしさに心臓を撃ち抜かれた衝撃を、大公としての完璧な仮面で覆い隠し、冷徹に、流れるような優雅さで尋ねた。
「……それで、メリッサ嬢。あの行列の店が、どうかしたのか」
胃の激痛と、背後から押し寄せる『近衛隊長崩御』の狂気じみた騒音に耐えながら、アルシードは命がけで紳士としての品格を維持し、空回る肉体を繋ぎ止めるのだった。




