黒薔薇の戦慄、欺瞞の迷宮
───重厚な真鍮の取っ手がついた扉が閉ざされた瞬間、外廊下を満たしていた、皮膚を穿つほどの物々しい気配は、ひとまず壁の向こうへと退いた。
帝国が誇る最高峰の武力が、護衛という名目でこの高級レストランを二重に包囲しているという厳然たる事実は変わらない。しかし、ひとたびこの重厚な個室に足を踏み入れれば、そこは二人だけの聖域であった。
アルシードは、対面に腰を下ろしたメリッサの姿を静かに見つめた。
実に対面するのは一月ぶりとなる。宮廷の欺瞞に満ちた喧騒の中で、どれほどこの時間を待ち侘びていたか。無自覚な高揚感が胸の奥底で静かに疼き、冷徹であるはずの仮面の裏で、自然と柔らかな灯火が灯るような心地がしていた。元プレイボーイの彼でさえ「妙な胸の疼き」の原因はいまだ不明のままであったが、いまはこの穏やかな時間に身を委ねたかった。
やがて、部屋の調度品に調和した格式高い衣服を纏う給仕が、恭しく一皿の器を運んできた。
それは、アルシードが事前に細かく指定して作らせた、特別な甘味であった。透明な硝子の器の中に、何層にも重ねられた特製のクリームや、みずみずしい輝きを放つ果実が美しく映える。長年彼女が渇望してきた至高のタルトの記憶すら超えるような、繊細に作り込まれた甘美な造形が、まるで一つの芸術品のように美しくそびえ立っている。現代の言葉を借りるならば、華麗なる聖杯とでも呼ぶべき、視覚をも歓喜させる逸品であった。
給仕の若者は、緊張のあまり指先を微かに震わせていた。
帝国一の美女と謳われるオルブライト伯爵令嬢を前にし、「まさか、この手で直接お給仕する日が来ようとは」という畏怖と歓喜が、その頬をほんのりと紅潮させている。器を白布が敷かれた卓上に置くその刹那、若者は恐れ多くも、吸い寄せられるようにメリッサの顔を盗み見てしまった。
運悪く、メリッサの透き通ったブルーの瞳が、その視線と真っ向から交差する。
内心の動転で息を詰まらせた給仕に対し、メリッサはただ、運ばれてきた華やかな器への純粋な感謝を込め、可憐に微笑んで小さく会釈を返した。
途端に、給仕の顔は林檎のように真っ赤に染まった。 頭の中で「なんと、なんと美しいお方だ」という衝撃の嵐が吹き荒れたに違いない。若者は手をさらに激しく震わせながらも、そこは格式高い老舗の矜持であった。音を立てぬよう細心の注意を払い、そそくさと、しかし一流の使用人としての見事な所作を維持したまま、逃げるように部屋を退室していった。
パタン、と静かに扉が閉まる。
その一部始終を冷徹に観察していたアルシードは、思わず口元を綻ばせ、小さく苦笑を漏らした。
給仕の若者が令嬢の無垢な一撃によって完全に撃ち抜かれたことは明白であった。だがそれ以上に、当のメリッサ自身が、そんな他者の狂騒など微塵も気にとめていない事実が可笑しかった。彼女の視線は、先ほどから一瞬たりとも、その華やかな硝子器の頂から外れていない。ただひたすらに、目の前の美味への期待で胸をいっぱいにしている。その逞しくも愛らしい本性を見抜いているのは、世界で自分だけであった。
「君はそうやって黙って微笑んでいれば、可憐な白薔薇なんだがな」
アルシードは、いつものように洗練された口調で、からかうように語りかけた。 メリッサは硝子の器からようやく視線を上げ、少しだけ不満げに、しかしお互いの素を晒し合った気安い調子で、軽く唇を尖らせた。
「まあ、閣下。それは私がお喋りを始めると、途端に茨の棘が突き出すとでも言いたいのかしら? せっかくこんなに素晴らしいものをご用意していただいたというのに、意地悪ですね」
「まさか。ただ、先ほどの給仕が憐れだと思っただけさ。君のその外面の破壊力を、まともに浴びてしまったのだからね」
「給仕の方が……? 何か粗相でもあったかしら。…少し手が震えていたみたいだったけれど」
本気で理由が分かっていない様子で、メリッサは不思議そうに瞬きを繰り返す。
その曇りのない瞳、独立した意志を持つかのように輝く白銀の髪、滑らかな横顔のライン。それらすべてが、個室の静寂の中で不意に鮮烈な美しさを放った。
───ああ、本当に。
アルシードの胸の奥で、何かが確かに跳ねた。
数多の女性を相手に、洗練された甘い言葉を囁いてきたはずの彼であった。呼吸をするのと同じ軽やかさで、相手を蕩けさせるような甘い賛辞をいくらでも吐き出せる、そんな男であったはずだった。「君のその美しさが、一人の若者の魂を奪ったのだよ」と、滑らかな言葉の蜜で、いくらでも卓上を飾れたはずだった。
ただの気安い相手、己の素を晒せる唯一の安全圏。だからこそ、いつも通りに、ごく自然にその言葉を告げようとした。
「君は、本当に──」
美しい、と。その五文字を、喉の奥から押し出そうとした。
しかし、出なかった。
声が、言葉の形を成す前に、喉の途中で完全に凍りついたように動かなくなる。
──なぜだ。なぜ言葉が出ない。
アルシードは内心で激しく動揺した。 物理的な障害は何もない。壁の向こうの『茨』たちの殺気による圧迫のせいでもない。
ただ、目の前の少女に、偽装でも虚飾でもない、心からの賛辞を贈ろうとしたその瞬間、己がこれまで使ってきたあらゆる洗練された台詞が、あまりにも軽薄で、嘘臭いものに思えてしまったのだ。なぜ、たかが偽装婚約者の、気安い年下の少女相手に、これほど言葉の重みに魂が縛り付けられねばならないのか。この胸の奇妙な締め付けは何だ。アルシードは己に起きた謎の異変に、ただただ冷や
汗を流し、困惑するしかなかった。
「閣下……? どうかなさいましたか?」
スプーンを握ったまま、不思議そうにこちらを覗き込んでくるメリッサ。
かつて帝国の夜を支配した男は、胸中の得体の知れぬ混乱に言葉を詰まらせたまま、至高の空回りを演じることしかできなかった。
無言のまま、額に微かな汗を滲ませて硬直するアルシードの様子に、メリッサはただごとではない気配を察したらしい。あれほど視線を吸い寄せられていた硝子の器から、未練なくすっとスプーンを離し、テーブルの上へと静かに置いた。
「閣下、本当にどうかなさいましたか? お顔の色が良くないわ。もしかして、どこかお体が悪いのではないかしら……」
メリッサの瞳に、からかいの風情は微塵もなかった。そこにあるのは、素の自分を晒し合える唯一の同盟相手に対する、純粋で、かついささか無防備すぎるほどの深い憂慮であった。
彼女は椅子から静かに立ち上がると、テーブルを回り込み、迷うことなくアルシードのすぐ隣へと歩み寄ってきた。
ふわり、と、宮廷の人工的な香水とは一線を画す、白薔薇の生花のように清廉な香りがアルシードの鼻腔をくすぐる。ただでさえ得体の知れぬ胸の動悸に混乱していた大公の横に、その至近距離の美貌が寄り添うように位置した。
「まあ、こんなに汗をかかれて。やっぱり、少し疲れが溜まっているんだわ。無理をしてはいけないわ」
メリッサは衣服の袖から白雪のような絹の布を取り出すと、躊躇うことなくその小さな手を伸ばし、アルシードの額に優しく布を当てた。
凍りついたように動けないアルシードの額を、柔らかな絹の感触と、それを操る彼女の指先の微かな体温が、丁寧に、そっと撫でていく。至近距離で見つめてくる、透き通ったブルーの瞳の魔力。
───しまっ、た。
アルシードは内心で絶叫した。
計算された色香や、宮廷の夜に転がる妖艶な誘惑であれば、彼は理性という盾をいつも通り維持したまま、流麗な手腕でその場を支配できたはずであった。それが「稀代のプレイボーイ」と呼ばれた男の絶対的な防壁であった。
しかし、目の前の少女から放たれているのは、邪念が完全に削ぎ落とされた、無垢なる善意の破壊力であった。防壁を張る大義名分すら奪われた至近距離の接触に、アルシードの洗練された思考回路は完全に停止した。
それどころか、彼女の指先が触れるたびに、胸の奥底の暗闇から、今まで知る由もなかった獰猛な何かが鎌首をもたげるのを感じていた。それは、この無防備な少女をどうにかしてしまいたいという、形を成さない、しかし圧倒的な熱量を持った、恐るべき衝動であった。
───なぜだ、なぜ俺は、この気安い年下の少女を前にして、これほど野蛮な感覚に支配されている。
己の内に芽生えた感情の正体が、真実の情愛であるとは夢にも思っていない。それゆえに、アルシードは自らの内に潜んでいた、制御不能な「雄としての本能」の不埒さに、激しい恐怖と罪悪感を抱いていた。紳士としての矜持を保ち、彼女の純粋な信頼を裏切ってはならないと、彼は命がけで五体の理性を繋ぎ止める。
いつもならば社交界の張り詰めた神経を解きほぐしてくれる筈の聖域が、今や、一瞬でも気を緩めれば天地がひっくり返る極限の試練場へと変貌していた。
拭われれば拭われるほど、彼女の指先が触れるたびに、理性の戦慄による新たな冷や汗が溢れ出してくるのを止められない。かつて帝国の夜を支配した男は、ただ隣で己を覗き込む可憐な白薔薇の存在感に圧し潰され、これ以上ないほどに、己の肉体の反逆と空回りに戦慄するしかなかった。
これ以上、彼女をこの距離に留めておくわけにはいかない。
アルシードは崩壊しかける理性の残滓を必死に繋ぎ止め、社交界で磨き抜いたはずの美貌に、今や引き攣った微笑みを貼り付けた。
そして、己の額を拭っていたメリッサの、白く柔らかな手首をそっと、しかし確実に掴んだ。
指先に伝わる、驚くほどに華奢な骨格と、吸い付くような肌の温もり。
メリッサの本性を知る前、美しき帝国の華として彼女を籠落させようとしていた頃の彼ならば、手首を捕らえることも、そのまま滑らかに唇を寄せることも、あるいはその細い腰を抱き寄せることも、すべては息をするのと同じ流れるような動きで行えていたはずであった。当時は「女性を口説き落とす」という明確な目的が彼の側にあった。
それなのに、今はどうだろうか。ただの気安い同盟相手の、無垢な看病の手を制しただけで、己の理性が木端微塵に砕け散りそうなほどの動転に突き落とされる。この圧倒的な不条理に、アルシードは内心で激しく戦慄していた。
そのまま、彼女の腕を優しく引き離すようにして、物理的な距離を取った。
「……いや、大丈夫だ。少し部屋の熱気がな」
掠れそうになる声を辛うじて大公の品格で調律し、アルシードは言葉を絞り出した。
手首を解放されたメリッサは、しかし、まだ心配そうにアルシードのすぐ隣に佇んだままであった。
「本当に……? 嘘だわ。そんな引き攣ったお顔、見たことがないもの」
メリッサのブルーの瞳には、まだ深い憂慮の色彩が濃厚に居座っている。彼女は何かを思いついたように小さく頷くと、テーブルの傍らに置かれた真鍮の呼び鈴へと手を伸ばした。
チリン、と静まり返った個室に澄んだ音が響く。
「給仕を呼びました。冷たいお水か、それとも温かいお飲み物を持ってきてもらいましょう」
格式高い老舗の給仕は、呼び鈴の音に対して寸分の遅れも許さない。
メリッサがまだアルシードのすぐ傍ら、肌を寄せ合うほどの至近距離に佇んでいるその最中に、静かに、しかし迅速に扉が開け放たれた。
入ってきたのは、先ほどメリッサの可憐な一撃によって林檎のように顔を赤く染めて逃げ帰った、あの若き給仕であった。
「失礼いたし、ま──」
若者の言葉が、途中で完全に氷結した。
彼が目撃したのは、椅子の上の大公閣下を、帝国一の美女がすぐ隣から覗き込み、未だただならぬ空気を濃密に纏い合っているという、あまりにも不敬で、かつ過激なほどに美しい光景であった。
若者の脳内は、言葉にできないほどの衝撃で一瞬にして白く染まった。大公閣下の額に滲む大量の汗。それを案ずるかのように寄り添う伯爵令嬢。これぞ宮廷の夜を彩る、秘められた情愛の極致に違いない──。
給仕は見る見るうちに顔面を真っ赤に沸騰させ、おそれ多くもその場に卒倒せんばかりの仰天を必死に押し殺した。老舗の給仕としての矜持だけで辛うじて両足を動かし、震える手で冷徹なまでに冷えた銀の受け皿から水をテーブルへと置く。
「お、お待たせ、いたしました……っ」
声の震えを隠しきれぬまま、若者は再び逃げるように、しかし格式高い身のこなしを維持したまま、そそくさと退室していった。
パタン、と扉が閉まる。
再び訪れた静寂の中で、アルシードは差し出された冷水を一気に喉へと流し込んだ。痛烈な冷たさが全身の熱を冷ますように染み渡り、彼をようやく大公としての冷徹な現実へと引き戻していく。
給仕の再入室という世俗の介入によって、アルシードは辛うじて落ち着きを取り戻し、乱れた衣服の襟をそっと直した。
「心配をかけたね、メリッサ嬢。もう大丈夫だ。君の手厚い看病のおかげで、すっかり良くなった」
アルシードはいつもの優雅な微笑を完璧に作り直し、隣に佇む彼女へ向けて、心からの感謝を込めて告げた。その穏やかな声音にようやく安心したのか、メリッサは「それなら良かったわ」と小さく息を吐き、静かにテーブルの向こう側、己の席へと戻って腰を下ろした。
対面に座る彼女の姿を確かめ、アルシードは社交界で磨き抜いた余裕の笑みを湛えながら、硝子の器を指先で示した。
「さあ、溶けないうちに食べるといい。君のために特別に作らせたものだからね」
「ええ、では……遠慮なくいただきます!」
待ってましたとばかりに、メリッサは再びスプーンを手に取った。
何層にも重ねられた特製のクリームと果実、長年彼女が渇望してきた至高のタルトの記憶すら超えるような、職人が意匠を凝らした至高の甘味を、スプーンですくい上げて口へと運ぶ。
一口食べた瞬間、メリッサのブルーの瞳が、まるで夜空に瞬く星々のように鮮烈な輝きを放った。陽光を浴びた白雪のごとき頬が蕩けるように緩み、これ以上ないほど幸福な、素の感情がその美貌に溢れ出す。
「……っ、ん、美味しい……! 閣下、これ、ものすごく美味しいわ!」
深窓の令嬢としての仮面など、特製のクリームの甘美さの前に跡形もなく霧散していた。小さな肩を震わせ、目の前の美味に対する純粋無垢な歓喜を爆発させるその姿は、あまりにも愛らしく、あまりにも無防備であった。
さっきまでの得体の知れない獰猛な感覚は、どうにか理性の底へと押さえ込んだはずであった。それなのに、目の前で楽しそうにパフェを味わう少女の破格の愛らしさを前にして、アルシードはまたしても胸の奥がくすぐられるような錯覚を覚え、思わず口元を綻ばせて苦々しい笑みを漏らした。
「それは良かった」
「ええ、果実の酸味とこの濃厚なクリームの調和が、本当に素晴らしいわ。前回のタルトも絶品だったけれど、こちらも甲乙つけがたい口溶けで……」
嬉々としてスプーンを動かすメリッサと、他愛のない会話のラリーを交わす。
その穏やかな時間のただ中で、アルシードは自らの脳裏を支配していた先ほどの異常な動転について、大真面目に理由を並べ立てていた。
(そうだ。さっきのは、単なる気のせいに過ぎない)
ここ半月ほど、領地での政務やハインリヒ公爵家との不毛な暗闘が続き、己の肉体は思いのほか疲弊していたのだ。過度な疲労が脳を狂わせ、ただの気安い偽装婚約者であり、年下の少女である彼女の看病に対して、一瞬だけ奇妙な錯覚を抱いてしまっただけだ。それ以外の理由はあり得ない。
アルシードは、いつもの洗練された完璧な大公としての自分を守るため、胸の奥底に眠る真実の感情の正体を暴くことを、頑なに、全力で拒否していた。自らの心の迷宮に蓋をし、これがただの「業務」の延長であると己に言い聞かせながら、彼はこの無自覚な聖域の心地よさに、ただ深く身を委ねるのだった。
やがて至高の甘味をすべてその身に納めたメリッサは、硝子の器が空になると同時に、小さく満足の吐息を漏らした。
そして立ち上がると、一瞬にして『ガラルディア帝国一の美女』、完璧なる深窓の令嬢としての可憐な仮面をその顔に貼り付けた。──はずであった。しかし、特製の聖杯パフェがもたらした至福の破壊力は、あまりにも絶大であった。お淑やかに微笑むその横顔には、内側から隠しきれずに溢れ出る、蕩けるような幸福の余韻が濃厚に漂ってしまっていた。
その、あまりにも満ち足りた情愛の気配を纏うメリッサを伴い、アルシードは個室の重厚な扉を開け、回廊へと足を踏み出した。
直後、廊下の二人席にどっかと陣取っていた、帝国最高峰の武力を誇る、大将軍ガルフォードと将軍ゲラルトの巨体が、落雷に打たれたかの如く硬直した。
二人の将軍の鋭い眼光が、愛しき孫娘、そして娘の顔に浮かぶ「かつて見たこともないほど幸せに蕩けた表情」を捉える。
──個室の中で、一体何があったのか。
オルブライト家の二人の巨頭から放たれたのは、言葉なき漆黒の暴風であった。「我が家の至宝に、いかなる不埒な所業を働いたのだ」という、凄まじい質量を持った殺気が、見えない大槌となってアルシードの全身を殴りつける。
先ほどまでの自己欺瞞の平穏は一瞬にして消し飛び、アルシードは「そうだ……外にはこの茨たちが控えていたのだった」と、現実の不条理を突きつけられ、途端にげんなりとして胃の辺りをきつく押さえた。
さらにテーブルの影では、先ほど「ただならぬ雰囲気」を目撃してしまったあの若き給仕が、退室してきた二人を見て、激しい動悸に顔を真っ赤に染めて縮こまっていた。
「……若者よ。少し良いかね」
二人が歩み去った後、ガルフォードとゲラルトは、若き給仕を静かに呼び止めた。
その口調は、あくまでも「愛しき娘は、大公閣下と睦まじくやっていたかね?」と、二人の仲を穏やかに応援する、慈愛に満ちた祖父と父親のそれであった。表向きの包装紙は完璧な紳士のそれであったが、その背後に渦巻く殺気は、若者を蛇に睨まれた蛙の如く震え上がらせるに十分であった。給仕は先ほど目撃した「二人が至近距離で額を寄せ合っていた」という情愛の極致を、涙目で白状させられる羽目になった。結果としてオルブライト家の男たちの脳内暴走を致命的な領域へと加速させることとなる。
そんな後方の破滅的連鎖を知る由もないアルシードであったが、受難は店の外でも待ち受けていた。
レストランの出入り口を精鋭ごと完全包囲していた近衛騎士隊長シグルドが、店から出てきたメリッサの、あの蕩けるような美貌を目撃した瞬間、その端正な顔面を驚愕と絶望に歪めた。
実の兄としての直感が、「妹が、あの誠実な大公の魅力によって、ついに芯から心を動かされ、未知の幸福に染め上げられている」と大真面目に誤認したのだ。相手が不埒な害虫であれば、ただ排除すれば済む。しかし、己も一度はその真摯な矜持を認めてしまった男だからこそ、いよいよ妹の心が奪われかけているという現実は、シグルドの胸に最も恐るべき戦慄として突き刺さった。
シグルドの瞳から一瞬にして光が消え、妹の尊厳と純潔を守るという絶対正義の『茨』としての冷徹な殺意が、抜剣せんばかりの鋭さで大公を貫く。
背後からは二代の将軍の漆黒の嵐、正面からは近衛騎士隊長の絶望の殺意。その全方位からの理不尽な圧迫に血の気を失いながらも、アルシードは指先一つ、眉一つ動かさない。流れるような優雅さで馬車の扉を開け、メリッサのドレスの裾を気遣いながら、まずは彼女を車内へと完璧にエスコートした。
そして、彼女が乗り込んだのを見届け、自らも車内へと入り、重厚な扉が閉ざされた瞬間──。
外からの視線が完全に遮断された刹那、稀代のプレイボーイと呼ばれた男は、張り詰めていた糸が切れたかのように、座席の壁へと力なくもたれ掛かった。一月ぶりの逢瀬に無自覚な歓喜を抱き、己の謎の動転を「過労」と言い聞かせた大公は、ただただ胃を突き刺す激痛に耐えかねて深く背もたれに沈み込み、現実の不条理さに人知れず白目を剥く羽目になるのであった。




