表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
麗しの薔薇には棘がある  作者: 夢羊
麗しき薔薇の真実、その目覚め
PR
36/48

夜明けの黒薔薇、茨に囚わる


 あの宮廷での騒動から数日という短くも永い歳月が、静かに流れ去っていた。


 大公邸の最奥に位置する執務室には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。机に向かうアルシードの表情は、ここ一月近くのそれとは、劇的な変化を遂げていた。


 胸を重く支配していた澱のような靄が一瞬にして晴れ渡り、まるで分厚い冬の雲の隙間から、一条のまばゆい光が差し込んできたかのような、そんな理屈を超えた極上の安堵が彼の心を満たしている。


 すべての発端は、数分前のことであった。



「閣下! 閣下、メリッサ様からの返書が届いておりますよ!」



 部屋の扉を開け、まるで我が身に起きた国家の慶事であるかのように歓喜の色彩をその身に纏い、全身から喜びを弾けさせて入ってきたのは、大公家筆頭秘書官であるハンスであった。 


 主君の焦燥を日夜案じていたこの忠義の秘書官は、手にした一通の封書を、まるで世界で最も価値のある至宝であるかのように、恭しく天高く掲げていた。


 その瞬間、アルシードの心臓がどくりと大きく跳ねた。


 これまでの長い一月近くの間、待てど暮らせど届かなかった、可憐な白薔薇からの音沙汰。嫌われたのか、軟禁されているのかと己の不徳を呪い続けた日々に、ついに終わりが告げられたのだ。


 溢れ出しそうになる言葉にならない救いを、しかし、アルシードは大公としての、そして稀代のプレイボーイとしての虚勢を以て、抑え込んだ。



「……ああ、ハンスか。そこに置いておいてくれ」


 アルシードは至高の鉄面皮を維持し、何でもないような平然とした顔で羽ペンを置き、差し出された封書を受け取った。指先がほんの微かに震えていることなど、自分では完璧に隠せているつもりであった。


 大公の手元に収まったのは、オルブライト伯爵家の気品ある蝋印が押された、可憐な薄紅色の便箋。


 彼を見守るハンスは、主君が封を切る手元の所作をじっと見つめながら、その胸中でじわじわと、熱い確信を膨らませていた。



(ああ……普通を装っておられますが、閣下の手元はいつもよりほんのわずかだけためらいがある。愛するメリッサ様からの言葉を前にして、あえて大公としての冷静さを保とうと必死に自制しておられるのだ……。なんと健気で、なんと不器用な主君でしょうか……!)



 ハンスの脳内恋愛フィルターがじりじりと温度を上げていく中、アルシードはそっと封を切り、中に美しく綴られた文字へと目を走らせた。



(……なるほど。前回のタルトの、チョコレートと果実の比率が忘れられず、次の逢瀬を首を長くして待っておいでだった、と。……それだけ、か?)



 そこには、ただ純度百パーセントの、至高の美菓という名の「餌」を渇望するじゃじゃ馬令嬢の、大真面目なお転婆心がこれでもかと丁寧な宮廷言葉で綴られていた。


 あまりにも直球な食いしん坊ぶりに、アルシードは思わず、本日二度目の、しかし今度は酷く脱力した溜息を静かに零す。


 だが、その溜息の直後。

 大公の整った唇の端が、ふっ、と、これまでにないほど緩やかに持ち上がった。


 それはかつて数多の婦人を惑わせた不実な笑みなどではない。己を飾り立てる必要のない、あの騒がしくも妙に心地よい空間を思い出し、胸の奥底からじんわりと湧き出た、ひどく安らいだ苦笑であった。


 その瞬間、じわじわと加熱していたハンスの脳内恋愛フィルターが、ついに限界突破の大爆発を起こした。


 主君の無自覚な恋の蕾の綻びを、この有能な秘書官の眼差しだけは、恐ろしい精度で正確に捉えていた。



(──アッーーーーーーー!!! 見ました! 私は今、神話の夜明けの如き歴史的奇跡を目撃いたしました!! ああ、なんという深く、優しく、すべてを包み込むような微笑みでしょうか! 溢れんばかりの純愛が、大公としての氷の仮面を完璧に溶かし尽くしてしまわれた! メリッサ様、あなたの一通の書状が、我が主の魂をこれほどまでに救い、無上の安らぎを与えているのです! ああ、なんと清らかな、なんと至高の真実の愛でしょうか……!!)



 ハンスは胸の中で涙を流して五体投地し、もはや拝むような、あまりにも熱烈な眼差しでアルシードを見つめていた。主君の苦笑が、ただ「メリッサのあまりのお転婆っぷりへの呆れと安らぎ」から出たものだという現実には、微塵も気づくことなく。


 筆頭秘書官から放出されるあまりの熱視線に、アルシードは背筋に言い知れぬ居心地の悪さを覚え、慌てて「……ハンス、次の逢瀬の準備を進める。手配を」と、努めて厳格な声を張り上げるのだった。



 それからの数日間、大公邸の従僕たちは一様にある奇妙な現象に首を傾げていた。


 執務室に籠る主君アルシードの横顔が、ここ一月近くの冷徹な険しさを完全に拭い去り、どこか春の陽だまりを思わせるほどに、隠しきれない穏やかな気配を漂わせていたからである。


 もちろん、本人はただ「偽装婚約の維持という公務が円滑に進む安堵」であると大真面目に自分を納得させていた。一月ぶりに、あの飾らない笑顔を見せてくれる少女に会えるという事実に、己の胸がこれほどまでに高鳴っているなど、大公としての誇りが認めるはずがなかった。


  *  *  *


 朝の柔らかな光が街を包む頃、洗練された仕立ての馬車を駆り、アルシードはオルブライト伯爵邸の門前へと到着した。


 馬車の扉が開き、そこへ姿を現したメリッサの顔を見た瞬間、アルシードの胸の奥の、本人すらあずかり知らぬ場所で、無自覚な救いが完璧に満ちていく。


 表向きは完璧な帝国一の美女として、可憐で儚げな微笑みを浮かべるメリッサ。その中身は絶品美菓を楽しみにしているという渇望で満ちていたが、大公の目には、ただただ純粋な輝きとして映っていた。


 さらに驚くべきことに、門前にはいつもアルシードに向けて凄絶な殺気を放ち監視していた、あの物騒な男たちの姿が一人として存在しなかった。


 代わりに二人を上機嫌に出迎えたのは、重度の少女趣味を誇る母親ジゼルであった。



「まぁ……大公閣下、本日も大変麗しいお姿でいらっしゃいますこと」



 口調はどこまでもいつも通り、完璧な宮廷のエレガンス。けれど、その瞳の奥の熱量はどこか夢見がちであった。ジゼルは上品な扇で口元を隠しながら凄まじい妄想を膨らませて、アルシードを穴が空くほどじーーっと見つめている。


(皇太子をメリッサへの愛ゆえに滾らせた怒りで踏み潰した高貴なる黒薔薇の騎士…!ああ、素敵!!実際にそのお姿をこの目で見たかったわ…!!)』


 これまでにない「全肯定の、けれど熱すぎる視線」に、アルシードは(な、なんだ……? なぜオルブライト家の人間は、こうも視線の圧が凄まじいのだ……!?)と、男たちの殺気とは全く異なる異質な気配に気圧される。いかなる修羅場をも不敵に笑うはずの大公は、その得体の知れない熱量に困惑を禁じ得ず、珍しく言葉を濁して狼狽を隠せぬ様を晒してしまった。


 そんな大公の困惑をよそに、ジゼルはうっとりと両手を頬に当て、夢見がちな情熱で二人を促す。



「うふふ……どうぞメイを情熱的で優雅なデートへと連れ出して差し上げてね。ああ……!」



 ジゼルののんきな見送りに、アルシードはますます困惑を深めながらも、どうにか「お手をどうぞ、メリッサ嬢」と、かつてないほどに滑らかなエスコートで彼女を馬車へと迎え入れた。独特な気配を纏う夫人の圧に戸惑いはしたものの、自身も馬車へと乗り込み、走り出した車輪の音と共に、その不思議な緊張はすぐに脳裏から消え去っていった。


 遮蔽された空間の中で、馬車が滑らかに走り出す。


 門前でのジゼルが放った独特な圧力に、アルシードは消えない不可解な困惑を、微かな動揺の残滓として引きずっていた。



(先ほどの、あの方の眼差しは何だったのだ……。あまりにも異様な、底知れぬ熱を孕んだ視線であったな……)



その、年上の大人としての完璧な虚勢に僅かな綻びが生じているアルシードの様子を見て、メリッサがふふっとお転婆に笑い、気易いトーンで語り出した。



「お母様はロマンス小説好きでいらっしゃるから、閣下と私の偽装婚約を、それはもう理想の物語のように楽しんでいるみたい。……それより閣下」



 メリッサは少し声を潜め、四通目の書状に綴られていたアルシードの真摯な懸念に対し、心からの美しい感謝を伝えてくる。



「この一月近く、逢瀬が途絶えてしまいましたから、閣下は周囲への世間体を深く案じてましたのね。契約上の義務にそれほど真摯でいらっしゃるのに、あのような書状で私の体調まで細やかに気遣ってくださって……。閣下は、存外にお優しい方なのね。ありがとうございます」



 その言葉が耳へと滑り込んできた刹那、アルシードの胸の奥底に、形容しがたい奇妙な不協和音が響き渡った。あるいは、彼の洗練された知性が、メリッサの紡いだ言葉の中に明確かつ致命的な論理の齟齬を瞬時に検知した、と言ってもよかった。



 (お忙しかった……? 逢瀬が途絶えたのは、俺が手紙を送らなかったからではない。毎週、不備なくきっちりと書状を送り続けていたはず。なぜメリッサ嬢は、まるで私がこの一月間で『四通目の一通しか手紙を寄こさなかった』かのような口ぶりなのだ。届いていない? いや、そんなはずは──)



 アルシードは内心の激動を完璧な仮面の下に覆い隠し、いたって普通を装った声をどうにか絞り出した。



「ああ、……いや、元気そうでなによりだ」


「閣下はお身体は? 疲れていないかしら?」



 小首を傾げて純粋に自分の身を案じてくれるメリッサ。その透明なブルーの瞳を見つめた瞬間、アルシードの中で違和感が決定的な疑惑へと変貌を遂げた。



(……待て。世間体や契約上の義務を盾にした、彼女の身を気にかけた、あの四通目の書状。確かに彼女はその内容に対して感謝を述べている。では、それ以前に送ったはずの三通の存在はどこへ消えた? 彼女の言葉からは、一通目から三通目の存在そのものが綺麗に欠落している。届いていない? いや、宮廷の公式伝令網が三度続けて私信を紛失するなどという致命的な不手際、確率として有り得ない。……何者かが、意図的にこの連絡網のどこかを堰き止めているとしか──)



 その瞬間、アルシードの脳裏に、根拠もなく、しかし妙に鮮明な一人の男の顔が浮かんできた。


 メリッサと同じ神秘的な白銀の髪を揺らし、先日も宮廷の回廊で『妹は非常に穏やかに過ごしておりますよ』と冷然といなしてみせた、宰修補佐であるヴィンセント。


 アルシードの脳裏に浮かぶその姿は、宮廷で見せる聖者のような仮面などではなく、それはもう、冷徹なまでの知略を優雅に隠した、底意地の悪そうな洗練された微笑を浮かべていた。



(いくら何でも、あの生真面目な男が、国家の公権力をあのような私的な過保護のために私物化するわけが……。だが、待て。……いや、……あいつならやりかねない……!!)



 ジワリと背筋に冷や汗が伝わる。アルシードが「メリッサ嬢、君はもしや……」と真相を確かめようと身を乗り出した、まさにその刹那であった。


 メリッサがパッと瞳をらんらんと輝かせ、実にお転婆なトーンで声を弾ませた。



「それより閣下! 本日の美菓は一体どのようなものなのかしら!? 前回の、あのチョコレートと果実の比率が完璧だった絶品タルトが忘れられなくて、今日を本当に首を長くして待っていたのよ!」



 あまりにも直球な食いしん坊心によって、冷や汗の推理を完全に強制終了させられたアルシードは、呆れつつも胸の奥底からじんわりと湧き出るような、酷く安らいだ苦笑を漏らすのだった。



「期待に応えられるものを用意したつもりだ」



 そんな飾らない掛け合いを愉しむうちに、馬車はあらかじめ予約していた高級レストランの前へと静かに停車した。


 扉が開き、この上なく満ち足りた上機嫌な気配をプレイボーイの仮面の下に隠しながら、アルシードは先に軽やかな足取りで降り立った。一月ぶりの完璧な逢瀬、完璧なエスコートを、一人の男としての矜持のままに遂行するために。


 ──だが、その至高の高揚感が、一瞬にして絶対零度の絶望へと反転するのに、一秒の猶予すら必要はなかった。


 馬車から降り立ち、何気なくレストランの周囲へと視線を巡らせた瞬間、アルシードの全身の血の気が、一瞬にして完璧に引き去っていった。


 レストランの入り口付近。そこには、完璧な正装に身を包んだ『近衛騎士隊の精鋭』たちが、高位貴族とその婚約者の護衛という名目で、威圧感を放って物々しく居並んでいたのだ。


 先ほどの馬車内での推理など生温いと言わんばかりに、最悪の形で目の前の現実が突きつけられていた。アルシードはメリッサをエスコートするために機械的に手を差し出しながらも、その視線は居並ぶ近衛騎士たちに完全に釘付けになり、背筋に冷たい汗が流れた。


 大公が身体を硬直させていると、精鋭たちの先頭から、白銀の飾緒を揺らした近衛騎士隊長であるシグルドが厳格な足取りで前へ出た。周囲に響き渡る凛々しい声で、彼は一切の迷いのない号令を響かせる。



「──総員、敬礼!大公閣下、およびオルブライト伯爵令嬢の御前である。蟻一匹這い出る隙間も残さぬよう、周囲の厳戒警備を徹底せよ」



 騎士たちが一斉に剣を捧げて敬礼する中、シグルドはアルシードに対し、非の打ち所のない完璧な騎士の礼法を以て声をかけた。



「大公閣下、本日は我が近衛騎士隊が、閣下の不測の事態に備え、完璧なる護衛を敷かせていただきます。どうぞ、ご安心の上、奥の個室へお進みください」



 丁寧な敬語の裏に隠された「お前の逃げ道はない」という凄絶な牽制を前に、アルシードの胸の奥で、かつての記憶が不器用に揺らぐ。



(……嘘だろ。あの夜、妹を想うがゆえに独り静かに思い悩んでくれていた、あの高潔で思慮深かったシグルドは一体どこへ行ったのだ……? 茨の気配を消し、静かに佇んでいたあの兄の姿は……俺が勝手につなぎ合わせた、ただの都合の良い幻だったというのか……?)



 絶対正義のロジックの前に迷いを捨て、いつもの過保護な防衛網へと完全復帰したシグルドの、どこまでも据わった透明なブルーの瞳を前に、アルシードは喉まで出かかった溜息を必死に胸の奥へと飲み込み、強張る手元をどうにか隠した。


 そんな大公の内心の絶望など露知らず、馬車から軽やかに降りてきたメリッサは、透明なブルーの瞳を輝かせた。



「あら、お兄様? 本日はこちらで公務をしていらっしゃいましたのね。やはり、職務にあたっていらっしゃるお兄様のお姿、とても素敵ですわ」



 ガラルディア帝国の最高武力を担う近衛の制服を纏い、あまりにも凛々しく号令をかける兄の佇まいは、妹であるメリッサの目にはこの上なく誇らしく、まばゆいものとして映っていた。大好きな兄と思わぬ場所で出会えた純粋な喜びを、彼女は何の疑いもなく、その可憐な微笑みへと変えて声を弾ませていたのだ。


 メリッサにそう微笑みかけられた瞬間、シグルドの据わっていた瞳の奥が、限界まで優しく和らいだ。大公へ向けた刃のような緊張感を完璧に隠し、妹へ向けてだけ、品格を保ったままの極上の甘い声を紡ぐ。



「ありがとう、メリッサ。我が誇り高き白薔薇の歩む道を護ることこそ、この兄にとって最大の誉れ(公務)だからね。……さあ、中へ。冷えないうちに、君の好む温かな美菓を存分に愉しんでおいで」


「ええ、お兄様、行ってまいりますわ」



 嬉しそうに頷くメリッサの横で、アルシードだけが、消え去った幻影の優しさを呪いながら、さらなる冷や汗を流して店内へと進むことになった。


 だが、恐怖の二段構えがそこで待ち受けていた。予約していた個室にほど近い二人席へと視線をやった瞬間、大公は二度目の、そこで決定的な戦慄を覚えることとなった。


 そこには、椅子に腰掛けたまま、ギチギチとした凄絶な品定めを放っている、大将軍であるガルフォード、および将軍であるゲラルトの二人が、大真面目な顔でどっかと座っていたのである。


 予感が完璧な確信に変わる。



(やはり、オルブライト家の男たちは、最初からこの逢瀬を包囲するつもりだったのだ…………!)


 アルシードが人生最大の安保危機に直面する中、横を歩くメリッサが、再びパッと瞳を輝かせて小さく首を傾げた。



「あら? お祖父様にお父様まで?」



 大好きな家族にここでもバッタリ遭遇できた奇跡に、なんだか嬉しそうに声を弾ませるメリッサ。その純度百パーセントの善意の笑顔の横で、アルシード大公だけが、完璧に置いてけぼりのまま、冷や汗の迷宮の底へと叩き落とされるのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ