黒薔薇の棘、綻びの茨
宮廷からの帰路、馬車に揺られるヴィンセントの胸中には、未だに不快極まりない煤がくすぶっていた。 思い出すのは、あのたわけた皇太子の下劣な笑い声と、我が家の至宝を汚す妄言の数々である。
(……浅ましい。実に見苦しく、虫酸が走る。あのような俗物がガラルディア帝国の皇位を継ぐなど、国家の損失以外の何物でもありませんね。いっそ公務の失敗をいくつか仕込み、社会的に再起不能なまでに叩き潰して差し上げましょうか。そのための算段を整えるのは容易いことですが……)
冷徹な思索を脳内で転がしながら伯爵邸の門をくぐったヴィンセントは、上着を脱ぐなり、ちょうど帰宅したばかりの兄、シグルドの姿を捉えた。
ヴィンセントは完璧な笑みを消し、酷く据わった目で兄へと歩み寄る。
「兄上。少々、よろしいですか。……メリッサの耳には、決して入れぬように」
そのただならぬ気配を察したシグルドは、無言で頷くと、弟を自身の個室へと連れて行った。
密室の中で、ヴィンセントは宮廷の回廊で起きたジュリアンの暴挙を、冷徹な言葉で淡々と報告した。それを聞いたシグルドの透明なブルーの瞳に、凄絶な騎士の殺気が爆発する。
「──あのたわけが。我が近衛の剣で、その不浄な首を撥ねてやろうか…!!」
シグルドが拳を握りしめ、部屋の空気が一気に戦場のごとき緊迫感に包まれた、まさにその時であった。
床を鳴らす重々しい足音が響き、部屋の扉が勢いよく開け放たれる。国家最高峰の武力を担う、大将軍ガルフォード、そして将軍ゲラルトが、凄まじい威圧感を放ちながら帰宅したのだ。
「シグルド、ヴィンセント! 宮廷で何やら不穏な動きがあったと聞いたが、真か!」
大将軍ガルフォードが吠える。シグルドはすぐに姿勢を正して直立不動の完璧な軍礼を執り、氷のような眼差しを向けたまま、毅然とした声で両将軍へ報告を始めた。
皇太子の低俗な妄言について詳細を語ると、両将軍の顔は怒りで真っ赤に染まり、オルブライト家の茨の怒りが一瞬にして部屋を焼き尽くさんばかりに燃え上がる。
だが、ヴィンセントはそこで、眼鏡の奥の目を細め、渋々ながらも先ほどの始末を付け加えた。
「……ですが、ご安心を。その外敵ですが、ベルンシュタイン大公が完璧な品格と圧倒的な威圧を以て叩き潰し、矯正いたしました。大公のすべての権能を賭して我が婚約者の名誉を守ると、身を挺して皇太子を撃退されたのです。……認めざるを得ないのが非常に癪なのですが、実に、見事な防波堤でございました」
その報告に、男たちは一転して、重苦しい沈黙と峻烈な葛藤の渦へと突き落とされた。
先日の逢瀬ではシグルドが、そして本日の宮廷ではヴィンセントが、それぞれ大公の「本物の誠実さ」と、メリッサの尊厳を命懸けで守り抜く矜持をこの目で目撃したのだ。
ただの不実なプレイボーイであれば、いくらでも害虫として冷徹に駆除できた。だが、彼が見せたのは、大公としての、そして一人の男としての、一点の曇りもない真摯な覚悟。
排除すべき不埒な敵なのか。それとも、我が家の至宝を真に託すに値する、認めるべき男なのか。
国家の命運を左右する国家最高峰の武人たちが、一人の少女の幸福のために、今、人生で最も重く深い思索に沈んでいた。
「……大公が、身を挺してメイを守ったか」
「……己のすべてを賭して白薔薇を守ると、そう言ったのだな」
「はい。あれは……嘘偽りのない、本物の矜持でございました」
腕を組み、唸るように大真面目な顔で大公への警戒を強める男たち。しかし、その張り詰めた空気を切り裂くように、部屋の入り口からパチパチと優雅な拍手が響いた。
母ジゼルが、重度の少女趣味を全身から爆発させながら、目を輝かせて立っていたのだ。
「………なんて素敵なお話なのかしら! 大公閣下が我が家のメイのために、皇太子を相手にそれほど凛々しく憤ってくださるなんて! 帝国一の美男美女が織りなす、本物の、真実の恋物語ね……! 矜持を賭けて守るだなんて、ときめきが止まらないわ!」
「母上、お静かに! 我らは今、国家規模の防衛戦術を……」
「戦術なんて野蛮なものはいいのよ! ああ、閣下がメイを情熱的に抱き締める未来が見えるようだわ……!」
「断じて許さん! 大公ごときが我が至宝を抱擁するなど、このゲラルトの目が黒いうちは一センチたりとも──」
大真面目に葛藤する男たちの怒号と、少女趣味を大暴走させるジゼルの黄色い悲鳴が入り乱れ、個室の中はもはや格調高いのかくだらないのか分からない、混沌とした叫びで満たされていた。
だが、まさにその時であった。
階下の玄関から、宮廷の公式伝令によって届けられた「四通目の書状」が、侍女の手によって二階へと運ばれてきたのは。
廊下から、部屋の中にまで響き渡るような、可憐で、そして嬉しそうな鈴を転がすような声が聞こえてきた。
「まぁ! 閣下からの書状だわ!」
その瞬間、個室の喧騒がピタリと止んだ。
オルブライト家の男たちは一瞬にして顔を見合わせると、ものすごい速度で、しかし音を一切立てずにドアへと殺到し、ほんの僅かに開けた隙間から、揃って廊下の様子を覗き込んだ。
そこには、届けられた上質な封書を手にし、満面の、ニコニコとした愛らしい笑顔を浮かべているメリッサの姿があった。
表向きは可憐な深窓の令嬢。中身は逞しいじゃじゃ馬。そのメリッサの脳内では今、大真面目にお転婆な食いしん坊心がフル稼働していた。
(待ってました! 閣下からのお誘いの書状が届いたのね! ああ、あのお口の中でとろけるような濃厚な美菓と、果実の比率が完璧だった絶品タルト……! やっと次のお誘いが来たわ…! ああ…今からとっても楽しみだわ!)
そんなメリッサの「タルトへの純粋すぎる渇望」など、茨の男たちが知るはずもなかった。
大公からの書状をあんなにも嬉しそうに、幸せそうに読んでいる我が孫、我が娘、我が妹の姿を目の当たりにし、ドアの隙間に密集した男たちは一斉に胸を掻きむしって悶絶した。
「メイが……メイが男からの書状をあんなにも楽しみに待っていたとは……!」
将軍ゲラルトは、メリッサがまだ小さかったあの頃の幻影を思い出し、胸を押さえて半泣きで崩れ落ちそうになった。
「あんなに、あんなに小さくて……『大きくなったら、お父しゃまのお嫁しゃんになるの』と、私の指を握って微笑んでいたあのメイが……! あのプレイボーイ大公の文面に、あんな聖母のような笑みを浮かべるなど……!!」
「父上、お気を確かに。すでに二十二歳です。当時の記憶を捏造するのはおやめください」
長男シグルドが、完全に据わった冷徹な目で父親を窘める。
しかし、大将軍ガルフォードもまた、鋭い眼光の奥に涙を滲ませて拳を握りしめていた。
「……認めん。書状一通で我が孫娘の心を惑わすとは、ベルンシュタイン大公、どこまで搦め手が得意な男か。……ヴィンセント、次の逢瀬は一体いつなのだ! 書面には何とある!」
「……分かりかねます。今回は閣下の矜持に免じ、私は書状を開封せぬままメイへ回させましたので、日付までは把握しておりません」
ヴィンセントの笑顔の奥の圧が、焦燥と共に研ぎ澄まされる。
逢瀬の日程が分からないからこそ、男たちの防衛本能は極限へと跳ね上がった。シグルドは腰の剣の柄に手をかけ、冷酷に言い放った。
「決まりだな。いつ外敵から接触があろうとも対応できるよう、明日から我が近衛騎士隊の精鋭、および将軍家の私兵を二十四時間常駐させる。ミリ単位の隙も与えぬ鉄壁の厳戒態勢だ。大公閣下に、我が家の薔薇を惑わせる隙など、一ミクロンたりとも与えはしない!」
メリッサの「タルトへの喜び」を「大公への恋煩い」と盛大に勘違いし、まだ見ぬ次回の逢瀬に向けて、国家の存亡を賭けるかのような大真面目さで物物しい迎撃態勢を敷く茨の男たち。
そんな彼らの大騒ぎを微笑ましく眺めながら。ジゼルはふふ、と扇で口元を隠し、この世の終わりかのような緊迫感をどこ吹く風と受け流し、のんきな一言を小さく零すのだった。
「あらあら……我が家の殿方たちは、今日も元気一杯ねぇ……」




