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暗愚の王冠、黒薔薇の逆鱗



 翌日、ガラルディア帝国の政治の中枢たる宮廷は、いつも通りの厳格な活気に満ちていた。


 大公としての責務を果たすべく出廷したアルシードは、豪奢な白大理石の回廊を歩む。その佇まいは非の打ち所のない気品を放っていたが、胸の奥底には、未だ音沙汰のない書状への懸念がおりのように沈んでいた。


 そんな彼の前に、向こうから一人の若き官僚が歩み寄ってくる。


 絹のように滑らかな白銀の髪を揺らし、非の打ち所のない完璧な宮廷の礼法を以て一礼したのは、やはりヴィンセントであった。



「大公閣下、御前を失礼いたします。本日も国家のためにその高貴なるお力を尽くされ、敬服の至りに存じます」



 聖者の如き慈悲深い微笑。そこに、大公からの公式書状を、宮廷の受付窓口で回収しては笑顔で焼却炉へと直行させている男の陰など、微塵も存在しなかった。


 アルシードは、偽装婚約の件がある手前、ごく自然な世間話を装って声をかける。



「……ヴィンセントか。公務、大過ないようで何よりだ。時に……メリッサ嬢は、変わりないか?」



 努めて平然を装ったが、プレイボーイの仮面を剥ぎ取られた大公の言葉には、隠しきれない微かな緊張が混じる。


 対するヴィンセントは、まつ毛の先すら揺らさず、いたって平然と、至高の笑顔のまま応じた。



「妹のことでございますか? ええ、おかげさまで、体調を崩すこともなく、毎日を非常に穏やかに過ごしております。閣下におかれましても、何もご心配なされるようなことはございませんよ」



 その言葉に嘘偽りはなかった。メリッサは何も知らず、のんびりと元気に過ごしているのだから。ただ、その穏やかな日々のために、大公からの全三通の書状がすべて宮廷の奥底で灰と化し、伯爵邸の門にすらたどり着いていないという事実を除けば、であるが。



「……そうか。ならば、良いのだ」



 アルシードは安堵しつつも、ならばなぜ一通も返書が届かないのかという、果てのない混迷の迷宮へと深く突き落とされるのだった。やはり、自分は嫌われてしまったのだろうか。



「では、私はこれにて。閣下、どうぞ良き一日を」



 ヴィンセントは再び完璧な一礼を捧げ、優雅な足取りで大公の傍らを通り過ぎていく。そして、アルシードの視界から完全に外れ、人気のない回廊の曲がり角へと差し掛かったその瞬間───。


 宰修補佐の完璧な宮廷スマイルが、ふっ、と消えた。


 整った唇の端が、冷徹極まりない、しかし酷く愉しげな弧を描く。



(何も心配などいりませんよ、大公閣下。妹は私の手元で、あなたの侵略から安全に守られています。……四通目の書状も、すぐに宮廷の焼却炉で美しく灰になるでしょう。どれほど高潔な誠実さを以て搦め手から惑わそうとも、我がオルブライト家の防衛網が破られることは、永遠にございません)



 友人からの熱烈な純愛報告を冷徹に利用し、何食わぬ顔で当の主君を翻弄する。


 オルブライト家の次男が秘める腹黒き冷徹さは、宮廷の影の中で、静かに、そして恐ろしく冴え渡っていた。


 のらりくらりとしたヴィンセントの態度に、胸の奥のモヤモヤとした苛立ちを募らせながら、アルシードが再び歩み出そうとした、その時であった。

 まさにヴィンセントが去っていった方向のすぐ先から、不愉快な喧騒が響いてきたのは。



「皇帝ともあろうお方が、この私に向かって公務の怠慢などと、あまりにも不条理な叱責ではないか! これではローゼンバーグ公爵の夜会での不覚を、未だに根に持っているかのように聞こえる!」



 憤慨を隠そうともせず、数名の取り巻きを引き連れて回廊をうろついていたのは、皇太子ジュリアンであった。


 出来の良すぎる従兄弟への激しい劣等感。そして実の父である皇帝からの痛烈な叱責。粉々に砕かれたプライドの八つ当たり先を求めるように、たわけたこの皇太子は、周囲の側近たちへ下劣な妄想を大声で吹聴し始めた。



「……だが、あの深窓の白薔薇も哀れなものよ。表向きは婚約者などと澄ましているが、中身はアルシードの権力に脅されたただの慰み物ではないか。おい、そうだろう?」


 低俗極まりない笑い声を上げるジュリアン。しかし、その言葉に付き従っていた取り巻きたちの笑顔が、一瞬にして凍りついた。 歩みを進めてきたアルシードが、冷徹な殺気を孕んでジュリアンの視界へと現れたからである。



「…………アルシード、か」



 天敵の姿を認めたジュリアンは、浅薄な嫌悪感を露わにした表情で身構えた。ローゼンバーグ公爵家の夜会での惨敗以来、初めての遭遇であった。


 皇帝に叱られた直後の苛立ちと、夜会の憎悪がジュリアンの理性を完全に焼き切っていた。身を翻すことすら忘れたジュリアンは、アルシードの顔を見るや否や、その唇を歪めて下劣極まりない卑屈な笑みを浮かべた。自尊心を満足させるために、身の程知らずの侮蔑を直接天敵へと投げつける。



「権力を翳して服従させて、夜な夜な貪る涙に濡れる白薔薇は、どんな味だ? さぞかしうまいだろうな……! ──だが、精々今のうちに愉しんでおくがいい。いずれおまえの手からあの哀れな白薔薇を救いだしてやるから、覚悟していろよ。あの白薔薇を手折って良いのは本来この私だけなのだからな……!」



 英雄気取りの醜悪な挑発。しかし、その妄言が完全に紡がれた瞬間、付き従う近臣たちの顔面から、一斉に血の気が引いた。


 大公が放った圧が、回廊の空気を物理的に凍らせたからである。


 アルシードの瞳に宿る怒りは、まさに凄絶であった。


 一月もの間、返書が来ないことに本気で悩み、さらに先ほどヴィンセントの平然とした態度に冷然とかわされ、大公の心にはただでさえ鋭い苛立ちが燻っていたのだ。そんな最悪のタイミングで、このたわけた男から、大切な偽装婚約者の尊厳を泥靴で踏みにじるような侮辱を直接叩きつけられた。


 大公の漆黒の瞳の奥で、静かな、しかし圧倒的な絶対零度の業火が燃え上がった。


 その一瞥だけで、ジュリアンの後ろの取り巻きたちは、文字通り蛇に睨まれた蛙のように恐怖し、あまりの重圧にその場に崩れ落ちるように跪いた。



「──皇太子殿下」



 空間が軋む。 アルシードの声は、徹頭徹尾、完璧な宮廷の礼法に基づいた丁寧な敬語であった。しかし、その声に宿る怒りは、周囲の壁さえ震わせるほどの威圧を孕んでいる。



「そのあまりにも肥大した、見るに堪えない下劣な妄想(お戯れ)は、ガラルディア帝国の次期皇位を継ぐ者としての矜持、あるいは知性の、いずれから湧き出るものでございましょうか」


「な、何だと……!?」


「オルブライト伯爵令嬢は、その高潔なる美徳と誇りにおいて、何者にも脅かされるような脆弱な令嬢ではございません。ましてや、殿下の濁った視界が捉えるような、浅ましい辱めに濡れる薔薇では断じてない。……これ以上、我が婚約者の名誉をその不浄な口で汚されるというのであれば」



 アルシードは一歩、ジュリアンへと歩みを進めた。


 敬語でありながら、それは明確な処刑宣告に等しかった。



「このアルシード・フォン・ベルンシュタインが、大公の権能と、我が剣のすべてを賭して、殿下のその歪んだ認知を叩き潰し、矯正せねばなりなくなります。……皇帝陛下への二度目の『ご報告』が、これ以上増えぬことを切に願うばかりですが、いかがお考えですか?」


「ひ、っ…………!」



 ローゼンバーグ公爵の夜会での恐怖が脳裏をよぎり、ジュリアンは完全に言葉を失って数歩後ずさった。


 本気の大公の威圧を前に、顔を引き攣らせ、震える足で取り巻きたちを促すと、命からがらその場から逃げ出すように去っていった。学習しないたわけ者も、目の前に迫る本物の死線(殺気)の前には、ただ怯えることしかできなかった。


 嵐が去った回廊で、アルシードはふう、と深く、冷たい溜息を吐き出す。


 胸に燻る苛立ちは消えなかったが、今なすべき公務のため、彼は再び歩みを運んだ。


 ──だが、アルシードは気づいていなかった。


 先ほど別れたはずの回廊の角、深い影の落ちる柱の陰から、一連の顛末をすべて、静かに見つめていた人物がいたことに。


 別れを告げた直後、ジュリアンのあまりにも下劣な発言を耳にし、実の妹を侮辱された者として、胸の奥で凄まじい殺意と激しい嫌悪感を抱いていたのはヴィンセントも同じであった。笑顔の裏で、あのたわけをいかにして社会的に抹殺するか、冷酷な算段をめぐらせていたのだ。


 その彼の前で、天敵であるはずのアルシードが、完璧な品格と圧倒的な威圧で、ジュリアンを撃退してみせたのだ。


 我が身を賭してでも、メリッサの名誉を守り抜くという、大公としての、そして一人の男としての、本物の矜持。



「…………ふっ」



 暗がりの物陰で、ヴィンセントは小さく、しかし今までとは違う笑みを漏らした。


 それは冷徹な嘲笑ではなく、ほんの少しだけ、大公の誠実さに心を動かされかけた男の苦笑であった。



(やれやれ……。不誠実な手遊びなどではないと分かってはいましたが、これほどまでに見事な防波堤になられるとは。大公閣下、あなたがそこまで我が家の至宝を、身を挺して守るというのであれば……)



 ヴィンセントの脳裏に、宮廷の受付窓口で、今まさに自分の部下が回収してきたであろう「アルシードからの四通目の書状」の存在が浮かぶ。


 いつもならば、迷わず焼却炉の灰にしていたはずの一通。



(……仕方がありませんね。今回ばかりは『世間体』という正当な言い訳を以て、その四通目の書状だけは、無事にメリッサの手元へ届くよう、手配して差し上げましょう。もちろん、五通目からはまた厳重に検閲させていただきますが)



 完璧な笑顔を取り戻したヴィンセントは、翻る上着の裾と共に、静かにその場を去っていく。


 アルシードのあずかり知らぬところで、閉ざされていた鉄壁の茨の門が、ほんの僅かだけ、その隙間を開けようとしていた。


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