黒薔薇の憂愁、茨の棘に遮る白薔薇の影
あの緊迫した夜から、一月近くという歳月が静かに流れ去っていた。
大公邸の最奥に位置する執務室で、アルシードは白紙のままの手帳を見つめ、静かに物思いに沈んでいた。
世間への婚約アピールという大義名分がある以上、本来であれば週に一度は顔を合わせるはずのメリッサとの逢瀬が、なぜか完全に途絶えている。次の約束を取り付けるための正規の書状は、紳士として不備なくきっちりと送り出しているはずだった。だが、待てど暮らせど彼女からの返事は一通も届かない。
(嫌われたのだろうか。それとも……あの夜、俺のために嘘を吐かせたせいで、部屋に軟禁でもされているのか)
これまでのプレイボーイとしての手練手管があれば、返事がないことへの追撃として、甘言を連ねた二の矢の書状を送ることも、秘書官ハンスを直に伯爵邸へ向かわせることも容易だった。だが、今の彼にはそれができない。シグルドから静かに突き刺された『手遊びに付き合わせていい娘ではない』という言葉が、呪縛のようにアルシードの足を縛りつけていた。
これ以上踏み込めば、それこそ彼女を気まぐれに口説こうとする、過去の不実な自分そのものになってしまう。自分の不徳を呪いながら、ただ動けずに待つ。一月近くも、あの騒がしくて、だけど妙に心地良かったあの時間に触れられていないという事実が、アルシードの胸をかつてないほどに不器用な、無自覚な寂しさで満たしていた。
だが、アルシードがどれほど胸を焦がそうとも、その書状がメリッサの目に触れることは永遠にない。
なぜなら、大公邸の優秀な秘書官ハンスが、公務を通じて親しくなった友人である宰相補佐ヴィンセントに対し、溢れんばかりの純愛脳を以て、全てを報告してしまっていたからである。
* * *
最高級の茶葉がもたらす優雅な香りが、宮廷の北翼に位置する宰相補佐の執務室を満たしていた。
公務の合間のわずかな休息、その静寂を破るように、大公家筆頭秘書官であるハンスは、どこか夢見がちな、しかし大真面目な眼差しで、気心の知れた友人を見つめていた。
机の上に恭しく置かれたのは、果実と濃厚なチョコレートが美しく調えられた、二、三口で消えてしまうほどに可憐な極小のタルトである。
「閣下が以前、メリッサ様との逢瀬で立ち寄られた街の専門店のものでね。メリッサ様が大変に気に入られたそうで、我が主がわざわざ私に命じて買いに走らせたのだよ。ヴィンセント、ぜひ君にも賞味してほしくて」
人懐っこい気品を漂わせ、嬉しそうに微笑んだハンスは、大公家の実務を一身に背負う有能な官僚でありながら、その中身はあまりにも純粋であった。
対するヴィンセントは、完璧な宮廷の微笑を浮かべたまま、差し出されたその美菓を白磁の皿へと移す。
「それは重畳。では、ありがたく頂戴いたします」
優雅な所作でタルトを口に運んだヴィンセントは、その刹那、双眸の奥に冷徹な光を走らせた。
舌の上に広がる洗練された甘みと、果実の絶妙な酸味。これは単なる菓子ではない。 うら若き乙女の警戒心を、一瞬にして霧散させてしまうほどの悪魔的な完成度を誇る絶品であった。
(……確かにこれは絶品ですね。甘すぎるものを好まないメリッサも、これならば容易に毒牙にかかる。大公閣下は、これほどの最高級の甘味という兵糧攻めを以て、我が家の至宝を搦め手から落とそうと企まれていたのか。実に恐ろしい男だ。帰りに同じものを買い求め、メリッサの胃袋を我がオルブライト家の味覚で厳重に上書きせねばなりませんね)
胸中で凄まじい防衛戦術(分析)を構築しながらも、ヴィンセントの表向きの笑顔には一点の曇りもなかった。
彼は深く感じ入ったように、甘い吐息を漏らす。
「素晴らしいですね……。ハンス、これほどまでに大公閣下がメリッサのことを細やかに想ってくださっているとは。妹は本当に幸せ者です」
「おお、分かってくれるか、ヴィンセント!」
友の言葉に、ハンスは待っていましたとばかりに目頭を熱くした。大公家筆頭秘書官の、驚異的な純愛脳フィルターが完全稼働した瞬間であった。
「そうなのだよ! 実を言うとね、ここ一月ほど、我が主は生きた心地がされていないのだ。メリッサ様との逢瀬が途絶え、恋焦がれるあまりに、執務室では文字通り意識が遠のくほどに魂を摩耗させておられる。ただの一通の返書を渇望し、四六時中、メリッサ様の面影を思い出しては、果てなき砂漠を歩むような孤独と苦悩に耐え忍んでおられるのだ。帝国一の美女に完全に骨抜きにされ、これほどまでに深く苦悶されるとは……。私は今、主君の身を案じつつも、真実の愛の奇跡を目撃しているのだよ!」
ハンスは熱弁した。 主君がただ、飾らない自分でいられる貴重な存在からの音沙汰がないことに純粋に戸惑い、己の過去の不徳を呪いながら待っているという切実な現実を、あまりにも劇的に色付けしながら。
「……なるほど。そこまで、ですか」
ヴィンセントの微笑みが、さらに一段と深く、昏い圧を帯びた。
それはハンスへの友情を疑うものではない。ヴィンセントは目の前で無邪気に菓子を勧めてくれる人柄の良いこの友人を、心から好ましく思っていた。
だが、それとこれとは話が別であった。
(悪いな、ハンス。君は何も悪くない。仕事が出来る有能な人物であり、純粋で信頼できる友人です……。しかし、これも我が家の至宝を守るためなのですよ。大公閣下がそこまでの執念を以てメリッサを惑わせるのであれば、こちらも一切の慈悲は不要。すでに三通目までの書状は開封すらすることなく灰とさせていただきましたが、四通目が届こうとも同じこと。水際対策の網をさらに狭めさせていただくとしましょう)
聖者のごとき笑顔の裏で、ヴィンセントはハンスから引き出した完璧な情報に基づき、宮廷の公式伝令ルートへ乗せられた大公からの追撃の書状を、引き続き笑顔のまま灰にする迎撃作戦を瞬時に完了させていた。
* * *
──そんな舞台裏が、白紙の手帳を見つめるアルシードの脳裏に浮かぶはずもない。
大公邸の執務室を支配する静寂の中で、アルシードは静かに羽ペンを手に取る。
一月近くという歳月は、これほどまでに長く、冷たいものだっただろうか。
かつて数多の浮名を流したプレイボーイとしての傲慢さは、今の彼には一破片すら残っていなかった。飾らないやり取りができるあの妙に心地よい空間が消え、彼女に拒絶されたかもしれないという不安が、大公の胸を不器用に締め付け、その足をすくませている。
(嫌われたのなら、それまでだ。だが、もし万が一にでも……彼女の身に何か不測の事態が起きているのだとしたら)
これ以上は、紳士としての節度を超えるかもしれない。シグルドの言葉通り、手遊びと取られても仕方のない暴挙かもしれない。
それでも、募る懸念と、あの空間で得た唯一無二の安らぎをこのまま失いたくないという、理屈を超えた衝動に逆らうことはできなかった。
アルシードは上質な便箋を広げ、指先に力を込める。
これが、四通目の書状であった。世間体を言い訳にしてでも、オルブライト伯爵邸の鉄壁の防衛網を突破せざるを得ない、大公としての、そして一人の男としての、偽りのない懸念を込めた一通。
静かな部屋に、羽ペンが紙を滑る、厳かな音だけが響き渡っていた。




