孤独の迷宮、茨の決起
深夜の大公邸、その最奥に位置する執務室は、一切の明かりが落とされ、ただ窓から差し込む冷えた月光だけが、豪奢な絨毯の上に青白い軌跡を描いていた。
アルシードは、背もたれの高い革張りの椅子に深く身を預けたまま、静寂そのものと化した暗がりのなかに視線を彷徨わせていた。
いつもであれば、オルブライト伯爵邸という名の「茨の魔窟」から無事に生還したこの瞬間は、張り詰めた緊張から解放され、安堵の息を漏らす時間であるはずだった。国家最高峰の武力を誇る男たちから向けられる、肌がひりつくような殺気の嵐。そこから逃れ、己の首が物理的に胴体と繋がっていることを確認して、深く枕に沈む。それがこれまでの夜の常道であった。
だが、今夜は違った。
彼の胸の奥を重く支配しているのは、いつものような生きた心地のしない恐怖でも、冷や汗を絞り出されるような胃壁の悲鳴でもなかった。名前のつかない、酷く静かで、それでいて切り離すことのできない奇妙な痛痒が、じわじわと胸の底から這い上がってくる。
『あの、人を疑うことを知らない無垢な妹が、理由がどうであれ、あなたに会うために、生まれて初めて家族に嘘を吐いたのだ』
暗闇のなかで、シグルドの透明なブルーの瞳が、そしてあの低く、容赦のない聲音が、何度も耳の奥で反芻される。
手遊びなどという軽薄な真似を、あの可憐な白薔薇に対してするつもりなど毛頭ない。それは一人の男の矜持として、シグルドの目を真っ直ぐに見据えて言い切った。だが、自分がこれまでの社交界で派手に築き上げてしまった「プレイボーイ」という不実な名声のせいで、彼女の純粋な行動が、まるで濁った秘め事のように見做されてしまう。その自業自得な現実が、鋭い破片となってアルシードの胸を抉っていた。
(……嘘、か)
アルシードはゆっくりと天を仰ぎ、洗練されつつも骨張った指先で己の額を覆った。
つい数時間前まで、あの個室の向かい側に座っていた少女の姿が、鮮明な色彩を伴って脳裏に蘇る。
『お散歩をしていたら、偶然閣下とお会いしたんだもの』
そう言ってのんきに首を傾げ、兄を前にして天真爛漫に言い張った彼女の「嘘」には、疚しい(やましい)思惑など一滴も含まれていなかった。ただ美味しい肉のパイ包みや海老を頬張り、アルシードと過ごす時間を楽しむための、子供のようにお転婆で、あまりにも純粋な隠密行動。
彼女の笑顔には、社交界の令嬢たちが浮かべるような計算も、大公家を囲い込もうとする公爵家のような思惑も、何一つ存在しない。あの屈託のない微笑みは、メリッサ・オルブライトという少女の、飾りのない真っ直ぐな人柄そのものの現れだった。
そして何より、彼女がそこにいるだけで、その場の空気は一瞬にして塗り替えられる。
大公としての完璧な仮面を維持する必要も、張り巡らされた謀略に神経を研ぎ澄ます必要もない。ただ、次から次へと美味しい御馳走を平らげる彼女を眺め、その天真爛漫な言葉に素で調子を狂わされる。あの、物凄く騒がしくて、だけど妙に心地よい空間。
偽装婚約という契約の盾として巻き込んでしまったはずの彼女が作り出すその世界に、自分自身がどれほど救われ、どれほど深く癒やされていたか──。
冷え切った執務室を見渡す。そこには当然、彼女の気配はない。
さっきまで馬車の中で、確かに隣にその温もりがあったというのに、今のこの広すぎる部屋は、どうしようもないほどに冷たく、そして酷く静まり返っているように感じられた。
胸の奥が、妙に燻ぶるように熱い。締め付けられるような、確かな不快感がそこにはあった。
「……くそ、胃か……?」
アルシードは小さく毒づき、いつもの自嘲気味な笑みを浮かべようと試みた。きっと、シグルドのあの抜刀の音による遅れてやってきた恐怖か、あるいは長年の不摂生のツケが回ってきたのだろう。
彼はデスクへと近づき、月光に照らされた机の上に目を落とした。そこには、筆頭秘書官であるハンスが、主君の身体を案じて毎夜必ず用意してくれている、丁寧に包まれた胃薬の薬包が置かれていた。
アルシードは長い指を伸ばし、その紙包みを静かに手に取った。
だが──。
包みを握りしめたまま、数秒。彼は動きを止めた。
己の内側に意識を向けてみれば、確かに胸のモヤモヤとした圧迫感は酷いものの、不思議なことに、彼の胃壁は驚くほどに静まり返っており、何の悲鳴も上げてはいなかった。
今、自分の胸の奥を騒がせているこの得体の知れない飢餓感のような、焦燥感のような痛みの正体は、決して胃痛などではない。
「……違うな」
アルシードは力なく呟き、手にした胃薬の包みを、元の位置へと静かに置き直した。カサリ、と硬質な紙の音が、誰もいない夜の室内に寂しく響く。
今、己の胸を焦がしているものの正体が、薬では決して治せない性質のものであると気づき、大公はさらに深い底へと沈み込むように、眉間を厳しく寄せた。
(俺は、どうしてしまったというのだ……)
大公としての完璧な統御力を以てしても、この胸の燻ぶりの消し方が分からない。
さっきまで一緒にいたはずのじゃじゃ馬令嬢の、あの騒がしい空間を、もう一度強烈に求めてしまっている自分自身の心の歪みに、彼はまだ、名前をつけることができずにいた。
孤高の黒薔薇の、切なくも深い物思いを置き去りにしたまま、夜の静寂はただ、どこまでも冷酷に更けていくのだった。
* * *
同じ夜、オルブライト伯爵邸の最奥に位置する重厚な書斎では、大公邸の静寂とは真逆の、濃密で物騒な熱気が満ち満ちていた。
磨き上げられたマホガニーの長机を囲むのは、三人。大将軍である祖父ガルフォード、将軍である父ゲラルト、長男のシグルドが戻るのを待っていた宰相補佐の次男ヴィンセントである。
彼らはそれぞれ、国家最高峰の武力と、全土を網羅する情報網の頂点に君臨する男たち。精鋭部隊など展開せずとも、この男たちが大真面目に殺気を放つだけで、伯爵邸の周囲は百メートル先からでも肌がひりつくほどの「魔窟」へと変貌を遂げていた。
それほどの無言の圧力を正門の大公へと叩きつけておきながら、愛しいメリッサが屋敷の奥へと戻ってきた瞬間には、男たちはその殺気を一滴残らず霧散させ、それぞれが完璧な親馬鹿の優しさで、彼女のあまりにも不器用な嘘に「騙されてやった」のである。
「お散歩をしていて偶然お会いした、ねえ……」
深く腕組みをした将軍ゲラルトが、苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか哀愁の漂う声を漏らした。
「ガラルディアの広大な都において、刺繍の道具を部屋に残したまま歩ける距離で、大公閣下と偶然遭遇するなど、天文学的な確率だな。……我が娘は、信じられないほどに愛らしく、そしてあまりにも不器用な嘘を吐くようになった」
「だがゲラルトよ、メイがそれほど美味に喉を鳴らし、楽しかったと言い張るのだ。そこは深く騙されてやるのがオルブライト家の男としての流儀というもの。……問題はそこではない」
大将軍ガルフォードが、白髭を厳かに撫でながら、部屋の扉を見つめた。
やがて、静かに扉が開き、正門前で大公と直接対峙していた長男シグルドが姿を現した。その彫刻のように整った美貌には、一人の兄としての深い焦燥と、真剣な沈黙が刻まれている。
「シグルド。……大公の様子はどうであった」
ガルフォードの重々しい問いかけに、シグルドは静かに男たちの前へと進み出た。その脳裏には、先ほど冷えた夜風の中で、真っ直ぐに自分を見据え返してきたアルシードの、あの悲痛なまでに誠実な瞳が焼き付いている。
「……大公閣下は、言い切りました。手遊びなどという軽薄な真似を、メリッサに対してするつもりは断じてないと。己の過去の不徳を認めつつも、メリッサの純粋な信頼を気まぐれで濁らせるような最低な男ではないと、一歩も引かずに。……あの目は、不埒なプレイボーイのそれではありませんでした。まことに、一人の大人の男としての、誤魔化しのない真摯な響きがあった」
シグルドのありのままの報告を受け、書斎に一瞬の厳粛な静寂が訪れた。
男たちは、先日の晩餐でアルシードが口にした真摯な誓いを思い返していた。メリッサを皇太子を含めたあらゆる害意から、大公の全力を尽くして『盾』として守り抜くという、傲慢さのない本物の決意。それが偽りではないことを、シグルドの報告が裏付けている。
プレイボーイという名声に隠された、アルシードの『本物の誠実さ』。
それに触れ、茨の男たちの胸には、ほんの少しの安堵が芽生えた。……だが、それゆえに、事態は彼らにとってより深刻な、未曾有の危機へと発展する。
「ならば、何故だ……」
ゲラルトが、拳を握りしめて低く呻いた。
「大公に手遊びの不実がないのであれば……何故、我が家のあの無垢なメリッサは、我々を欺いてまで、あの大公の元へ馳せ参じたのだ。家族に嘘を吐いてまで、他所の男との個室での逢瀬を優先するなど……」
愛娘が自分たちではなく、偽装婚約者の男を優先したという厳然たる事実。父親たちの間に、言葉にできない寂寥感と深い悩みが広がっていく。
その重苦しい沈黙を破ったのは、低く、滑らかな笑い声だった。
「──なるほど。まことに恐ろしい事態ですね」
宰相補佐ヴィンセントが、冷徹な光を湛えた眼鏡のブリッジを、美しい指先で押し上げた。その唇に刻まれた笑みは、完璧でありながらも、背筋が凍るほどの圧力を孕んでいる。
「……大公の誠実さが本物だからこそ、我が家の至宝は、あのような男に生まれて初めて家族を欺くという狂わされ方をしたのです」
ヴィンセントの声音には、一切の嫌みがない。だからこそ、そのロジックの狂気が際立つ。
「手遊びの不埒な男であれば一過性の嵐に過ぎませんが、本物の誠実さを以て迫る『大公閣下』となれば話は別です。……それこそ、我が家の白薔薇を内側から狂わせる、最もタチの悪い新種の害虫に他なりません。我らは一体、何を血迷っていたのでしょう」
「……む」
ガルフォードの眉が、ピクリと跳ね上がった。ヴィンセントの言葉は、彼らの「過保護という名の絶対正義」の導火線に、美しく火をつけていく。
「あの晩餐での謝罪以来、大公の真摯さに免じて過剰な監視を控えてみていたが……それが大いなる油断を招いた。盾の分際でメイに近づき、我が物顔で守るばかりか、あろうことかメイを惑わせ、我らに嘘を吐かせるなど不届き極まりない。盾がその身を差し出すのは当然の事ではあるが、守るべき対象の心を揺さぶるなど生意気の極みだな」
「その通りです、父上」
ゲラルトが、狂気を帯びた真面目な瞳で激しく同意した。
「我らが監視を緩めた隙に、メイを甘言で密室に連れ込み、美味い食事で懐柔したのだ。大公の不徳の致すところではないとしても、我が愛娘の名誉と純潔を脅かす肉壁であることに変わりはない。包囲を緩めるなど、我らの大いなる不覚であった。……監視網は、即刻元通りに、いや、それ以上に強化する!」
男たちの間で、大真面目な殺意の包囲網が再構築されていく。大公の誠実さは、彼らにとって「より強固に排除すべき脅威」へと脳内変換されていた。そこにはもはや、アルシードという一人の青年の人権など、塵ほども存在していなかった。
シグルドは、長机の端でその狂気の応酬を黙って聞いている。
ついさっきまで、一人の男としてアルシードと真剣に向き合い、その誠実さに胸を痛めていた。妹のために悩み、大公の立場を慮る理性すら、彼の内には確かに存在していた。
だが、静かにその美しいブルーの瞳を閉じたシグルドの脳裏に浮かぶのは、大切な妹の、人を疑うことを知らない無垢な笑顔。
───『メリッサの尊厳と純潔を守る』
オルブライト家の長男として、その絶対正義の名の元に、彼はゆっくりと、一切の迷いを削ぎ落とした瞳を開いた。
「………それも、そうだな」
シグルドの口から、低く、冷徹な聲音が漏れ出た。
一瞬にして苦悩を捨て去り、妹を脅かす『新種の害虫』を駆除するための『茨』へと、彼は完璧な復帰を果たしたのである。
「大公がどれほど誠実であろうと、我が妹を惑わせた罪は重い。次回の逢瀬──タルトを平らげるという密室。我が近衛騎士隊、および帝国が誇る隠密斥候の全戦術を以て、大公の退路をミリ単位で完全に断絶せねばなるまい。もし万が一、メイの純潔に一ミリでも不届きな接近を試みれば、その瞬間に大公邸ごとこの世から消滅させる」
「よく言った、シグルド!」
「当然です。都のすべての馬車を追跡調査した、秒単位の完璧な報告書は既にここにあります。次回のルートの全交差点に、完全に武装した伏兵を配置しましょう」
ヴィンセントが笑顔で広げた恐るべき厚みの報告書を囲み、オルブライト家の男たちは、いつもの、いや、それ以上の凄まじい狂気を大真面目に燃え上がらせるのだった。




