白薔薇の変節、戸惑いの茨
レストランでの甘やかで幸福な時間は、馬車がオルブライト伯爵邸へと近づくにつれ、大公閣下にとっての「静かなる試練」へとその色彩を変えていった。
「んー、本当に美味しかったわ。閣下の馬車はふかふかで、とっても居心地がいいのね」
隣のシートで、お腹いっぱいに御馳走を平らげたメリッサは、可憐な白薔薇の容姿そのままに無邪気な微笑みを浮かべている。アルシードは、大公としての完璧な貴族の微笑みを崩さないまま、心中で静かに、あまりにも深く天を仰いでいた。
(のんきに寛いでいるところを申し訳ないが、メリッサ嬢……。君が『隠密で来た』と言い張ったせいで、現在、君のご実家からは百メートル先からでも肌がひりつくほどの、ただ事ではない本物の殺気が漂ってきているのだが……)
淑女を夜道に一人で帰すなど、大公としての品格が許さない。家まで送り届けるのは紳士として当然の振る舞いである。だが、目的地たる伯爵邸の正門が近づくにつれ、アルシードの胃壁がじわじわと悲鳴を上げ始めるのは別問題であった。
やがて、馬車が豪奢な正門の前へと静かに停車する。松明の明かりに照らされたその場所に、ぽつりと一人、影が立っていた。
オルブライト家の長男であり、帝国軍の精鋭を率いる近衛騎士隊長、シグルド。一切の表情を消した彫刻のような佇まいで、腰に帯びた愛剣の柄に手を掛けたまま、微動だにせず待ち構えている。
(シグルド……。完全にやる気だな……)
アルシードは心中でそっと遠い目をした。だが、ここで退くわけにはいかない。覚悟を決め、まずはアルシードが先に馬車の扉を開け、地面へと降り立った。
──カチ。
夜の静寂を切り裂くように、シグルドの親指が剣の鍔を押し上げ、刃が鞘から抜けた硬質な音が、アルシードの戦士としての鋭敏な聴覚に突き刺さった。
(……抜いた。今、確実に、抜いた)
挨拶代わりに首を刎ねられかねない緊張感の中、アルシードは頬の筋肉を完璧に統御し、極上の貴族の笑顔を張り付かせた。そして、馬車の中に残る婚約者へと、洗練された流麗な仕草で手を差し伸べる。
「さあ、お手を、メリッサ嬢」
「ええ、ありがとう、閣下」
メリッサの柔らかく可憐な手が、アルシードの手のひらに重なった。
──シャリ……。
先ほどよりも明らかに長く、そして冷徹な抜刀の音が、不穏な金属音となって鼓膜を震わせた。同時に、シグルドの瞳から放たれた、物凄い殺気を孕んだ視線の矢が、アルシードの眉間を正確に射抜く。
『我が妹の手に気安く触れたな』
言葉はなくとも、その数ミリずつ抜かれていく剣の音が、何よりも雄弁に無言の圧力を物語っていた。アルシードの額から流れる冷や汗を笑顔の裏に隠し、繋いだ手の震えを完全に殺しきるのは、並大抵の精神力ではなかった。
しかし、その絶体絶命の無言劇を終わらせたのは、馬車から軽やかに降りてきた白薔薇の、天真爛漫な一言だった。
「お兄様、ただいま! ちょうど今、閣下に送っていただいたところなのよ」
メリッサは、兄が腰の剣に手を掛け、大公を今すぐ挽き肉にしそうな形相で睨みつけていることなど露知らず、元気に駆け寄った。
「メイ。今日は邸で大人しく刺繍の腕を磨いている予定ではなかったかい?」
先ほどまでアルシードを射殺しそうだったシグルドの瞳は、妹へ向けられた瞬間、限界を突破して極上の甘さと優しさを帯びた。メリッサは「あら、だって」とのんきに首を傾げた。
「お天気がとっても良かったから、お散歩をしていたら、偶然閣下とお会いしたんだもの。それで、とっても美味しいお肉のパイ包みをご馳走していただいたの。閣下は本当に優しくて行き届いたお方だわ」
「お散歩、ねえ。……刺繍の道具を部屋に置いたまま、ずいぶんと遠くまで歩いたものだ。それに、ガラルディアの都は広いというのに、偶然大公閣下とお会いするとは、まことに奇妙な運命もあったものだね」
「ええ、本当に。お肉のパイ包みだけではなくて、プリプリの海老もとっても美味しかったのよ、お兄様」
「そうか。メイがそれほど楽しかったと言うのであれば、俺からこれ以上言うことは何もないよ」
妹のあまりにも純粋で無邪気な笑顔のラリーに、シグルドはすべてを察しながらも、それ以上追及することを諦めた。愛しい妹の楽しそうな姿の前では、あえて誤魔化されてやるのが、オルブライト家の長男としての流儀であった。
シグルドの親指が、ようやくカチャリと静かに剣の鍔を戻した。その瞬間、アルシードは心の中で神に深く感謝し、どうにか自分の首が物理的に胴体と繋がっていることを確認して、安堵の息を漏らしたのだった。
「夜風は冷える。メイは先に屋敷の中へ入っておいで」
「はい、お兄様。それでは閣下、本日は素晴らしい時間をありがとうございました。次回の逢瀬(タルトを食べる時間)も、お決め置きあそばせ?」
「ああ……。喜んで、お決め置きいたそう、メリッサ嬢」
おねだりに成功したメリッサは、満足げな笑みを浮かべ、侍女たちに連れられて一足先に温かな屋敷の奥へと消えていった。
正門前に残されたのは、夜風に揺れる松明の炎と、二人の男。
パタン、と豪奢な大扉が閉まり、メリッサの気配が屋敷の奥へと完全に消え去った。
その瞬間、正門前を包んでいた夜風が、まるで一瞬で凍りついたかのように、肌を刺す冷徹な空気へと変貌を遂げる。
「……さて。大公閣下」
シグルドがゆっくりと振り返った。その聲音からは、先ほど妹に向けられていた砂糖菓子のような甘さは微塵も消え失せ、帝国軍の精鋭を率いる近衛騎士隊長としての、低く、冷徹な響きだけが残されていた。
夜闇の中に浮かび上がるシグルドの瞳は、メリッサのそれと同じ、透明で美しいブルー。オルブライトの血を引く兄妹ならではの涼やかな美貌が、今は一切の感情を削ぎ落とした彫刻のような冷徹さを湛えて、アルシードを見据えている。
「メリッサは本日、邸を出る予定などなかったはずだ。……何故、私どもに断りもなく、黙って妹を連れ出されたのでしょうか?」
声音に激しい棘や嫌みはない。ただ、一人の兄としての、逃げ場のないほどに真っ直ぐな問いかけだった。その静かな響きの裏には、あの真っ直ぐだった我が妹が、この大公に会うために「家族に嘘を吐いてまで外出を強行した」という事実に対する、兄としての激しい焦燥と戸惑いが確かに存在していた。可愛くて、可愛くて仕方がない大切な妹が、生まれて初めて自分たちを欺いたのだ。その厳然たる事実が、彼の胸を静かに痛めつけていた。
対するアルシードも、一人の大人の男として、シグルドのブルーの瞳を真っ直ぐに見据え返した。
「……言いがかりが過ぎるな、シグルド隊長。私は正規の手順を以てお誘いの書状を送り、昼間、君たちが公務で留守の間に、紳士としてちゃんとお迎えにあがった。オルブライト夫人にも優雅に見送っていただいたさ。黙って連れ出したなどという不実、私は断じてしていない」
「……ええ、分かっています。あなたに手順の不備がないことも、母が見送ったことも、私どもは全て把握している」
シグルドは、アルシードの誠実な正論を静かに認めた。
「私が言いたいのは、そこではないのです、閣下。……メリッサは本日、私どもに『邸で大人しく刺繍の腕を磨いている』と告げて出かけていった。……あの、人を疑うことを知らない無垢な妹が、理由がどうであれ、あなたに会うために、生まれて初めて家族に嘘を吐いたのだ。あなたがどれほど社交界で浮名を流そうが勝手だが、メリッサはあなたが得意とする、その場限りの気まぐれな手遊びに付き合っていい娘ではない」
「手遊び」、か。その嫌みのない、しかしこれ以上なく真摯な言葉が、アルシードの胸の奥をチクリと、奇妙な鋭さで突き刺した。
これまで派手に立ち回ってきたのは紛れもない自分の過去であり、シグルドにそう懸念されるのは自業自得であった。だが、それ以上にアルシードの胸を締め付けたのは、メリッサとの時間を「その場限りの手遊び」と誤解されたことへの、言葉にできない拒絶感だった。
(手遊びなど……。俺は、彼女を口説こうとさえしていない。彼女はまだ、自分の皿から海老を掠め取って喜ぶような、手のかかる子供でお転婆な少女だというのに……)
アルシードにとって、彼女の無邪気な笑顔を見つめる時間は、これまでの社交界のどんな華やかな立ち回りのどれとも違う、自分自身の素顔を晒せる「純粋な安らぎの聖域」だった。それを、過去の自分の不徳のせいで「汚れた気まぐれ」と同列に扱われ、その安らぎそのものが否定されているような、深い寂しさが胸を覆う。
だが、一人の大人の男としての誠実さが、彼に誤魔化しのない言葉を選ばせた。
「……シグルド隊長。手遊びなどという軽薄な真似を、私がメリッサ嬢に対してすると思うかね。彼女をこの政争に巻き込んでしまった責任は、常に我が胸にある。これまでの私の立ち振る舞いから、君にそう懸念されるのは私の不徳の致すところだが……私は、彼女のあの純粋な信頼を、気まぐれで濁らせるような最低な男ではないさ」
アルシードは、胸の奥の小さな痛みを押し殺し、一歩も引かずにその視線を受け止めた。
シグルドは、そのアルシードの言葉の裏にある「本物の誠実さ」を、ブルーの瞳でじっと値踏みした。やがて、妹をそれほどまでに変えてしまった大公への複雑な想いを飲み込むように、小さく息を吐く。
「……結構。その言葉、しかと覚えておきましょう。夜道だ、お気をつけてお帰りください、我が妹の尊き婚約者殿」
シグルドは極めて優雅に一礼すると、そのまま音もなく正門の奥へと翻り、屋敷へと消えていった。
静寂が戻った正門前で、アルシードは夜の闇を見つめた後、静かに馬車へと乗り込んだ。御者が鞭を鳴らし、馬車が滑るようにして夜の都を走り出す。
車内に一人残されたアルシードは、豪奢なシートに身を預け、窓の外を流れる暗い夜景をただ静かに見つめていた。
いつもなら、オルブライト家から放たれる茨の殺気への恐怖と激しい胃痛に襲われているはずだった。だが、今の彼の胸を支配していたのは、それとは全く異なる、酷く静かで重い物思いだった。
『生まれて初めて家族に嘘を吐いたのだ』
シグルドの言葉が、耳の奥で何度も反芻される。人を疑うことを知らない、あの無垢でお転婆な少女。彼女はただ、美味しい肉のパイ包みや海老を食べるために、無邪気に自分を信頼して、家族を欺いてまであの個室にやってきた。
自分がかつて社交界で築き上げてしまった「プレイボーイ」という不実な名声のせいで、彼女のあの純粋な笑顔や、自分に向けられた屈託のない好意が、濁った手遊びのように見做されてしまう。その自業自得な事実が、どうしようもなく苦しかった。
(俺は……本当に、彼女のあの安らぎを守りきれるのだろうか)
まだ「恋」とは呼べない、しかし確実に、彼の世界の中で誰よりも大きな存在となり始めた一人の少女への特別な感情。
アルシードは、胸の奥に残る、あの個室でのメリッサの悪戯っぽい微笑みの温もりをそっと抱きしめるように目を閉じた。
孤高の大公の、切なくも深く、静かな物思いを乗せて、馬車は夜の静寂をどこまでも優雅に駆けていくのだった。




