密室の白薔薇、戦慄の香り
社交界という名の戦場において、これほど心安らぐ贅沢な空間が他にあるだろうか。
ガラルディア帝国の都にひっそりと店を構える、格式高き一流レストランの個室。人目を完全に遮断されたその部屋で、アルシード・フォン・ベルンシュタインは、目の前で小さな奇跡を目撃していた。
「んー……! 閣下、このお肉のパイ包み、信じられないほどサクサクだわ! 中から溢れ出る肉汁がまるでスープみたいで、とっても美味しいわ!」
帝国一の美女と謳われる伯爵令嬢、メリッサ・オルブライトは、その可憐な白薔薇のごとき容姿に見合った優雅な手つきで、しかし驚くべき確実さで、次々と皿の上の御馳走を平らげていた。
彼女が細いフォークを動かすたび、その美しい瞳は宝石のように輝き、頬はほんのりと桜色に染まる。世間では深窓の令嬢として儚げに微笑むだけの彼女が、アルシードに本性を知られて以来、この密室においてだけは見せるようになった、のんきで、そして精神的に恐ろしく逞しいお転婆な素顔。
アルシードにとって、三度目となるこの個室デートは、もはや政争を回避するための偽装婚約の業務連絡などではなく、一種の聖域と化していた。かつて社交界を浮名で浮き立たせた稀代のプレイボーイとしての仮面は、彼女のあまりに純粋な「美味しいものを食べる喜び」の前で、完全に剥ぎ取られてしまっている。
「……気に入ったなら何よりだ。そっちの魚介の皿も、君の好きな海老がふんだんに使われている。事前に料理長へ好物を伝えておいた甲斐があったな」
気づけば、アルシードの口調からは完璧に作り込まれた大公としての敬語が消え、年相応のくだけた響きが混じっていた。
自らの手で、この美しい少女が楽しそうに餌付けされていく過程を見るのは、奇妙なほどに心地よい。いつも社交界で張り詰めている神経が、この静かな部屋では驚くほど穏やかに解きほぐされていくのを、彼は無自覚に感じていた。
「まぁ、海老だわ! 閣下は本当に物知りで行き届いたお方ね」
メリッサは嬉そうに微笑むと、プリプリとした大ぶりの海老を口に運び、実に見事な仕草で咀嚼した。そんな彼女の屈託のない微笑みに、アルシードは呆れ果てながらも、あの日、この笑顔(と自分の胃)を守るために社交界の刺客たちをすべてなぎ倒してよかったと、静かで温かな敗北感を覚える。
メリッサはいたずらっぽい瞳を小さく細めると、フォークをすっと伸ばした。そして、アルシードの皿の端に添えられていた、小さな飾り用の海老をひょいと横から鮮やかに掠め取ったのである。
「あっ、おい……それ、俺の……」
「ふふ、閣下のお皿にあるものの方が、一段と美味しそうに見えたんだもの」
悪びれもせず、掠め取った海老をぱくりと口に含むメリッサ。そのあまりに愛らしい悪戯に、アルシードはフッと吐息を漏らして笑った。かつて自分に群がってきた女性たちは、みな大公の地位や、計算された微笑みに調子を合わせてくる者ばかりだった。だが、目の前の白薔薇は違う。ただ純粋に料理を愛し、自分に対して「あっ、おい」などと言わせるほどの気安さを提供してくれている。この上ない安らぎだった。
そんな心地よい余韻の中、メリッサがふと思い出したように、ナプキンで小さく口元を拭った。
「そういえば閣下、先日の公爵邸での夜会、とっても大変だったのね」
「ん? ああ……いや、そんなことはないさ。久しぶりの夜会だったからね、会場は華やかだったし、久々に会う顔ぶれも多くて、挨拶を交わすだけで小一時間があっという間に過ぎてしまったよ」
アルシードはワイングラスを優雅に傾け、洗練された社交界の勝者としての微笑みを浮かべた。あの夜、裏でジュリアン皇太子の卑劣な陰謀を冷徹に叩き潰し、自らの尊厳を削って「狂気的溺愛」を演じきった泥沼のサバイバル戦など、彼女の耳に入れる必要は微塵もない。無粋な社交界の毒から、この無邪気な白薔薇を守り抜くことこそが己の役目だと、大公の誇りが胸を張らせていた。
メリッサは「そうなのね」と小さく頷き、肉のパイ包みに再びフォークを伸ばしながら、のんきに言葉を続けた。
「やっぱり、お祖父様とお父様の杞憂だったのね。あの日、お二人が私の『名誉を守るために、夜回りへ行ってくる』と大真面目におっしゃって、公爵邸の周りに隠密の兵を五十名も潜伏させていたんですって。お疲れ様です、って借り出された兵士たちの苦労を思わず心配しちゃったわ」
───カチャ。
アルシードの手の中で、銀のフォークが鋭い音を立てて皿に落ちた。
「……は?」
アルシードの動きが、完全に凍りついた。
(ご、五十名……!? オルブライト家の、あの国家最高峰の武力を誇る、精鋭中の精鋭隠密部隊が……あの日、公爵邸を完全に包囲していた……!?)
かつて戦場をくぐり抜けたはずの有能な戦士でありながら、あの夜、あまりの緊張と「狂気的溺愛」の熱演に必死になるあまり、その包囲網に不覚にも一切気づいていなかった。
背筋に、今まで経験したことのないような、凍りつくような本物の戦慄が駆け抜ける。
もし、あの夜会でのジュリアンとの対峙で、一歩でも対応を間違えていたら。もし、メリッサを道具にした不届き者として、あるいは「狂気的溺愛」の演技が少しでも足りず、婚約破棄を企む不実な男とみなされていたら。
あの瞬間、公爵邸は跡形もなく消し飛ばされ、自分は確実に「死体」にされていた。
安全なはずの一流レストランの個室で、遅れてやってきた「死の淵」の光景に、アルシードの顔面からみるみるうちに血の気が引いていく。
(守り抜くどころか、俺の命が、薄氷の、それも極薄の氷の上で辛うじて繋がっていただけではないか……!!)
「閣下……? お顔色が急に真っ白ですけれど、大丈夫かしら? お肉のパイ包み、お口に合わなかった?」
「あ、ああ……いや、美味しい、とても美味しいよメリッサ嬢……」
アルシードは震える手でスープの匙を握り、崩壊を始めた胃壁の痛みに耐えながら、心の中でハンスの名を必死に叫んだ。
外の世界の喧騒から切り離されたはずの密室で、大公閣下は、自身を包囲していた『茨』の真の狂気に、今更ながら本気で怯え、涙目で食事を続けるのだった。
* * *
(落ち着け……落ち着くんだ。あの夜はもう過ぎ去った。現に俺はこうして五体満足で、食事をしている……)
アルシードは心の中で何度もそう念じ、戦場仕込みの深呼吸を繰り返した。引きつりそうになる広背筋を宥め、どうにか大公としての、いや、年相応の青年の平穏を取り戻した頃には、テーブルの皿は綺麗に片付けられていた。
コンコン、と上品なノックの音が響き、給仕が新たな皿を運んでくる。運ばれてきたのは、目にも鮮やかな季節の果実をあしらった極上のタルトと、気付け薬代わりにアルシードが急遽注文させた、胃に優しいカモミールのハーブティーであった。
「まぁ……! 素晴らしいわ、閣下! このタルト、イチゴがまるで宝石のように敷き詰められているわ!」
メリッサは先ほどまでの肉のパイ包みや海老の余韻などどこへやら、甘味のための第二の胃袋を完全に覚醒させて瞳を輝かせた。その無邪気で嬉しそうな姿を見ていると、先ほどまでアルシードの脳裏を支配していた『五十名の軍事包囲網』という悪夢が、嘘のように霧散していく。
「……君の喜びそうなものを選んだからな」
「まあ、嬉しいわ。いただきます!」
メリッサは小さな銀のフォークでタルトを小さく切り分けると、実においしそうに口へと運んだ。サクッと小気味良い音が密室に響き、彼女の細い眉が幸せそうに下がる。
その様子を特等席で眺めながら、アルシードは無自覚に、心からの安らぎを覚えていた。社交界の狐たちを相手にする時は、一言半句たりとも油断できず、常に冷徹な仮面を張り付かせていなければならない。だが、この少女の前では、プレイボーイの気取った台詞も、大公としての威圧も必要ないのだ。ただひたすらに、目の前の御馳走を美味しそうに平らげていく白薔薇を、のんびりと眺めていればいい。
(まったく……本当に、心地のいいお転婆娘だ)
胸の奥に灯った仄かな温もりを、アルシードはまだ「気のせい」と名付けることすらしていない。ただ、この贅沢で穏やかな時間が、少しでも長く続けばいいと、心の底から願っていた。
メリッサは半分ほどタルトを食べ進めたところで、名残惜しそうにフォークを置き、いたずらっぽく微笑んだ。
「本当に美味しかったわ。……でも、閣下。お肉のパイ包みも、お魚のお皿も、このタルトも、全部閣下がご用意してくださったのよね? 私、ただひたすら食べさせてもらっているだけじゃないかしら」
「フッ、何を今更。君が美味しそうに食べてくれることが、この偽装婚約を維持するための、俺への最大の報酬さ」
アルシードは少しくだけた口調で、優しく微笑んだ。そして、ワイングラスの代わりにカモミールティーのカップをそっと掲げ、かつて社交界を震撼させた冷徹な敬語を、今度は極上の甘さを込めて口にする。
「だから……次の逢瀬(タルトを食べる時間)の約束も、お決め置きあそばせ?」
メリッサは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに大好きな餌付けの約束を差し出された子猫のように、いっそ誇らしげに胸を張って微笑んだ。
「まぁ! 喜んで、お受けいたしますわ、閣下。次は私が、お祖父様たちに見つからないよう、とっておきのハーブティーを用意するわ」
「……ああ、頼む。……ん? 見つからないよう、とは?」
アルシードの笑顔が、ピキリと微かに固まる。
「あら、だって、お祖父様もお父様も、私が閣下とお会いしていると知ると、すぐに『夜回り』の計画書を広げ出すんだもの。だから今回は、お兄様たちにも内緒で、完全に隠密でここへ来たのよ?」
「…………」
アルシードの手にあったティーカップが、カチャカチャと微かな不協和音を奏で始めた。
(隠密で……? オルブライト家の人間を相手に、この世間知らずでのんきな白薔薇が、完全に気配を隠し通せているとでも……?)
否である。今頃、実家では宰相補佐であるヴィンセントあたりが「メリッサが予定にない外出をした。大公がまた密室に連れ込んだ可能性百分」という完璧な報告書を仕上げ、オルブライト邸が文字通りの戦時体制に突入しているに違いない。
ようやく治まりかけていたアルシードの胃壁に、再び遅れてやってきた超弩級の激痛が走る。
「かっ、閣下……? またお顔が真っ白だわ! やっぱりどこか体調が悪いのね!?」
「だっ、大丈夫だ……。少し、次のデート(サバイバル)の計画を、本気でハンスと練り直さねばならんと思っただけだから……」
アルシードは涙目でハーブティーを飲み干し、心の中でまだ見ぬ未来のハンスに向かって、全力で救難信号を送り続けるのだった。
外の世界の喧騒から切り離されたはずの密室で、二人の距離は優しく縮まり、そして大公閣下の胃壁は、さらなる茨の恐怖へとすり潰されていくのだった。




