茨の夜回り、白薔薇の甘やかな回想
「……大公の、分際で、この私を脅迫する気か……!」
アルシードの放った圧倒的な強者の威厳を前に、皇太子ジュリアンは顔を青白くさせ、ガタガタと震える足を必死に隠しながらも、どうにか声を絞り出した。出来の良すぎる従兄弟への激しい劣等感と、周囲の取り巻きの貴族たちの手前、ただ怯えて逃げ出すことだけは、彼の肥大化したプライドが許さなかったのだ。
「お前がどれほど言葉を飾ろうと、メリッサは私のものだ。あれは……あの清らかな白薔薇だけは、お前のような男に渡してなるものか……!」
声の震えを隠せないまま、どこか卑屈でねっとりとした執念を燃やすジュリアン。しかし、アルシードは一歩も引かず、その瞳に容赦のない極光を宿したまま、完璧な格式高い敬語でトドメを刺した。
「殿下。これ以上、我が婚約者の名をお口にされるのであれば、不敬を承知で、今ここであなたを『排除』せねばならなくなります。……どうぞ、賢明な御判断を」
流麗な微笑みの裏に宿る、本物の絶対防衛の殺気。これ以上一歩でも踏み込めば、大公家の全力によって完膚なきまでに叩き潰される。その決定的な格の違いを肌で察したジュリアンは、ついに耐えきれなくなり、惨めで卑屈な捨て台詞を吐き散らした。
「ふ、ふん……。今夜は、ローゼンバーグ公爵の顔に免じて、見逃してやる……!」
傷ついたプライドをどうにか取り繕うようにして、這々の体で取り巻きの貴族たちを引き連れ、足早に去っていく皇太子の背中。
その不快な害虫の姿が完全に夜会会場から消え去り、周囲の貴族たちの視線が外れた、まさにその瞬間であった。アルシードは大公としての完璧な仮面をかなぐり捨て、激しい胃の痛みに襲われて身をよじった。
(胃が……! 俺の胃が完全に限界突破して、さっきから凄まじい勢いで崩壊している……!!)
背中の冷や汗はすでに二リットルは噴き出しており、大公の格式高い理性が悲鳴を上げている。
そこへ、見事な手際で素早く着替えを終え、非の打ち所がない美しい正装を纏った忠実な側近ハンスが、何食わぬ顔で戻ってきた。
「よくぞご無事で、我が主。皇太子殿下を完璧に圧倒されるお姿、誠に見事でございました」
衣服を赤ワインで全弾汚されたことなど微塵も感じさせない、あまりにも頼もしすぎる側近の帰還。
(ハンス、後で絶対に帝国一の仕立て屋に連れていって、最高の一着を買ってやるからな……!)
アルシードは内心、涙目で激しく感激するのだった。
* * *
──アルシードが伏魔殿で命と胃を削りながら孤独な防衛戦を繰り広げているとは、夢にも思わないオルブライト伯爵邸の夜。
そこでは、ガルフォードと、ゲラルトの将軍コンビが、居間の地図を囲んで大真面目に腕を組んでいた。
「ゲラルトよ、大公めが夜会に一人で行くなど、メリッサ以外の女と浮名を流すに違いなかろう! 我が孫娘の名誉は、この大将軍ガルフォードが命を賭して守らねばならん!」
「はっ、父上のおっしゃる通りです!既にローゼンバーグ公爵邸の周囲には、我が軍の精鋭たる隠密部隊を五十名、完全に潜伏させてあります。大公が万が一にも不実の暴挙に出たその刹那、一連の信号弾を以て公爵邸ごと法的に、かつ軍事的に包囲し、跡形もなく消し飛ばす手はずは完了しております!」
国家最高峰の武力を私物化し、ただの「身内の過保護」というズレきった動機で完璧な迎撃包囲網(夜回り)を構築している将軍コンビ。夜中に急に呼び出され、冷や汗を流しながら公爵邸の茂みに潜んでいる兵士たちにとっては、これ以上ない国家規模の災難であった。
「お祖父様もお父様も、大袈裟なんだから」
そんな男たちの凄まじい暴走を前に、お淑やかなパジャマ姿のメリッサは、居間のソファで可憐に微笑んでいた。
夜会の裏で渦巻いている皇太子の下劣な妄想や、国家規模の陰謀など、世間知らずな彼女は知る由もない。
(夜中に急に呼び出される兵士の皆様も、本当に大変ねぇ……)
ただ、借り出された部下たちの苦労を素朴に思いやっているのだ。
「そんなに心配しなくても、閣下は約束(契約)を違えるような不誠実な真似をするお方ではないのに……」
アルシードの真面目で優しい本質を純粋に信頼しながら、メリッサは目の前の皿に視線を落とした。そこには、シグルドが妹のためにと買ってきてくれた至高のタルトが鎮座している。
フォークで小さく切り分け、気持ち良く開けた口へと運ぶ。
「……それにしても、シグルドお兄様が買ってきてくれるこのタルトは、いつ食べても本当に美味しいわね」
甘美な果実の味わいに、メリッサはご満悦の笑みを浮かべた。と同時に、彼女の脳裏に、先日の隠れ家レストランでの楽しかった記憶が、甘やかに、そしてサラリとよみがえる。
(……あの個室での閣下、ずいぶんと調子が狂っていて可笑しかったわ)
いつも完璧な大公を気取っているくせに、うっかり「俺……」と口を滑らせて漆黒の瞳を大慌てで泳がせたり。こちらの熱烈なおねだりに呆れ果て、拗ねたような口調になりながらも、好物の前菜をそっとこちらの皿へ差し出してくれた、あの飾らないフランクな姿。
「うふふ。本当に、楽しいお喋りだった。また連れて行ってくれるかしら」
あの大公閣下が、今まさにこの瞬間、かつて自分が放った「胃が痛む原因は皇太子殿下じゃないかしら?」というあの日の軽口の通り、その皇太子の下劣な毒から自分の名誉を守るために胃を千切れんばかりに痛めて戦い抜いたとは夢にも思わず、大切な婚約者との次の逢瀬に想いを馳せながら、可憐に、そしてのんきに夜食のタルトを味わうのだった。




