黒薔薇の矜持、毒を制す
漆黒の夜会服を纏ったアルシードが、満面に極上の冷徹な微笑で真後ろに降臨した瞬間、皇太子ジュリアンはあからさまに肩をびくりと震わせた。
しかし、周囲には多くの取り巻きの貴族たちが目を光らせている。ジュリアンはすぐに大嫌いな、長きにわたり目の上のたんこぶであった出来の良すぎる従兄弟に向けて、不快げに顔を歪めながら浅薄なニヤけ面を張り付けた。
「気配もなく不敬だぞ、アルシード。私の言葉が的外れだと? 隠したところで無駄だ。お前のその傲慢な独占欲のせいで、可憐なメリッサが涙を流して震えていることは、この私にはすべて分かっているのだ!」
当然のように婚約者を呼び捨てにし、天を仰ぎたくなるような勘違いの暴走を堂々と披露するジュリアン。
それを正面から浴びたアルシードの脳内では、大公としての品格をどうにか維持した真顔の裏で、冷ややかなツッコミが本日何度目かも分からぬ勢いで炸裂していた。
(震えている……!? 窓から飛び降りて木に登るようなあのじゃじゃ馬が、私のせいで怯えて涙を流すとでも思っているのか……!? むしろ風が吹いて倒れるのは、あいつの野生の体幹能力に完膚なきまでにへし折られた、私のプレイボーイとしての至高のプライドの方だ!!)
しかし、ハンスなき今、自分自身が完璧な『盾』としてこの害虫を駆除せねばならない。アルシードは百戦錬磨のプレイボーイの瞳に極上の熱を帯びさせ、まるで夜のバルコニーで愛を歌う詩人のように、うっとりと陶酔した様子で天を仰いだ。
「殿下、それは我が至高の白薔薇への大いなる誤解でございます。メリッサ嬢は、殿下が案じるような脆弱な花ではございません。私と彼女の絆は、殿下の想像を遥かに絶するほど強固なもの。事実、彼女は二人きりの場では、私の愛の囁きに熱く愛らしく頬を染め(※共感性羞恥による顔面紅潮)、私のリードに一ミリのよろめきもなく、その身をすべて私に委ねて(※転ばされないための純粋な物理的自己防衛)くれるのです。ああ、思い出しても胸が焦がれる……! 彼女のあの凛とした美しさを前に、溺れない男などこの世に存在しましょうか!」
衆目の前で恥ずかしげもなく繰り出された、聞いている周囲の貴族たちすら共感性羞恥で身悶えするような、熱烈かつ病的で痛々しい溺愛マウントの猛連打。
むつまじい相思相愛アピールを至近距離で浴びたジュリアンは、屈辱と怒りのあまりに顔を真っ赤にして激昂し、周囲の目を忘れて声を荒らげた。
「認めん、認めんぞ大公! そんなものはすべてお前の傲慢な思い込みだ! 怯えたメリッサが、お前の権力に仕方なく合わせているだけに決まっている!!」
絶対に自分の歪んだ妄想を曲げない皇太子は、さらに顔を近づけ、大嫌いな従兄弟を見下すように醜悪な薄笑いを浮かべた。その口から飛び出したのは、あまりにも独善的で、二人の関係を汚す不敬な言葉であった。
「アルシード、お前はそうやって優位な立場を利用し、あの清らかな彼女を脅して服従させ……果ては、人目を忍ぶ暗がりのなか、己の不潔な欲望のままに彼女のすべてを慰み物にしているのだろう! 私のメリッサを、お前の傲慢な慰安のためにその純潔を損なう玩具にするなど、この私が、未来の皇帝として断じて許さんぞ……!」
自分がメリッサを手中に収めて行いたい下劣な妄想を、そのまま大公へと投影し、さも正義の裁きを下すかのようにのたまう独善極まる邪推の産物。その傲慢な仮面の裏には、大嫌いな男が「自分の欲してやまない至宝」を好き放題に貪っていることへの、煮えくり返るような嫉妬と執念がねっとりと張り付いていた。
実際には、口説こうとしては華麗にスルーされ、彼女の野生の体幹能力にプレイボーイとしての尊厳をへし折られ、オルブライト家の男たちの殺気にガタガタと怯える日々を送っている苦労人のアルシードに対し、これほど不名誉で的外れな侮辱があるだろうか。
だが、そのあまりにも非礼で下劣な発言を耳にした瞬間───アルシードの脳裏から、それまで必死に抱えていた胃の痛みや、痛い男の演技(虚像の熱情)が、一瞬にして綺麗さっぱり消え失せた。
代わりに湧き上がったのは、極秘契約の『盾』としての至高の義務感。
そして、何よりあの逞しく、自分に心地よい敗北感をくれた大切な女性の尊厳を、このような醜悪な害虫の妄想によって汚されてなるものかという、一人の男としての、冷徹極まる本気の怒りであった。
「──…そこまでになさいませ、皇太子殿下」
アルシードの瞳から「痛さ」が完全に消え失せ、満面に張り付いていた極上スマイルが、すっと凍りついた。
大公としての本物の覇気が会場全体を支配し、出来の良すぎる従兄弟としての本物の『格の違い』を見せつけるかのように、ジュリアンを冷徹に射すくめる。その圧倒的な威圧感は、周囲の取り巻きの貴族たちの言葉を奪い、夜会会場の空気を一瞬にして氷点下へと叩き落とした。
「殿下のその薄汚い妄執で、我が婚約者を、そして我らの絆を汚すことは断じて容認いたしかねます。……それ以上、その不潔な御口でメリッサ嬢を侮辱されるのであれば、たとえ未来の皇帝であっても、私は大公家の全力を以て貴方を徹底的に叩き潰します。相応の対価を支払う覚悟を、今ここで、お決め置きあそばせ」
低く、地を這うような美しい声に宿る、剥き出しの強烈な拒絶と激怒。
最後にあえて最高級の不敬な皮肉を至高の冷徹さで添えられ、普段の軽薄なプレイボーイの面影など微塵もない、圧倒的な強者の威厳を宿した絶対的な眼光に正面から射すくめられ、皇太子ジュリアンは顔を青白くさせて言葉を失い、ただガタガタと喉を鳴らすしかなかった。蛇に睨まれた蛙のように、情けなく一歩を後退りすることしかできない。
孤高の黒薔薇は、今、その完璧な茨の盾を掲げ、不遜なる害虫の息の根を止めるべく真っ向から立ち塞がったのだった。




