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苦闘の黒薔薇、虚像の熱情



 ローゼンバーグ公爵家の初期トラップである「ワイン飛沫の罠」を、哀れな従者ハンスを身代わりにした超絶神回避によって切り抜けたアルシードであったが、その代償は決して小さくはなかった。


 赤ワインを衣服に全弾命中させられ、最高級の濡れ衣を纏う羽目になったハンスは、一切の表情を変えぬまま、無言で魂の白目を剥いている。



「すまないが、すぐに別室で着替えてくれ。……ハンス、後で仕立て屋に最高の一着を注文してやるからな」



 大公としてのエレガントな微笑を崩さぬまま、アルシードは心の中で手を合わせつつ、有能なる従者を下がらせた。ハンスは去り際に、無言で「健闘を祈ります、我が主。私の犠牲を無駄にしないでください」と語るかのような冷徹なアイコンタクトを送り、静かに闇へと消えていった。


 唯一の盾であったハンスの退場。それは、この広大な伏魔殿において、アルシードが完全なる孤立無援になったことを意味していた。


 もう、誰の背中もスライドさせることはできない。背中を伝う冷や汗の量が、二倍にも三倍にも膨れ上がっていくのを感じながら、大公は一人、敵陣の奥へと進まねばならなかった。


 案の定、盾を失った黒薔薇を逃がすまいと、今夜の主催者であるローゼンバーグ公爵直々の「第二波」が仕掛けられる。威厳を纏った公爵が、わざとらしく嘆息を漏らしながらアルシードの行く手を塞いだ。



「大公閣下、今宵は愛しき婚約者殿がお留守の様子。退屈しのぎに、我が娘と一曲いかがですかな? 寂しさを紛らわせるには、ダンスが何よりの特効薬でございますよ」



 外堀を埋め、既成事実という名の浮名を流させようとする、謀略に長けた公爵の圧


 その瞬間、アルシードの脳裏には、近衛騎士隊長であるシグルドの、いかなる死角からの奇襲も許さぬ神速の剣技が再びフラッシュバックした。今度こそ胃の腑が完全にひっくり返るほどの戦慄を覚えながらも、アルシードは喉元まで出かかった悲鳴を最高の気品で押し殺し、熱を帯びた瞳で陶酔するように天を仰いだ。



「お気遣い痛み入ります、公爵。ですが、私には今宵、いかなる淑女の手を取る資格もありません。我が魂の片割れたるメリッサ嬢───ああ、あの至高の白薔薇の可憐な面影が、今この瞬間も私の心のすべてを占有して離さないのです。彼女が微笑むたびに、私の世界には光が満ち、彼女が不在の夜会など、私にとってはただの暗闇も同然。そんな男が、社交の場に交じることが許されるでしょうか」


「お、おぅ……。ですが閣下、ほんの一曲、形だけのステップを踏むだけでございますが……?」



 あまりにも恥ずかしげもなく、まるで真夜中のバルコニーで愛を叫ぶ愛の狩人のような熱量で語り出した大公に、さしもの公爵も顔を引き攣らせ、思わず一歩「ひいて」しまった。しかし、ここで引き下がっては公爵家の野心が潰える。公爵は引き気味のまま、執念で食い下がった。



「我が娘も、閣下とのお手合わせを心待ちにしておるのです。婚約者殿への愛はそれとして、大公としての義務をほんの五分、果たしていただければ……」



 だが、ここで一歩でも譲れば、オルブライト家の『茨』が起動して自分が本物の死体になる。


 公爵は引き気味のまま、しかし目を冷酷な政治家のそれにギラつかせ、執念で食い下がった。



「大公閣下、そう固いことを仰らずとも。───おーい、セレーナ、こちらへおいで」



 公爵がパチンと指を鳴らすと、背後の人だかりから、あらかじめ待機していたであろう彼の愛娘───絶世の美貌を誇る公爵令嬢セレーナが、完璧なタイミングでしとやかに歩み出てきた。



「大公閣下、お久しぶりでございますわ……っ」



 セレーナは頬を薔薇色に染め、潤んだ瞳でアルシードを熱烈に見つめた。彼女はかつて彼の美貌に群がった美女たちの一人であり、今なお大公の熱狂的な信奉者ファンであった。セレーナは再会の喜びに胸をときめかせながら、その白い手を彼の腕へと滑り込ませようと伸ばしてくる。


 ───確実なスキャンダル(既成事実)の構築。


 衆目の中で一度でも大公に触れ、そのままダンスフロアへ連れ出しさえすれば、翌朝の新聞には「大公、ローゼンバーグ公爵令嬢と熱い抱擁」「オルブライト家との婚約に暗雲か」と書き立てられる。公爵側の、逃げ道を完全に塞ぐ必死の波状攻撃であった。


 だが、その手が触れるか触れないかの刹那、アルシードの脳内を、いかなる死角からの奇襲も許さぬ長男シグルドの神速の剣技が再びフラッシュバックした。



(来るなァ! 触るな!! その美しい指先が一ミクロンでも我が皮膚に触れた瞬間、新聞が刷られる前に私は大公邸ごとこの世からデリートされる……!!!)



 極限状態に達したアルシードは、全身の毛穴から冷や汗を爆噴させながら、残像を残すほどの紳士的バックステップで令嬢の手を神回避。


 そして、差し伸べられた彼女の手を、触れぬようにギリギリの距離で、優雅なジェスチャーと共に虚空でエスコートする形を作った。



「お久しぶりですね、麗しきセレーナ嬢。ですが、どうかその清らかな手を私に委ねないでいただきたい。今の私は、あまりにも不吉な夜霧のような男。君のような極上の真珠を、私の冷たさで曇らせてしまうわけにはいかないのです」


「……あ、ああっ……!」



 アルシードとしては「命が惜しいから頼むから一ミリも触るな」というただの生存本能からの懇願だったのだが、プレイボーイ特有の流麗な低音ボイスで囁かれたセレーナは、「私を気遣って、あえて突き放してくださったのね……!」と脳内で完全美化。顔を真っ赤にして胸元を押さえ、ポーッと完全にトランス状態に陥ってしまった。


 娘が使い物にならなくなった瞬間、アルシードはゆっくりと公爵の方へと向き直り、かつて数多の女性を虜にしてきたあの「百戦錬磨のプレイボーイの瞳」を、あろうことか、メリッサへの異常な全肯定へと全開にして公爵へと向けた。



「公爵、分かっていない。あまりにも彼女を愛おしむあまり、他の淑女と手を携えた瞬間、私のステップは容易に狂い、令嬢の美しい足を踏みにじってしまうでしょう。我が愛しのメリッサの髪の輝き、清らかな瞳の輝きに勝るものは、この帝国広しといえど、ただの一つとして存在しないのです。生涯、私の両手は彼女のためだけに捧げられたもの。彼女以外の女性に触れれば、この皮膚が拒絶の悲鳴を上げ、五感がすべて麻痺してしまう。そのような、我が恋の奴隷たる情けない姿を、公爵令嬢に晒すわけにはいかないのです……!」


「ひっ……! さ、左様、でございますか……っ」



 息を吐くように繰り出された、聞いているこちらが共感性羞恥で身悶えするような極甘・激痛台詞の怒涛の連打に、謀略に長けた公爵はついに命の危険を察知したかのように数歩後ずさった。



 (この男、稀代のプレイボーイとは聞いていたが、まさかここまで重症の、狂気すら孕んだ愛妻家(※まだ婚約者)だったとは……。よくもまあ、衆目の前でそんな恥ずかしい妄言を、酔いしれた真顔で言えたものだ……)



公爵の瞳には大公への畏怖ではなく、純然たるドン引きと、関わってはいけない人間を見る色彩が浮かんでいた。



「……お、御見それいたしました。これ以上の無理強いは、大公閣下の『愛』への不敬となりましょう……な」



 公爵が命からがらといった様子で蜘蛛の子を散らすように退散していくのを見届けた後、アルシードは完璧な大公の笑顔を顔面に張り付かせたまま、(よくもまぁ、我ながら次から次へと白々しい台詞を言ったものだ)と、内心で盛大な虚無を抱えて深い溜息を吐いた。


 同時に、彼の脳裏をよぎったのは、あの日オルブライト伯爵邸の木の上から降ってきた、あまりにも残酷な答え合わせの残響であった。


 己が知性とユーモアを尽くした薔薇の歓談は「欠伸を噛み殺すほどの猛烈な退屈」と断じられ、自信満々に放ったキザな台詞は「聞いてるこっちが恥ずかしい共感性羞恥の精神凶器」として全否定され、至近距離に引き寄せた完璧な足さばきすら「転ばされないための純粋な物理的自己防衛」であったという、あの大公としての格式高い知性とプライドがガラガラと完全崩壊した衝撃の記憶。


 我ながら、よくもあのじゃじゃ馬を前に、これほど恥ずかしげもなく溺愛を語れたものである。


 しかし、その手痛いトラウマを思い出す大公の唇には、今や自然と和やかな苦笑が浮かんでいた。中身がどれほど規格外のじゃじゃ馬であろうとも、その圧倒的な生命力を思い出すことだけが、孤独な防衛戦を続けるアルシードの唯一の救いであり、心の拠り所となっていたのだった。


 冷や汗をすべて大公の覇気だけで強引に蒸発させながら、アルシードはさらに会場の奥へと鋭い視線を巡らせる。


 そこで彼の耳に飛び込んできたのは、取り巻きの貴族たちを従え、傲慢な態度でワイングラスを傾けている皇太子ジュリアンの、非常に不快な声であった。



「───あの可憐なメリッサ嬢が、今夜この華やかな場にいないのは何故か分かるか?」



 ジュリアンは独善的なニヤけ面を浮かべ、さも重大な真実を知っているかのように大真面目に語っていた。



「大公の強欲な独占欲のせいで、彼女は屋敷に軟禁され、涙を流しているのだ。風が吹けば倒れてしまうようなか弱い白薔薇が、あのような冷酷な男の傍で怯えていると思うと、私の胸は痛む。だからこそ、私がこの夜会の裏で、彼女を大公の手から救い出す計画をローゼンバーグ公爵と進めてやるのだ。彼女を真に庇護できるのは、この私だけなのだからな」



 天を仰ぎたくなるような、あまりにも的外れな勘違いの暴走。それを背後で盗み聞きしたアルシードの脳内では、大公としての品格をどうにか維持した、静かだが激しいツッコミが炸裂していた。



(軟禁どころか、あいつは今頃家でのんきにタルトでも頬張っているよ……! しかもお前が怯えていると憐れんでいるその白薔薇は、数日前の茶会で、公爵家のお嬢様方を集団卒倒させ、更地にして帰っていった逞しいじゃじゃ馬娘だからな……!!)



 ジュリアンの救いようのない妄想に胃の痛みを覚えつつも、アルシードの胸には、メリッサとの極秘契約における『盾』としての冷徹な義務感と怒りが、静かに灯り始めていた。


 これ以上、あのたわけに彼女の平穏を汚させてなるものか。


 ジュリアンがさらに不敬な独白を続けようとした、まさにその瞬間。 アルシードは満面の極上な冷徹スマイルを浮かべ、気配を完全に消したまま、静かに皇太子の真後ろへと降臨した。



「それは些か、的外れが過ぎる御高説ですな、皇太子殿下」



 低く、地を幾重にも這うような美しい声が、ジュリアンの背中を凍らせる。


 振り返る皇太子の驚愕の表情を正面から見据え、二人の視線がバチバチと火花を散らした。国家の未来を揺るがす、大公と皇太子の舌戦──その開幕のゴングが、今、静かに鳴り響いたのだった。



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