孤独の黒薔薇、茨なき温室の謀略
人知れず冷や汗を流しながら、片道一時間の苦行とも思える道のりを耐え抜き、馬車はついに、眩い光に彩られたローゼンバーグ公爵家の本邸へと到着する。
馬車の扉が開いた瞬間、アルシードは己の脆弱な内面をすべて消し去り、最高に格好良い大公としての冷徹な仮面を完璧に被り直し、豪奢な夜会会場へと足を踏み入れた。
燦然たるシャンデリアの光の下、漆黒の極上な夜会服を纏った大公の降臨に、煌びやかな会場が一瞬にして静まり返った。それはまるで、夜の支配者が降臨したかの如き、神々しいまでの覇気であった。
「まあ……ベルンシュタイン大公閣下よ……」
「今宵は、婚約者様を置いてお一人で来られたのね……?」
会場の淑女たちが一斉に色めき立ち、熱い視線がアルシードへと集中する。世間は彼を、一人の令嬢に溺愛中とはいえ、本質は「冷徹で気まぐれなプレイボーイ」だと見ている。その美貌に群がる美女たちの誘惑という名の弾幕が、今、容赦なく大公へと襲いかかろうとしていた。
だが、その完璧な微笑の裏側で、アルシードの内心は極限の緊張感に支配されていた。 何故なら、彼はオルブライト家との極秘契約を結んで以来、すでに三ヶ月ものあいだ、過酷極まる「絶対不可侵の貞操義務」を強いられているのだ。
視界に飛び込んでくるのは、色とりどりの豪奢なドレスを纏った、美しき帝国のご婦人方の姿。それぞれが大公の寵愛を、あるいはその隙を狙わんと、艶やかな微笑みを湛えて彼を取り囲んでいる。
そのうちの一人、とりわけ妖艶な雰囲気を纏った令嬢が、誘うような視線を投げかけながら、アルシードのすぐ傍をゆっくりと横切っていった。
(美しい……。大胆に背中を晒したドレスの、なんと扇情的なことか。すれ違いざまに漂う甘やかな香水の香りが、男としての本能を狂わせかねない……)
血気盛んな二十七歳の健全な男性として、本能的な揺らぎが一瞬だけ脳裏をかすめる。プレイボーイの血が騒ぎかけた、その刹那であった。
アルシードの脳裏に、大将軍ガルフォードが怒髪天を衝いて大公邸を文字通り塵一つ残さず消し飛ばさんとする恐るべき光景と、将軍ゲラルトが軍隊規模の圧倒的な制裁を引っ提げて進軍してくる最悪の幻影が、ありありと浮かび上がった。
(………死ぬ!! 精神的にも肉体的にも、一ミクロンでも不謹慎な接触を許せば、私は確実なる死体と化す!!!)
凄まじい恐怖によって煩悩は一瞬で氷解し、アルシードは背中にじっとりと冷や汗を流した。
──だが、本当の地獄はここからだった。冷や汗を拭う隙すら、この戦場(夜会)は与えてくれない。
そこへ、公爵家の息がかかった一人の淑女が、ドレスの裾を自ら踏んで「きゃっ」と可憐な悲鳴を上げながら、アルシードの胸元へと倒れ込んできた。
常人の紳士ならば華麗に抱き留めるところだが、アルシードの脳内では、近衛騎士隊長シグルドの、いかなる死角からの奇襲も許さぬ神速の剣技がフラッシュバックしていた。触れれば即座に処刑執行、取り返しのつかない肉体的破滅を迎えると本気で怯えたアルシードは、残像を残すほどの紳士的ステップを繰り出し、見事な体捌きで半歩身をかわした。
宙を舞った令嬢は、そのまま隣にいた無関係な侯爵の胸元へと、綺麗な放物線を描いて不時着していく。
「失礼。そちらの侯爵が、あまりにも熱烈な眼差しであなたを案じておられたようでしたので、お譲りしたのです」
大公の完璧な微笑みを崩さぬまま、エレガントに流す。
(危なかった……! 一歩間違えれば、明日の朝には大公の爵位ごと歴史から抹消されるところだった……!)
辛うじて胸を撫で下ろしたアルシードだったが、ローゼンバーグ公爵家の波状攻撃は止まらない。間髪入れずに、さらなる第二の刺客が動いた。別の淑女が「大公閣下、今宵の良き日に乾杯を……」と、衣服を汚して『着替えのための別室』という名の密室へ連れ込むべく、わざとらしく体勢を崩してワイングラスの液体をぶちまけようとしてきたのだ。
アルシードの脳裏に、宰相補佐であるヴィンセントが、冷徹な無表情で大公家取り潰しの法的書類を突きつけてくる幻影がよぎる。
(嫌だ……! あいつの目は本物だ……! 合法的に俺の人生を虚無に還すつもりだ……!)
あまりの恐怖に胃を雑巾のように絞られる痛みを覚えながら、グラスが傾いた瞬間、アルシードは大公としての格式高い美声を会場に響かせた。
「おや、いけません。お足元が些かお悪いようです。どなたか、この麗しき淑女に相応しい、頑健な椅子を用意して差し上げてください」
流麗な声と同時に、アルシードは背後に控えていた哀れな従者ハンスの背中を、神速の平手打ちで前方へとスライドさせた。
バシャリ、と無残な音が響き、ハンスの最高級の衣服に赤ワインが全弾命中する。ハンスは一切の表情を変えぬまま、無言で魂の白目を剥いた。
「我が有能なる従者が、その不器用な祝杯をすべて受け止めてくれたようです。誠に申し訳ありませんが、これ以上の粗相の前に、私は彼の着替えを手配せねばならなくてね」
一切の隙を与えない超絶神回避(完全なる紳士的対応)によって、アルシードはローゼンバーグ公爵家の仕掛けた初期トラップをノーダメージで切り抜けた。背中の冷や汗を大公の気品だけで強引に蒸発させながら、アルシードは会場の奥へと鋭い視線を巡らせる。
そこで彼の目に飛び込んできたのは、ローゼンバーグ公爵と何やら密談を交わしながら、浅薄なニヤけ面を浮かべている皇太子ジュリアンの姿であった。 あのたわけた皇太子は、メリッサがいないこの夜会を利用し、裏で彼女を囲い込むための陰湿な罠を公爵家と共に進めているに違いない。
「ジュリアンめ……やはり動く気か」
アルシードの脳裏に、あの居間でタルトを頬張っていた、規格外に逞しきじゃじゃ馬の笑顔がよぎる。
世間には「風が吹けば倒れてしまう、守ってあげねばならない清らかな白薔薇」と徹底的に隠匿されている彼女だが、その内面には圧倒的な生命力が宿っている。そのギャップに対する心地よい敗北感が、アルシードの胸をほんの少しだけ熱くした。
だが、表向きは儚げな令嬢として振る舞わねばならない以上、政治的な最高権力側の卑劣な罠を、彼女一人に弾き返させるわけにはいかない。
「……思い上がるなよ、ジュリアン。彼女の前にはこの俺が『盾』として立ち塞がっているのだ。そう簡単に、貴様の思い通りになると思うな」
まだそれが恋であるとは微塵も自覚していない大公は、婚約者としての、そして契約者としての至高の使命感をその身に漲らせた。黒薔薇の進軍の如き冷徹な決意を胸に、皇太子の待つ戦場へと歩みを進めるのだった。




