白薔薇の残響、黒薔薇の進軍
ガラルディア帝国の夜を切り裂き、一台の豪奢な馬車が疾走していた。
車内に佇むのは、稀代のプレイボーイと謳われる大公アルシード・フォン・ベルンシュタイン。
普段であれば、いかなる夜会に向かう道中であっても不敵な微笑を崩さぬ男が、今宵は珍しく、冷徹な面持ちで窓の外の闇を見つめていた。
ローゼンバーグ公爵家の夜会が催される本邸までは、片道一時間の道のりである。 一人きりの静寂の中、アルシードの脳裏に、数日前の出来事が鮮やかによみがえっていた。
───それは、数日前のことである。 ローゼンバーグ公爵家がメリッサを標的にしたお茶会を画策していると知った瞬間、アルシードはかつてない戦慄に突き動かされていた。
大公家との縁談を狙う公爵家が、偽装婚約の相手であるメリッサを呼び出したのだ。これがただのお茶会であるはずがない。大公家との婚約を力尽くで破談に追い込むための、冷酷な政治的陰謀に違いない──。 あのじゃじゃ馬娘が、国家規模の恐ろしい罠に嵌められ、逃げ場のない窮地に陥っているのではないか。 最悪の事態を想定したアルシードは、大公としての体裁も忘れ、文字通り大慌てでオルブライト伯爵邸へと馬車を走らせ、不躾にもその門を叩いたのだった。
ところが、息を切らせて通された家族の居間で、アルシードの目に飛び込んできたのは、あまりにも予想外の光景であった。
「あら、閣下。そんなに慌ててどうなさったの?」
そこには、のんきにタルトを頬張っているメリッサの姿があった。 さらにその隣では、妹と共におやつを嗜んでいたらしい近衛騎士隊長であるシグルドが、予期せぬ大公の襲来に対し、フォークを握りしめたまま居間全体の空気を凍らせるほどの強烈な殺気を放ってアルシードを睨みつけていた。
その剥き出しの双眸は、(大公め、可愛いメイが『おいしい』と呟く予定であった至高の一秒を、よくもその無粋な足音で遮ってくれたな。我が妹の視界からタルトの色彩を遮ったその所業……許すまじ!)と、雄弁に語っている。
シグルドから放たれる凄まじい威圧感に喉を鳴らし、背中にじっとりと冷や汗を流しつつも、アルシードは大公としての格式高い理性をどうにか総動員し、言葉を絞り出した。
「……失礼。少々、急ぎ確認したいことがありましてね」
アルシードはメリッサの傍らまで進み入ると、いまだ整いきらぬ呼吸をどうにか落ち着かせながら、静かに声をかける。
「メリッサ嬢。本日は、ローゼンバーグ公爵家の茶会に出席されたと聞き及びましたが……」
「あら、さすが。閣下のお耳に入っていたのね。とっても楽しいお茶会だったわ」
屈託のない笑顔でそう答えるメリッサの様子に、アルシードは完全に拍子抜けしてしまった。
政争の道具にされた彼女が、公爵家の恐ろしい罠にかかって涙を流しているかもしれない───そんな己の悲壮な覚悟が、一瞬にして宙に浮く。
「……ただの、茶会だったと……?」
呆然としたまま、アルシードは声を絞り出すようにして問い返した。
「ええ。皆様、とても熱烈に閣下のことをお話ししてくださったの。だから私も、閣下は私の前では飾らないお姿で、先日も拗ねて前菜をくださるような、とても気さくでお優しいお方ですとお伝えしたのよ。そうしたらなぜか皆様、急に眩暈を起こして倒れてしまわれて……」
メリッサはタルトをフォークで小さく切り分けながら、不思議そうに首を傾げた。
「社交界のご令嬢方というのは、ずいぶんと貧血になりやすい繊細な生き物なのね。私、驚いてしまったわ」
「君は一体、何をしてきたんだ……!?」
思わずこめかみを押さえたアルシードに、メリッサは最後の一口となったタルトを上品に口へと運び、実になめらかな所作で咀嚼した。
「事実をありのままに、極めて好意的にご報告しただけよ? 世間の皆様が仰る『冷徹で気まぐれなプレイボーイ大公』だなんて噂がいかに的外れか、実際は私におねだりされて好物の前菜をそっと差し出してくださるような、ずいぶんと調子の狂ったお優しいお方なのだと、彼女たちの歪んだ大公像を正して差し上げたの。感謝されてもいいくらいだわ」
「……そ…それは、世間一般では『最悪の惚気』と呼ぶんだ……!」
アルシードはついに、両手で顔を覆って天を仰いだ。 稀代のプレイボーイたる大公が、婚約者の前でだけ格好をつけるのを諦め、素の口調で拗ねて前菜を略奪されている。そんな事実を、大公の寵愛を狙う伏魔殿のお嬢様方に最高級の笑顔で叩きつければ、それは「一目惚れの気まぐれ」などという生ぬるい噂を、一瞬で「特別枠の超絶溺愛」という致死量の現実へと塗り替える最悪の兵器と化す。
彼女たちが受けたのは、精神攻撃ではなく、純然たる物理的敗北であった。その結果が、お茶会会場の集団卒倒という惨劇なのである。
だが、この天然のじゃじゃ馬娘は、己の引き起こした更地を前にしてもなお、一ミリも事の重大さを理解していない。
「……くっ、ふふっ、…はっ…ははは…っ!」
天を仰いだまま、アルシードの口から堪えきれない笑いが漏れ、やがてそれは居間に響き渡る朗らかな爆笑へと変わった。 あまりの愉快さに腹を抱えて笑い出す大公の姿に、それまで殺気を放っていたシグルドも、フォークを持ったままメリッサと二人で怪訝そうに首を傾げ、不審の目を向けている。
「いや、メリッサ嬢……君はやはり、相当逞しいな」
涙の滲んだ目元を指先で拭いながら、アルシードは心からの感心と共に、彼女に危害が及んでいなかったことへの深い安堵の息を漏らしたのだった。
* * *
───ガタゴトと、夜道を走る馬車の心地よい振動が、アルシードの意識を現在の車内へと引き戻した。
一人きりの豪奢な空間のなか、アルシードの唇には、数日前を思い出しての和やかな苦笑がそのまま残っていた。あのじゃじゃ馬の規格外の無双っぷりは、今考えても可笑しさが込み上げてくる。
しかし、視線を窓の外の闇へと移した瞬間、アルシードはその穏やかな苦笑をすっと消し去り、大公としての冷徹な面持ちへと表情を引き締めた。
数日前の茶会は、メリッサの規格外の逞しさによって事なきを得た。
だが、今宵自分が片道一時間かけて突入しようとしているローゼンバーグ公爵家の夜会は、そうはいかない。あの場に渦巻いているのは、女の僻みなどという可愛らしいものではなく、国家の根を揺るがす本物の政治的陰謀なのだから。
大公家とオルブライト伯爵家との間で交わされた、偽装婚約の誓約書。 その中には、双方の合意のもとに刻まれた、絶対に破ってはならない鉄の条項が存在している。
───『契約期間中、ベルンシュタイン大公は一切の放蕩、および他の淑女との浮名を流すことを禁ずる』
大公閣下がメリッサに一目惚れをして、熱烈に求愛したという世間への筋書きがある以上、彼が他の淑女と浮名を流すような真似をすれば、メリッサは社交界一の笑い者になってしまう。 もちろん、アルシードに他の女を口説く気などこれっぽっちもない。だが、今夜の伏魔殿で、罠によって「他の女と過ちを犯した」という嘘の醜聞でも流されようものなら、その瞬間に契約は破棄され、公爵家からの執拗な縁談攻勢が再開することになる。
なにより恐ろしいのは、その嘘の醜聞が世間に露呈した瞬間に待ち受ける、物理的な破滅であった。 もしも自分が他の淑女と不適切な距離にいたなどという偽りの噂が、一ミクロンでも社交界に流れてみろ。 その瞬間に、オルブライト伯爵家が誇る最凶の『茨』───すなわち、大将軍ガルフォード、将軍ゲラルト、近衛騎士隊長シグルド、そして宰相補佐ヴィンセントの四名が、一切の問答を無用として愛娘の、あるいは愛妹の受けた侮辱を晴らすべく、大公邸へと物理的に進軍してくることは火を見るより明らかであった。
彼らは国家最高峰の武力と権力を大真面目に私物化し、アルシードの釈明など一秒たりとも聞く耳を持たず、自慢の剣技と戦略によって大公家を文字通り根こそぎ叩きつぶしにくるに違いない。 あの過保護の塊のような男たちに、「浮気者の大公め、我が家の至宝たるメリッサを愚弄した罪、万死に値する!」と大真面目な顔で攻め込まれれば、いかに大公の私兵とてひとたまりもない。国家規模の内乱が、ただの「身内の過保護」というズレきった動機で勃発してしまうのだ。
「……絶対に、あいつらの『茨』を起動させるわけにはいかない」
アルシードは馬車の座席で、じっとりと背中に冷や汗を流しながら、固く拳を握りしめた。
今宵の夜会は、ただの社交の場ではない。自分の政治的生命と、大公邸の物理的存続、そして国家の平和を賭けた、絶対に負けられない戦いなのだ。
だが、自身の命の危機以上に、アルシードの胃を千切れんばかりに痛めつけているのは、もう一つの最悪な予測であった。
脳裏に浮かぶのは、非常に不躾で、見る者の神経を逆撫でする嫌な空気を纏った皇太子ジュリアンの、あの浅薄なニヤけ面である。
あの男の頭脳は、恐ろしいほどの独善と都合の良い解釈で満たされていた。あろうことか「メリッサは私を慕っているが、大公の権力に脅されて涙を流しているのだ」などという、天を仰ぎたくなるようなストーカー紛いの大いなる勘違いを暴走させているのだ。
そんな皇太子が、大公家との縁談を狙う公爵家と手を組み、この夜会の裏でメリッサを囲い込むような陰謀を巡らせていないとも限らない。
中身がどれほど公爵家のお嬢様方を集団卒倒させる逞しきじゃじゃ馬とはいえ、相手は帝国の未来を担う次期最高権力者、皇太子ジュリアンだ。表向きはあくまで「儚げな深窓の令嬢」として振る舞わねばならない彼女が、もしもあのたわけ者の卑劣な罠に嵌まり、その手中に落ちるようなことがあれば、彼女の淑女としての人生は本当に終わってしまう。
「……絶対に、あのような男の手にメリッサ嬢を渡すわけにはいかない」
己の名誉と命、保持すべき品格、そしてようやく気楽に笑い合えるようになってきた大切な婚約者の安寧を守るため、アルシードは暗闇の中で拳を固く握りしめた。
一歩足を踏み外せば、国家規模の政変と、オルブライト家による物理的かつ法的な処刑が同時に爆発する。 今宵の夜会は、一瞬たりとも油断の許されぬ、己の生涯において最も不穏で苛烈な一夜となるに違いなかった。




