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伏魔殿の洗礼、白薔薇の進軍



 オルブライト伯爵邸。その私室にて、メリッサはブルーの瞳を輝かせながら、姿見の前でドレスの裾を整えていた。


 手元にあるのは、ローゼンバーグ公爵夫人から届けられた一通の招待状。それは、名門貴族の令嬢たちが集う高雅なお茶会への誘いであった。



「やめるんだ、メイ! 行ってはならん、絶対に罠だ! あの大公の婚約者になったからと、面白半分に呼び出して手ぐすね引いている害虫どもの巣窟に決まっている!」



 部屋の扉を破らんばかりの勢いで猛反対の声を挙げていたのは、近衛騎士隊長であるシグルドであった。その後ろでは、将軍ゲラルトも腕を組み、いつでも出陣できるほどの強烈な殺気を滾らせている。


 無理もない。帝国一の美女と謳われるメリッサは、オルブライト家の男たちの過剰な保護のせいで、出席する夜会や舞踏会は数ヶ月に一度の厳選された公式の場に限られていた。蝶よ花よと大切に、ドロドロとした人間関係とは無縁な白い世界で隠匿されて育ってきたのだ。そのため、同世代の令嬢たちが私的に集う「お茶会」の空気感など、人生で経験したことがない。



「まあ、お兄様。偽りとはいえ大公閣下の婚約者となったんだもの。公爵夫人からの直々のお誘いを断るわけにはいかないでしょう?」



 メリッサはもっともらしい表向きの正論を口にした。



(───断るわけがないでしょう。数ヶ月に一度の退屈な公式舞踏会より、大公閣下の婚約者という立場だからこそ届いたこの招待状のほうが、よっぽど興味深いわ。一体どんなお上品なやり取りが繰り広げられるのかしら)



 内に秘めた確かな好奇心を完璧に隠蔽し、メリッサは兄たちの包囲網を鮮やかに押し切って、初めての「お茶会」へと出陣したのだった。


*  *  *


 ローゼンバーグ公爵家の豪奢なサロン。 大公の婚約者の座を掠め取った「憎き伯爵令嬢」を品定めしてやろうと、僻み根性を丸出しにした令嬢たちが今か今かと待ち構えるなか、豪奢な双開きの扉が静かに開かれた。


 ───その瞬間、サロンにいた全員の呼吸が、物理的に停止した。


 一歩、足を踏み入れてきたメリッサの、神々しいまでの美貌を初めて目にした令嬢たちの脳内は、凄まじい衝撃によって一瞬で消し飛ばされたのである。


 完璧にコントロールされた、一ミリの無駄もない優雅な足さばき。身に纏う純白のドレスをこれ以上ないほど高貴に輝かせる、雪のように透き通った白い肌。そして、ガラス細工のように繊細で美しい、お淑やかな微笑み。


 その神聖な姿を最前列で迎え撃ち、誰よりも鋭い品定めの視線を送っていたのは、今宵の主催者の娘であり、大公の元取り巻きの筆頭格たるローゼンバーグ公爵令嬢セレーナであった。


 大公妃の座を射止めるのは自分だと信じて疑わなかった彼女は、恋敵のあまりに神々しいまでの美しさを前に、扇子を握る手をワナワナと震わせ、心の中で絶叫した。



『こ……こんなにも美しいなんて聞いてないわ! いいえ、待って! でも、私の方がよっぽど大人の色気が……っ。───って、なんてこと!? 色気がないくせに、私より遥かに豊かな胸元をしているわ……! なんて生意気なのかしら! よく見たらお肌も、人間のものとは思えないほど透き通って……!!』



 美貌、気品、そして発育。あらゆる面での圧倒的な格の違いを悟ったセレーナは、脳内で泡を吹いて自爆。彼女がガタガタと目眩を起こしたのを合図にするかのように、周囲の令嬢たちもメリッサのあまりの暴力的な美しさに圧倒され、唖然と立ち尽くすばかりであった。


 この氷結した室内の中、メリッサは完璧な「帝国一の美女」の仮面を被ったまま、誰に対しても非の打ち所がない、完璧な宮廷作法で淑やかに一礼してみせた。



「皆様、ごきげんよう。オルブライト伯爵家が娘、メリッサにございます。本日はこのような華やかなお茶会にお招きいただき、身に余る光栄に存じますわ」



 鈴を転がすような清らかな美声がサロンに響き渡り、令嬢たちはさらに息を呑む。 この圧倒的な主導権を奪われた空間のなかで、主宰者であるローゼンバーグ公爵夫人が、最高大貴族としての品格を誇示するように、ゆったりと扇子を閉じて立ち上がった。その微笑みは極めて優雅でありながら、瞳の奥には冷酷な光が灯っている。



「ようこそおいでくださいました、メリッサ様。ベルンシュタイン大公閣下をこれほどまでに夢中にさせた麗しき薔薇に、こうして直々にお目にかかれましたこと、私共にとっても大変な歓びでございますわ。……さあ、どうぞこちらへ。滅多に社交界に姿を現さないあなたのために、本日は特別な『おもてなし』をご用意いたしましたのよ?」



 公爵夫人としての至高の品格を保ったまま、声音の端々に不穏な刺を混ぜ込んだ、完璧な挨拶。 それを受けるメリッサは、ガラス細工の如き笑顔のまま、ブルーの瞳をますます優美に輝かせた。


 ローゼンバーグ公爵夫人に促され、メリッサは勧められた上等な一人がけの椅子へと、吸い込まれるように優雅に着席した。その流れるような所作は、まさに完璧に躾けられた深窓の令嬢そのものである。


 しかし、彼女が席についた瞬間から、お茶会の美しい包装紙に包まれた「いびり」は、静かに、かつ確実に開幕していた。


 まず運ばれてきたのは、陶器の最高峰と名高い窯の茶器であったが、そこに注がれた紅茶の香りは、驚くほどに薄く、調和を欠いていた。最高貴族のサロンであるにもかかわらず、わざと格下の扱う安物の古茶を、新参者のメリッサに差し出すという露骨なマナーの罠である。


 さらに、メリッサが口をつけるよりも早く、公爵夫人の傍らに侍る高慢な取り巻きの令嬢が、広げた扇子の隙間からクスクスと冷ややかな笑みを漏らした。



「まぁ、メリッサ様。お茶はお口に合いますかしら? オルブライト家といえば国を守る高名な武門ですけれど、失礼ながら爵位は中間の伯爵でいらっしゃいますもの。滅多に社交界へお姿を現さないのも、こうした高雅な宮廷の薫りに馴染めず、退屈されていらっしゃるからかしら?」



 歓迎を装う笑顔の裏から、あからさまに家柄の爵位を格下げし、社交界の経験不足を「世間知らず」と嘲笑う、慇懃無礼な嫌みの先制攻撃。


 普通に物怖じする一般的な令嬢であれば、その冷徹な空気と侮辱にショックを受け、身をすくめて涙を浮かべるところだろう。だが、そんな可憐な悲劇は天地がひっくり返ってもメリッサには起こり得なかった。


 ただ、彼女のブルーの瞳の奥には、今までにない新鮮な衝撃が走っていた。



(───ふぅーん。表向きは親切な歓待の形を取りながら、こうして回りくどい言葉とお茶の質で嫌がらせをするものなのね。いつも正々堂々としてらっしゃるお兄様方とは、ぜんぜん勝手が違うのね)



 これまでの白い世界では見たこともない、社交界のドロドロとした陰湿な生態系。メリッサは傷つくどころか、それを極めて冷静に、一種の知的好奇心をもって見つめていた。


 メリッサは、ガラス細工のように美しいお淑やかな微笑みを絶やさぬまま、表面上は穏やかに、臨戦態勢の筋肉をドレスの袖のなかに隠して、誰よりも気品に満ちた声音で応じた。



「お気遣い、恐れ入りますわ。我が家は数ヶ月に一度の公式舞踏会へ重きを置いておりますゆえ、このような私的なお茶会の薫りは、とても新鮮で勉強になりますわ。公爵夫人のおもてなしの深さ、しかと堪能させていただいております」



 嫌みを一ミリも真に受けず、むしろ「私的で小さな集まりは新鮮だわ」と完璧なお上品笑顔のまま受け流してみせたのだ。


 当てが外れて眉をひそめる令嬢たちの間で、サロンの空気はさらに奇妙な苛立ちを孕んでいく。そして、メリッサの崩れない美貌へのジェラシーは、ついに言葉の嫌みから、より直接的で物理的な嫌がらせへと舵を切らせることとなる。



「あら、ごめんなさい……!」



 わざとらしい悲鳴と共に、給仕から受け取ったばかりの淹れたての紅茶が、メリッサの上質なドレスを目掛けて盛大に傾けられた。それは、美しい婚礼前の令嬢の衣裳を汚し、人前で惨めに泣かせて恥をかかせようという、あまりにも陰険な一撃であった。


 ───パシャリ、と。数滴の雫が床の絨毯へと吸い込まれる、静かな音が響く。



「まぁ……! お怪我はなくて、メリッサ様?」



 仕掛けた令嬢は、すでにドレスが茶色く汚れたであろうメリッサの姿を想像し、勝ち誇った歪な笑みを浮かべて顔を上げた。


 ───しかし、そこに広がっていたのは、驚天動地の光景であった。


 メリッサの身に纏った純白のドレスには、一滴の染みすらついていなかったのである。



「ええ、恐れ入りますわ。神のご加護かしら、本当に偶然、運が良うございましたのね」



 メリッサは、ガラス細工のように美しいお淑やかな微笑みを崩さぬまま、可憐な声音でそう首を傾げてみせた。


 周囲の令嬢たちは「あら、奇跡的に逸れたのかしら?」と我が目を疑ったが、それもそのはずである。 お茶が注がれたまさにその刹那、メリッサは普通の令嬢よりも少しばかり優れている自前の身体能力と、抜群の反射神経をフルに稼働させていたのだ。



(───あら、危ないわ。でも、ちょっと右に重心をずらせば避けられそうね)



 メリッサは、周囲に一切の「無駄な動き」を悟らせぬ流麗な所作のまま、上半身の軸を僅か一センチだけスッと後ろへ引き、ドレスの裾をヒラリと美しく翻して、飛来する紅茶のすべてを自力で、完璧に躱しきっていたのである。


 あまりにも自然な、野生の勘による超絶回避。

 いささかも動揺せず、奇跡のような幸運を平然と微笑んで受け入れるメリッサの超然とした佇まいに、仕掛けた令嬢は悔しさに唇を噛み締め、サロンの令嬢たちもその完璧な隙のなさに圧倒されるばかりであった。


 そんななか、大公の寵愛を諦めきれない執念深い別の令嬢の一人が、青ざめた顔のままキッとメリッサを睨みつけた。



「……ふ、ふん! たかが運が良かったくらいで、いい気にならないことですわ、メリッサ様。仮に神のご加護でドレスの染みは免れても、殿方の『移り気な浮気心』までは躱せなくてよ?」



 令嬢はここぞとばかりに高慢な笑みを貼り付け、周囲の味方を煽るように扇子を広げた。



「ベルンシュタイン大公閣下が、あなたに一目惚れして熱烈に求愛されただなんて……ふん、社交界一のプレイボーイたるあのお方の、一瞬の気まぐれに決まっていますわ! あのお方が、そんな滅多に姿を現さない世間知らずな深窓の令嬢を、本気で愛し続けるはずがありません。今週末の夜会にも出席されるそうですし……きっと今頃は、あなたに飽きて別の妖艶な美女を口説くための洗練された策略でも練っていらっしゃるに違いありませんわ。すぐにそのお上品な化けの皮を剥がされて、惨めに泣きを見ることになりますわよ?」



 大公の華やかな女癖を突き、熱烈な求愛(一目惚れ)を「ただの気まぐれ」と貶めることで、可憐な令嬢を精神的にいたぶり、泣かせてやろうという最高に意地悪な精神攻撃。


 そんな勝手な勝ち誇りムードのサロンのなかで、先ほど美貌の暴力によって脳内自爆を遂げていたセレーナが、これこそが逆転の好機とばかりにガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。彼女は扇子で口元を隠し、これ以上ないほど傲慢で勝ち誇った笑みをメリッサへと向ける。


「そうですわ、メリッサ様。今週末に行われる、我がローゼンバーグ公爵家の夜会には大公閣下も出席いたしますの。世間知らずなあなたと違って、大公閣下の『本当の夜の甘やかさ』を熟知している私たちが一堂に会するのです。閣下が退屈な伯爵令嬢にいつまでもしがみついているはずがありませんわ。今週末、閣下が誰のエスコートをされ、誰の真珠を曇らせるのか、今から楽しみですこと!」



 自らの輝かしい未来(妄想)に酔いしれ、周囲の取り巻き令嬢たちと「そうですわ!」「閣下はすぐに私たちのところへ戻っていらっしゃるわ!」とクスクス笑いを共鳴させるセレーナ。



 だが───。

 これまでの人生で、裏表のない実直な軍閥の男たちしか見てこなかったメリッサは、この社交界の噂話と、先日のレストランでの現実との『凄まじい落差』に、再び新鮮な衝撃を受けていた。



(まぁ……! 社交界の噂話って、本当に一ミリもあてにならないのね。閣下が他の女性を口説く策略だなんて。あのお方、先日は格好をつけるのが馬鹿らしくなったと溜息をついて、『俺のプライドの死体が惨めになる』なんて素の口調で拗ねていたのよ? 挙げ句に私におねだりされて、諦めたように自分の好物の前菜をそっと差し出してくださるような、ずいぶんと調子の狂ったお優しいお方なのに……!)



 世間の抱く「冷徹なプレイボーイ大公」と、自分の前でだけ見せる「餌付け係のアルシード」のギャップを思い出し、メリッサは可笑しさが込み上げて仕方がなかった。もちろん、これを恋などという気恥ずかしい自覚はない。ただ、目の前の令嬢たちが大真面目に的外れな悪口を言っているのが、可笑しくて堪らないのだ。


 メリッサは、ガラス細工のように美しいお淑やかな微笑みを崩さぬまま、真っ直ぐなブルーの瞳を神々しく輝かせて、可憐な声音でこう言い返した。



「まぁ、皆様、そんなに閣下のことをお詳しいなんて凄いですわね。でも、ご心配には及びませんわ。閣下はとっても気さくで、お優しいお方ですの。私の前では、いつも飾らない『素の姿』で、楽しそうに笑ってくださいますのよ?」 



───それは、完璧な猫かぶりの皮を被った、無自覚かつ最凶のノロケであった。



「な、なによそれ……っ! 私たちの前では一度もそんな姿を見せたことがないのに……!」


「閣下が、素の姿で、笑う……!?」 



 気まぐれどころか、自分たちの前では決して見せない「特別な素顔」をメリッサだけに晒して楽しんでいるという、圧倒的な溺愛の事実。

 これ以上ない最高級の品格で、笑顔のまま決定的な敗北を叩きつけられた令嬢たちは、激しい眩暈に襲われたように一斉にその場によろめいた。



「嘘よ……あの冷徹な閣下が、そんな……っ」


「素の、姿……?ああっ……!」



 あまりのジェラシーと屈辱、そして衝撃の大きさに、扇子を落としてそのまま椅子へと崩れ落ち、本気で卒倒しかける令嬢が続出する始末。広大で豪奢なサロンはさながら、一撃で壊滅した戦場の如き惨状へと一変してしまった。


 傷つけるつもりが、完璧な笑顔のまま完膚なきまでにギャフンと言わされ、ショックで身も心も爆ぜてしまった令嬢たち。そんな、本物の敗北のどん底に叩き落とされたサロンのお嬢様方を、メリッサはどこまでも神々しい「帝国一の美女」の微笑を浮かべたまま、健やかに見つめ返すのであった。





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