黒薔薇の覚悟、白薔薇への憂慮
翌朝のベルンシュタイン大公邸・執務室。
窓から差し込むうららかな朝陽を浴びながら、アルシードは、机の上に広げられた山積みの公文書に万年筆を走らせていた。いつもならば迅速かつ完璧に処理されていく書類の数々であったが、今朝の彼の筆進みは、どうにも遅い。
(……いや、集中せねばならんのだがな)
自身にそう言い聞かせ、端正な顔を引き締めてペンを握り直す。───しかし、それから僅か数分と経たぬうちに、その漆黒の瞳は再び宙を見つめ、己の口元には社交用の作り物ではない、柔らかく温かい苦笑が零れ落ちていた。
どうしても、昨夜の隠れ家レストランの個室で過ごした、あの未知の生物(じゃじゃ馬)との可笑しな一瞬が脳裏をよぎって離れないのだ。
大公としてのプライドをかなぐり捨て、うっかり口を滑らせた「俺」という素の一人称。それを「新鮮で素敵だわ」とブルーの瞳をキラキラと輝かせ、フォークを咥えたまま悪戯っぽく笑っていたメリッサの、あの天真爛漫な表情。 自分の皿の好物を、躊躇なく、しかし本当に美味そうに略奪していったあの規格外の健やかな生命力。
(口説く気にもならんじゃじゃ馬だというのに……。あんな風に遠慮なく笑う女など、私の人生には一人もいなかったな)
これまでの百戦錬磨のプレイボーイ人生で、数多の淑女たちから注がれてきたのは、常に「完璧な大公閣下」への熱視線や媚びを含んだ微笑だけであった。だがメリッサの前では、格好をつければつけるほど惨めに砕け散る。それが酷く滑稽で、同時に、信じられないほどに心地よく羽を伸ばせたのだ。
アルシードは万年筆を置き、格式高い総革張りの執務椅子の背もたれに深く身体を預けると、可笑しさと名残惜しさが混ざり合った深い息を吐き出した。
───だが、そのあまりに穏やかで幸福な静寂は、無作法に響き渡った足音によって、最悪な形で叩き割られることとなる。
「相変わらず、締まりのない面をして書類仕事か。アルシード」
入室するなり、吐き捨てるような暴言を放ったのは、ガラルディア帝国の皇太子ジュリアンであった。
アルシードはすっと表情を消し、冷徹な大公の仮面を被り直すと、執務椅子から立ち上がることもなく漆黒の瞳を向けた。
「……これは皇太子殿下。事前の連絡もなく我が邸へお越しになるとは、いささか無作法が過ぎるのでは?」
「ふん、貴様のような男に礼儀など無用だ。それよりもアルシード、貴様、メリッサと偽りの睦み合いを演じているそうだな」
ジュリアンは歪んだ薄笑いを浮かべ、机に近づくと傲慢に胸を張った。
「あの帝国一の美女と謳われる可憐なメリッサが、お前のような腹黒い男を本気で慕うはずがない。高貴な彼女のことだ、きっと大公家の権力に怯え、涙を飲んで従っているに違いないのだ。私はあの可憐な薔薇が不憫でならん」
(───いや。ゆうべは私の前菜に照準を合わせ、鋼鉄の体幹の燃料だと満面の笑みで平らげていたが。涙など一滴も見ていないぞ)
アルシードは猛烈な胃の痛みを覚えながらも、決して口には出せない事実を心中で呆れ果てて呟いた。そんな彼の苦悩を知ってか知らずか、ジュリアンは懐から、贅を尽くした金縁の招待状をこれみよがしに机の上へと放り投げた。
「ローゼンバーグ公爵家から、お前宛ての夜会の招待状を預かってきてやった。名目は若き貴族たちの親睦会だが……ふん、大公閣下の『洗練されたお心』を射止めんと、名門の令嬢たちがこぞって美を競う、大変に華やかな宴になるそうだ」
ジュリアンは机に両手を突き、アルシードの顔を覗き込むようにして、陰険な笑みを深める。
「百戦錬磨のプレイボーイたる貴様だ、さぞや楽しい一夜を過ごせることだろう。せいぜいその夜会で浮名を流し、己の不実さを世間に証明するがいい。その隙に、私はメリッサの傷ついた心に寄り添い、その手から彼女を救い出してやる。いつか貴様を絶望の底に突き落とし、惨めに泣かせてやるからな、アルシード」
聞くだけで頭痛がしてくるような大真面目な宣戦布告を一方的に残し、皇太子ジュリアンは、再び嵐のように無作法な足音を立てて執務室を去っていった。
静寂を取り戻した室内のなか、アルシードはしばらくの間、天を仰いだ姿勢のまま硬直していた。
(───たわけが。本当に、この上ないほどのたわけが皇太子を名乗っているものだ)
アルシードは心底から疲れ果てたように、深く長い溜息を吐き出した。 ジュリアンが置いていった金縁の招待状───ローゼンバーグ公爵家主催の夜会。名目はどうあれ、その実態が「大公を美女で囲い込み、メリッサとの離間を狙う政争の罠」であることなど、一目見れば一瞬で察せられる。
「閣下。あのように品格を欠いたお言葉、深くお気になさる必要はございません」
音もなく机の傍らに進み出たのは、筆頭秘書官のハンスであった。その表情はいつものように至高の調度品の如く静謐でありながら、主への忠誠心に満ちている。
「皇太子殿下は、メリッサ様のあのお労しいほどの可憐さに目を奪われ、勝手な妄執を抱いていらっしゃるご様子。……実に見苦しい錯覚にございますね」
「……ああ、本当に見苦しい錯覚だよ、ハンス」
アルシードは頭を抱え、痛む胃を押さえながら、昨夜の「完敗」を思い出してぽつりと溢した。
(ハンス、お前の言う通りだ。あのたわけは、お前が『お労しいほど可憐』と信じて疑わないあの令嬢が、ドレスのまま二階の窓から木へ飛び移る驚異の身体能力を持っていることも、自分の前菜を躊躇なく略奪していく鋼鉄の体幹の持ち主であることも、一ミリも知らないのだからな。……いや、お前も知らないのだがな!)
ハンスのあまりにも純真で完璧な忠誠心にすら、心中でキレのあるツッコミを入れざるを得ないほど、アルシードの孤独な戦いは過酷であった。
「ですが閣下、ローゼンバーグ公爵家の夜会、これはいささか厄介にございます。殿下があのように息巻いている以上、閣下が出席を拒めば『不実の証明』として利用され、婚約の破棄を迫られる大義名分を与えかねません」
ハンスの指摘は、まさに筆頭秘書官たる冷徹な正論であった。アルシードは机の上の招待状を忌々しげに見つめる。
「……分かっている。私を夜会へ釘付けにし、その隙に公爵家と皇太子が連動して動き出す腹積もりだろう。私を美女で誘惑する裏で、彼らがメリッサ嬢にどのような揺さぶりをかけるつもりか、透けて見えるようだ」
アルシードは漆黒の瞳に鋭い光を宿らせた。自分の「盾」として巻き込んでしまった可憐なじゃじゃ馬に、不当な圧力がかかることだけは容赦ならなかった。
───いや、それだけではない。 普段は傲慢で、自分を嫌悪しているはずの皇太子が、わざわざ公爵家の招待状を直々に持参してきたのだ。その事実が意味する答えは、一つしかなかった。
(あのたわけめ……。己の歪んだ下心を果たすために、大公家を狙うローゼンバーグ公爵家と裏で手を結んだな)
公爵家はアルシードを夜会で嵌めて、オルブライト家との婚約を破談にしたい。皇太子はその醜聞を口実に、傷ついたメリッサを自分の手元へ囲い込みたい。お互いの利害が完全に一致した、極めて陰険で強固な包囲網である。
さすがのアルシードも、今回は冗談抜きで背筋に冷たいものが走るのを覚えた。自分の「盾」として巻き込んでしまった可憐なじゃじゃ馬に、帝国屈指の権力者たちが牙を剥こうとしているのだ。
「閣下。ローゼンバーグ公爵家が我が大公家を揺さぶる一手を打ってきた以上、その対抗馬であるハインリヒ公爵家も、決して黙ってはいないかと存じます。……早急に、メリッサ様への護衛と手回しを強固にせねばなりませんね」
ハンスがどこまでも主の「大人の純愛」を守るため、大真面目に有能な進言を重ねる。
「……ああ。ハンス、至急メリッサ嬢の動向を探れ。公爵家と皇太子が結託しているならば、私を夜会へ誘い出すのと同時に、彼女の元へも必ず何らかの『罠』が届けられているはずだ」
「はい、ただちに」
ハンスは流麗に一礼すると、主の危機を救うべく、完璧な迅速さで執務室を退室していった。
一人残されたアルシードは、机の上の金縁の招待状を睨みつけ、深く執務椅子に背を預けた。胃の奥がシクシクと焼け付くような痛みを訴えている。
(───メリッサ嬢…君を巻き込んだのは私だ。どんな卑劣な罠が迫ろうとも、大公の誇りにかけて、必ず私が君を守り抜いてみせる……!)
これまでのプレイボーイとしての虚飾を捨て、一人の男として、健気な彼女を守るための熾烈な政争へと身を投じる覚悟を決めるアルシード。
───だが。 この時のアルシードは、まだ知る由もなかった。
彼の心配を裏付けるかのように、時を同じくして、オルブライト伯爵邸のメリッサの元にも、一通の極めて不穏な書状がすでに届けられていたという事実を。
公爵家、そして皇太子。大公家を揺るがそうとうごめく巨大な陰謀の影が、静かに、しかし確実に二人の足元へと忍び寄っていた。




